打倒カップヌードル・安藤宏基の立志伝

日清食品の3代目社長・安藤宏基(あんどう・こうき)の立志伝の後編です。

このページは「日清食品の社長・安藤宏基の立志伝」からの続きです。

焼きそばUFOの秘話

昭和50年(1975年)3月に、まるか食品がカップ麺「ペヤングソース焼きそば」が発売しており、昭和50年にカップ焼きそばが大流行した。

また、昭和50年に東洋水産がカップ麺「マルちゃんのカップ天ぷらそば」「マルちゃんの力ップうどんきつね」を発売して大ヒットさせた。

日清食品は、サンヨー食品に袋麺シェア1位を明け渡していたが、カップラーメン「カップヌードル」でインスタントラーメン業界のトップに君臨し、不動の地位を築いていた。

しかし、日清食品のカップラーメンは「カップヌードル」しかなく、「カップ焼そば」や「カップうどん」に対抗する商品が無かった。

特に「焼そば」は、汁物ラーメンの売れ行きが落ちる夏でも、売れていたため、即席麺業界では「冬はラーメン、夏は焼そば」という傾向が定着し、各社が新製品を投入する激戦区だった。

そこで、安藤宏基はいつまでも「カップヌードル」に頼ってはいけないと考え、「カップ焼そば」や「カップうどん」の開発に乗り出したのである。

そこで、色々と調査してみると、「焼きそばは皿で食べるもの。うどんは丼で食べるもの」という当たり前の結果が出たので、安藤宏基は皿形のカップ焼きそば(日清焼そばUFO)と、丼型のカップうどん(日清のどん兵衛)を作ることにした。

容器の形が決まると、安藤宏基は焼そばは炒めた時の香りで食べるものだと言い、「1ヶ月に何回も食べたくなるガツーンとくるに匂いしてくれ」と注文し、強力な匂いのソースを完成させた。

こうして焼そばが完成するが、名前が決まらなかった。そのようななか、会議の時に、何気なく容器の蓋を飛ばしてみると、蓋がスーッと飛んでいった。

それが未確認飛行物体(UFO)の様に見えた。当時の日本はUFOブームだったこともあり、その場で「焼きそばUFO」という名前が決まった。

父・安藤百福(呉百福)は「焼きそばUFO」という名前には何も言わなかったが、「焼きそばUFO」の想定原価がカップヌードルよりも原価が1.3倍だったため、原価が高すぎると言って怒った。

父・安藤百福(呉百福)は「陳列したときに場所を取るし、そんな名前では駄目だ」と反対したという話も残っている。

さて、安藤宏基も後には引かなかったので、父・安藤百福(呉百福)が折れる形で「焼きそばUFO」の発売が決まった。

安藤宏基は、「焼きそばUFO」の発売を1ヶ月後に控えた昭和51年(1976年)4月に荒牧淑子と結婚して新婚旅行でヨーロッパを訪れが、「日清焼そばUFO」「日清のどん兵衛」のことで頭がいっぱいで、妻の荒牧淑子にカラ返事ばかりしていたという。

そこへ、父・安藤百福(呉百福)から電話がかかってきて「UFOはイギリスの会社が著作権を持っていて、日本での商標権は東北新社が持っているらしい。すぐ帰ってきて交渉しなさい。でないと、権利侵害でえらいことになるぞ」と言われた。

安藤宏基は、日清食品の常務・砥上峰次に事前交渉を頼み、2週間の予定だった新婚旅行を10日で切り上げて帰国した。

東北新社はCM制作や映画配給を行う会社で、常務・砥上峰次が交渉した結果、使用料を払うことで使用承諾を得ることが出来た。

こうして、無事に「焼きそばUFO」が発売でき、これがきっかけで、東北新社が日清食品のCMを手がけることになった。

平成5年(1993年)の第40回カンヌ国際広告映画祭でグランプリを受賞した、カップヌードルの「ハングリー?」というCMを手がけたのも東北新社である。

さて、「焼きそばUFO」は販売初年で7000万食を売り上げ、焼きそば部門でシェア70%を占め、いきなりシェアトップとなった。

さらに、翌年の昭和52年(1977年)にピンクレデイーの曲「UFO」が大ヒット。映画「未知との遭遇」「スター・ウォーズ」のヒットもあり、「焼きそばUFO」はUFOブームの波に乗って売り上げを伸ばし、トップブランドの地位を確立した。

