坂野惇子・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子の談合

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子の立志伝を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第14話「坂野惇子・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子の談合」です。

このページは坂野惇子の立志伝の第14話です。これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」からご覧ください

坂野惇子が田村枝津子(田村江つ子)を誘う

昭和23年(1948年)春、生活の苦しい坂野惇子は、履いていなかったハイヒールを売却してもらうため、モトヤ靴店を訪れたが、モトヤ靴店の店主・元田蓮にハイヒールの売却を断られてしまう。

ところが、坂野惇子の持っていた手製の写真入れや手提げ袋がモトヤ靴店の店主・元田蓮の目に止り、店主・元田蓮から、店のショーケースを貸すので手芸店を開かないかという提案を受けた。

思いもよらない提案に感激した坂野惇子は、甲南高等女学校(甲南女子大学)時代からの親友・田村枝津子(田村江つ子)に手芸店を開くことを相談した。

坂野惇子は、アップリケで有名な甲子園の北島政子から手芸を学び、その後は「立体裁断の鬼」「伊東式の型紙」で有名なデザイナー伊東茂平の洋裁学校を卒業し、「甲南家政のお洒落番長」と呼ばれる木川章子にも洋裁を学んでいた。

一方、田村枝津子(田村江つ子)もアップリケで有名な北島政子の門下生で、後に「皇后陛下のデザイナー」となる田中千代の個人授業を受けたほか、「甲南家政のお洒落番長」と名高い木川章子にも師事しており、洋裁には覚えがあった。

田村枝津子(田村江つ子)は、阪東式調帯合資会社(東証一部上場「バンドー化学」)を創業した榎並充造の次女で、立志伝を成し遂げた富豪の娘だったが、戦後は坂野惇子と同様に苦しい生活を続けており、家計を助けるために何かしなければならないと思っていたところだった。

そこへ、親友・坂野惇子から手芸店を出す相談を受けたので、田村枝津子(田村江つ子)は手芸店を出す事に賛成し、義姉(夫の姉)の田村光子にも相談しようと提案した。

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田村光子が加わる

田村光子は、洋反物問屋「田村駒」を創業して一代にして巨万の富を築いた初代・田村駒次郎の長女として生まれたが、厳しい古い仕来りが残る商家で苦労する母・田村フクを目の当たりにしていたので、商家との結婚を嫌い、サラリーマンとの結婚を希望した。

そして、田村光子は昭和4年(1929年)に安田信託に勤務していた田村陽(飯田陽)と結婚して、4人の子供を儲け、ひとまず幸せな結婚生活を送っていた。

しかし、戦争によって幸せな生活は一転。第二次政界大戦のとき、夫の田村陽(飯田陽)は召集を免れたものの、神戸大空襲によって兵庫県神戸市東灘区岡本の自宅が被災してしまう。

その後、田村光子は住吉川の知人宅を借用して家族と移り住んだが、この借家も空襲によって被災したため、神戸大空襲で被災した兵庫県神戸市東灘区岡本の自宅に戻り、焼け残っていた土蔵の中で終戦を迎えた。

そして、田村光子は「甲南家政のお洒落番長」として有名な木川章子の第1の門下生として洋裁に覚えがったので、戦後、いち早く、人から頼まれて洋裁の仕事を開始していた。

田村光子も富豪の娘であったが、坂野惇子や田村枝津子(田村江つ子)と同様に戦後は苦しい生活を強いられており、坂野惇子と田村枝津子(田村江つ子)から手芸店を開く相談を受けると、それに賛成し、3人で手芸店を開く相談がまとまった。

そして、それぞれの夫に相談すると、坂野惇子の夫・坂野通夫も、田村枝津子(田村江つ子)の夫・田村寛次郎も、田村光子の夫・田村陽(飯田陽)も、妻が仕事を持つことに賛成した。

そこで、坂野通夫・田村寛次郎・田村陽が集まって話し合い、妻を支援することで意見が一致し、手芸店を開くための具体的な話し合いを始めたのであった。第15話へ続く。

坂野惇子の立志伝の第15話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」からご覧ください。

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