日清食品の3代目社長・安藤宏基(あんどう・こうき)の立志伝です。
安藤宏基は、昭和22年(1947年)10月7日に大阪府で、日清食品の創業者・安藤百福(呉百福)の次男として生まれた。母は安藤仁子である。
安藤宏基が次男というのは、少し事情があるので、簡単に説明しておく。
父・安藤百福(呉百福)は在日台湾人で、当時の台湾は妾制度が習慣として残っており、安藤百福(呉百福)は台湾時代に2人の女性(正妻と妾)と結婚していた。
安藤百福(呉百福)は台湾の正妻・呉黄梅との間に、長男・安藤宏寿を儲けていたが、正妻と長男・安藤宏寿を台湾に残して、日本に来ていた。
そして、安藤百福(呉百福)は日本で安藤仁子と結婚したときに、長男・安藤宏寿を引き取った。
つまり、安藤宏基には、長男・安藤宏寿という異母兄が居るので、次男という扱いになるのだ。
さて、父・安藤百福(呉百福)は脱税で実刑判決を受け、懲役に服していたが、出所後、華僑向けの信用組合「大阪華銀」の理事長に就任した。
しかし、安藤宏基が小学3年生の時に信用組合「大阪華銀」が倒産し、理事長をしていた父・安藤百福(呉百福)は全財産を差し押さえられ、全てを失ってしまった。
それでも、父・安藤百福(呉百福)は事業意欲を失っておらず、家族に「ラーメン屋になる」と言い、借家の庭に小屋を建てて、即席麺「チキンラーメン」の開発を始めた。
それを聞いた安藤宏基は、屋台のラーメン屋でも始めるのかと思ったという。
さて、父・安藤百福(呉百福)が庭で飼っていた鶏をさばこうとしたとき、鶏が暴れ出して、飛び散った血が安藤宏基にかかった。安藤宏基はこれにショックを受けて、鶏肉も好物のチキンライスも食べなくなってしまった。
ところが、祖母・安藤須磨が鶏ガラでスープを作り、ラーメンを食べさせたところ、安藤宏基は喜んで食べた。
これを見た父・安藤百福(呉百福)は、即席麺「チキンラーメン」の味をチキン味に決めたのだという。
やがて、昭和33年(1958年)8月25日に発売された即席麺「チキンラーメン」は、当初は全く売れなかったようだが、突如として売れ始め、昭和34年(1959年)に大ヒットした。
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母・安藤仁子は教育に熱心で、安藤宏基は進学校の大阪学芸大学付属池田小学校(2001に無差別殺傷事件が起きた小学校)へ入学した。
当時は、ラーメン屋は失業者が仕方なくする職業というイメージだったので、安藤宏基は「お前の父親はラーメン屋」とからかわれ、よく喧嘩をして帰ってきた。父・安藤百福(呉百福)から「日本一のラーメン屋になるんだよ」と言われて、ようやく安心した。
あるとき、安藤宏基は自分よりも年下の子供たちを集めて、竹槍を担いで五木山へイノシシ狩りに出かけたら、本当にイノシシが出たので、おしっこを漏らして逃げ帰り、母・安藤仁子に「五月山のイノシシ捕りには2度と行くな」と叱られた。
安藤宏基は、そうとうなイタズラっ子で、色々なイタズラをしており、そのたびに母・安藤仁子が謝罪して回り、安藤宏基は厳しいお仕置きを受けた。
母・安藤仁子は怒ると鬼のように怖かったので、安藤宏基は母・安藤仁子を「鬼の仁子」と呼んで恐れた。
安藤宏基は、大阪学芸大学付属池田中学校と同付属池田校舎を経て、慶應義塾大学へと進学した。
高校時代はベンチャーズのコピーバンドを組んでいた。ベンチャーズ・コンクールで2位になるほどの腕前だったという。
安藤宏基は慶應義塾大学の合格祝いに三菱自動車のコルトを買って貰ったが、車が横転する程の事故を起こしてしまった。
安藤宏基は大けがをしたが、信心深い母・安藤仁子がくれたお守りのおかげでフロントガラスが割れずに済み、一命を取り留めた。フロントガラスが割れていれば、命は無かったという。
「出前一丁」は、発売前は「出前ラーメン」という名称だった。父・安藤百福(呉百福)は、「商品を1食1食、お客様の手元にお届けするという気持ちで作ろう」「出前は家で作るラーメンよりも上等」という発想から「出前ラーメン」という名前を考えたのである。
しかし、「出前ラーメン」では迫力が足りないということで、他にも色々と意見が出たが、良い案が浮かばないので、大学1年生の安藤宏基に声がかかった。
安藤宏基はヨット部に入っていたが、父・安藤百福(呉百福)は「ヨットよりもゴルフをやれ」と言い、安藤宏基をゴルフに連れて行った。
安藤宏基はそのとき、車の中で「言い名前を考えろ」と言われ、車の中に1時間半も監禁された。
それでも言い名前が浮かばず、ゴルフの最中も色々と言われたので、安藤宏基はヤケクソになって「出前の後に一丁を付けたらどうですか」と言った。
「一丁」というのは、ラーメンを注文したときに店員が「ラーメン一丁」と言う、あの「一丁」である。
「デザインを描いてみろ」というので、安藤宏基はその辺にあった汚い紙に、自転車に乗ってオカモチを下げる男のこの絵を描くと、翌日、プロによってキャラクターとしてデザインされ、正式に採用された。
安藤宏基は日清食品の社員ではなかったので、後になって、デザイン料を貰えば良かったと後悔した。