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日清のどん兵衛の秘話

「日清のどん兵衛」は、「日清焼そばUFO」の3ヶ月後の昭和51年(1976年)8月に発売された。

昭和50年(1975年)9月に東洋水産が日本初の「カップうどん」となる「マルちゃん・カップきつねうどん」を発売して大ヒットさせ、和風ブームが起きており、「日清のどん兵衛」はその対抗商品として開発された。

「日清のどん兵衛」を開発する時に問題となったのが汁だった。全国で統一した方が効率は良いが、関東は汁が濃く、関西は汁が薄いため、東西で味を分けることにした。

すると今度は、どこで東西に分けるかが問題になった。方言や文化の境目に関する研究はあるが、味覚については明確な文献が無いので、東京-大阪間の駅の立ち食い店や駅周辺のうどん屋を食べ歩いた。

その結果、うどんの汁の境目は、太平洋側では名古屋、日本海側では金沢だと判明したので、愛知県・三重県・岐阜県より東を濃口の汁にし、金沢より西を薄口の汁にした。

また、「どん兵衛」という名前も問題となった。「どん兵衛」は、「どんぶり」の「どん」に、昔の人の名前によくある「兵衛」を付けたものである。

しかし、大阪には「どんくさい」という言葉がある。「どんくさい」というのは、「にぶい」「のろまと」いう意味なので、父・安藤百福(呉百福)を初め、社内のほとんどが「どん兵衛」という名前に反対だった。

それでも、安藤宏基は、「どん兵衛」という名前には、ほのぼのとした人間的な暖かさがあって、うどんにはピッタリだと言い、「どん兵衛」で押し通して販売に踏み切った。

すると、「日清のどん兵衛」は山城新伍を起用したCMの効果もあって大ヒットし、西日本では、一時的ではあるが、カップヌードルの売り上げを超えたことあるほどだった。

東洋水産の社長・森和夫は、「マルちゃん・カップきつねうどん」を発売するとき、周囲から特許の取得を勧められていたが、「今更、うどんで特許もないだろう」と言い、特許を取得していなかったので、「日清のどん兵衛」の爆発的な売れ行きを目の当たりにして「特許を取っていれば」と悔しがった。

そして、東洋水産の社長・森和夫は、「日清のどん兵衛」の大ヒットによって販売戦略の変更を余儀なくされ、「マルちゃん・赤いきつね」と投入した。

これが「日清のどん兵衛」と「マルちゃん・赤いきつね」の争いの始まりである。

日清食品の社長に就任

安藤宏基は、マーケティング部長時代には「日清焼そばUFO」「日清のどん兵衛」の開発を手がけて両商品を大ヒットさせ、昭和54年(1979年)に常務取締役営業本部長に就任した。

そのようななか、昭和56年(1981年)6月に父・安藤百福(呉百福)が、副社長を務めていた長男の安藤宏寿に社長を譲って会長に退き、安藤宏基は代表取締役専務に就任した。

父・安藤百福(呉百福)の後継者は長男の安藤宏寿であり、次男の安藤宏基は安藤宏寿のサポート役だった。

安藤宏基自身もそれを自覚しており、異母兄・安藤宏寿を補佐して、海外事業を発展させようと考えており、自分が社長になるとは考えていなかったという。

しかし、2年後の昭和58年(1983年)に、父・安藤百福(呉百福)が長男の安藤宏寿を社長から解任して、自ら社長に復帰した。安藤宏基はこれに伴って副社長に就任した。

父・安藤百福(呉百福)が長男の安藤宏寿を解任した理由は明かされていないが、長男の安藤宏寿はインスタントラーメン事業には熱心では無かったため、業を煮やした父・安藤百福(呉百福)が長男の安藤宏寿を解任して社長に復帰したと言われる。

それから2年後の昭和60年(1985年)、父・安藤百福(呉百福)は安藤宏基に社長を譲った。

このとき、既に日清食品は登場1部に上場する大企業に成長していたので、世襲への批判が起きた。

しかし、父・安藤百福(呉百福)は、世襲制への批判に対して、安藤宏寿はチキンラーメンの開発から携わっており、経験が一番長く、即席麺の知識も一番深いと言い、「器にあらざる者を、その器にすえると、本人も周囲も不幸になる。もし、他に優秀な人材が居るなら、いつでも登用する」と答えた。

カップヌードルをぶっ潰せ

安藤宏基は、正式に言えば日清食品の3代目社長だが、2代目社長を務めた異母兄・安藤宏寿の在任期間が2年と短かったので、「2代目社長」を自称している。

ところで、安藤宏基はマーケティング部長時代に、日清食品は新製品の割合が低いことを不思議に思って調べみると、カップヌードルやチキンラーメンの利益を優先するため、新製品の開発が進んでいないことが分かった。

新商品を開発して売り上げが伸びても、共食いになって、カップヌードルやチキンラーメンの売り上げが減れば、利益が減るので、積極的に新製品を開発していなかったのだ。

そこで、安藤宏基は社長に就任すると、「打倒カップヌードル」を社内スローガンに掲げて組織改革に取りかかったが、社員への訓示の時に勢い余って「カップヌードルをぶっ潰せ」と言ってしまったため、創業者の父・安藤百福(呉百福)を激怒させた。

安藤宏基は「社内からカップヌードルを、ぶっ潰すような商品を沢山作ることが目的です。日清食品の中に、ペプシコーラとコカコーラを2つ持てば最強の会社になれるでしょう」と釈明した。

説得に2、3ヶ月もかかったが、父・安藤百福(呉百福)が何も言わなくなったので、安藤宏基は父・安藤百福(呉百福)が承諾したものと理解して、社内改革を始めた。

さて、父・安藤百福(呉百福)はマーケティングを信用していないので、安藤宏基の経営方針が気に入らず、仕事のことで度々対立し、そのとっばっちりを母・安藤仁子が受けていた。

しかし、安藤宏基は母・安藤仁子のことを思い、創業者の話を聞くことも自分の仕事だと考え、父・安藤百福(呉百福)の話を聞くようになると、父・安藤百福(呉百福)の考えも分かり、対立が収まっていった。

それでも、安藤宏基と父・安藤百福(呉百福)の口論は、父・安藤百福(呉百福)が亡くなる半年前まで続いていた。

なお、安藤宏基が日清食品の社長に就任したことについては、アンチ日清食品の急先鋒と言われる東洋水産の森和夫も、「宏基さんは紳士だ。あの人がトップになったことで,業界全体が良い感じになってきつつある」と賞賛した。

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その後

安藤宏基は、ブランドごとに責任者を置くブランドマネージャー制を採用し、マネージャーごとに競争させた。

ブランドマネージャーごとに競争させることで、無駄な仕事や軋轢を生んだが、平成4年(1992年)に生タイプ麺の「日清ラ王」と、1口サイズの即席麺「マグヌードル」を発売して大ヒットさせ、業績を伸ばした。

ただし、失敗作も多く、ほとんどの商品は短命に終わり、父・安藤百福(呉百福)は「こういうのを、下手な鉄砲数打ちや当たると言うんだ」と小言を言った。

そうした一方で、安藤宏基はカップラーメンの容器から環境ホルモンが出るという問題に対して、真っ向から対立。嵐が過ぎ去るのを待つべきだという業界内の意見を押し切り、環境ホルモンを否定する公告を出した。

しかし、環境ホルモンの問題が科学的に解明されていない段階で公告を出したため、反論が相次いだ。

また、日清食品は「チキンラーメン」の商標登録の更新手続きを忘れ、商標権を喪失してしまう。

森永製菓は商標権が無いことを確認してスナック菓子「おっとっと・チキンラーメン味」を発売したが、日清食品が森永製菓を不正競売防止法に基づき、大阪地裁に提訴し、平成4年(1992年)に森永製菓と日清食品が対立した。

また、バブル期に子会社の日清ファイナンスで失敗や東洋水産との争いなど、波乱が続いた。

その後、平成20年(2008年)に日清食品ホールティンズスが設立され、日清食品は子会社という扱いになった。

安藤宏基は、日清食品ホールティンズスの設立に伴い、同社の代表取締役社長・CEOに就任し、子会社・日清食品の社長を中川晋に譲った。

安藤宏基は、平成30年(2018年)10月の時点で日清食品ホールティンズスの代表取締役社長・CEOを務めており、存命である。

また、安藤宏基の長男・安藤徳隆が、平成27年(2015年)4月に子会社・日清食品の6代目社長に就任している。

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