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安藤宏基は昭和46年(1971年)に慶應義塾大学を卒業すると、アメリカのコロンビア大学へ進学してマーケティングを学んでいた。
安藤宏基は、どうせなら、ということで、ウエストサイドのボロアパートに住んでいると、突然、父・安藤百福(呉百福)が来た。
父・安藤百福(呉百福)は取引先から、安藤宏基の行動を聞いたらしく、「ニューヨークの下町をほっつき歩いているそうじゃないか。そんな物騒なところに行ってはいかん。何かあったらどうするんだ」と注意して、根掘り葉掘りと追求した。
安藤宏基は、つい、エレベーターでナイフを突き付けられてお金を取られたことを話してしまい、父・安藤百福(呉百福)は「今すぐ出ろ」「ロサンゼルス工場へ行け」と怒りだした。
元々、父・安藤百福(呉百福)は「3人に聞けば分かる」と言い、市場調査にお金を掛けることが大嫌いだったので、「そんな理論ばかり勉強してもしょうがない。早く会社に入れ」と言い、マーケティングの勉強を反対していた。
結局、安藤宏基はコロンビア大学を1年で中退し、昭和47年(1972年)7月に現地法人「ニッシン・フーズ(アメリカ日清)」の取締役に就任し、副社長としてロサンゼルス工場で働くことになった。
ロサンゼルス工場はようやく3ヶ月前に生産が始まったばかりで、ゼロからのスタートだった。
取締役とは言っても名ばかりで、日清食品本社から「宣伝費は無い」と言われ、安藤宏基はロサンゼルスのスーパーをドサ回りして、カップラーメンを置いて欲しいと頼んで回った。
ところが、ロサンゼルス工場は想定していた売り上げの5倍の生産能力があり、瞬く間に在庫の山が積み増されていった。
それでも、安藤宏基は、日系食品企業で初のアメリカ進出という面目があったので、従業員を解雇せずに頑張っていたが、ストレスで胃潰瘍になってしまった。
それを知った父・安藤百福(呉百福)が飛んできて、「売れないような物は作るな」「従業員には帰休中も100%の給料を払いなさい」「給料を払えば恥にはならない」と言い、工場の従業員のほとんどを一時解雇して工場を止めた。
日清食品本社は「債務保証はしない。借入金は現地で調達せよ」と言うので、安藤宏基は苦労するが、父・安藤百福(呉百福)の助けもあり、3ヶ月で在庫を処理することができ、ロサンゼルス工場を再開することが出来た。
不思議なもので、在庫が無くなったとたんに売れるようになった。思い切って日系人が読む雑誌に広告を載せると、さらに売れ行きは良くなり、順調に売り上げを伸ばしていった。
安藤宏基は昭和48年(1973年)7月に日清食品に正式に入社し、海外事業担当となり、昭和49年(1974年)に取締役に就任し、海外事業部と開発部の部長を兼任した。
そのようななか、父・安藤百福(呉百福)は、資本金の2倍にあたる30億円を投じて工場を建設し、昭和50年(1975年)10月に「カップライス」を発売した。
試食会で「カップライス」は大絶賛の嵐で、「米作農業の救世主」とまで賞賛された。父・安藤百福(呉百福)はインスタントラーメン事業を他人に任せて、カップライス事業に専念すると言い出すほどだった。
ところが、「カップライス」は値段が高かったため、全く売れずに大失敗に終わる。消費者は、「カップライス」の隣に並んでいる即席麺を買っていくのだ。「カップライス」1個の値段で即席麺6個が買えたので、当然と言えば当然である。
そこで、安藤宏基は、メーカが消費者に商品を押しつけるのではなく、消費者の欲求に答えて商品を開発するべきだと考え、マーケティング部の設立を提案した。
父・安藤百福(呉百福)はマーケティングという学問が嫌いだったが、「カップライス」で大失敗した直後で弱気になったのか、マーケティング部の設立を認めた。
こうして、安藤宏基は昭和51年(1976年)に企画開発部門を統合してマーケティング部を設立し、初代部長に就任した。
ある日、神戸女学院の学長が母・安藤仁子に「息子さんのご結婚相手にふさわしい学生がいるので紹介したい」と言い、文化祭に招いた。
それを聞いた父・安藤百福(呉百福)は、自分も行くと言い、母・安藤仁子と安藤宏基の3人で、文化祭へ行ったが、何かの手違いで相手の女性は現れなかった。
学長は恐縮して「今日はたくさん学生が来ています。せっかくだから、いい人を見つけてください」と言ったが、父・安藤百福(呉百福)は機嫌が悪くなり、帰ることにした。
3人が校門に向かって歩いていると、向こうから荒牧淑子と友達が歩いてきた。
安藤宏基は、宇治金時を食べながら歩いていた荒牧淑子が気になったので、母・安藤仁子が荒牧淑子に自己紹介して名前を聞くと、友達の方が「安藤さんですか」と驚いた。
実は、安藤宏基の姉・安藤明美が甲南女子大学へ通っていた。荒牧淑子と友達も甲南女子大学の学生で、文化祭の見学で神戸女学院を訪れおり、友達の方が姉・安藤明美と同級生だったのである。
これが縁で安藤宏基は荒牧淑子と昭和51年(1976年)4月に結婚することになる。この結婚の1ヶ月後に「日清焼そばUFO」が発売された。
「日清食品の社長・安藤宏基の立志伝の後半」へ続く。
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