朝ドラ「べっぴんさん」の主人公・板東すみれ(芳根京子)のモデル坂野惇子(佐々木惇子)が坂野通夫と結婚する理由です。
坂野惇子(佐々木惇子)が夫となる坂野通夫と出会ったのは、昭和10年(1935年)2月のことだった。
坂野惇子(佐々木惇子)は甲南女学校4年生(当時18歳)で、坂野通夫は甲南高校1年生(当時20歳)のことである。
(注釈:当サイトの年齢は「数え」表記なので、実年齢は2歳引いてください)
昭和10年(1935年)2月、坂野通夫と坂野惇子(佐々木惇子)は、ぞれぞれのグループで神鍋スキー場へスキーに出かけた。
そして、坂野通夫は北の急斜面を何度も転びながらも勇敢に滑る女性を見て感心した。その女性が坂野惇子(佐々木惇子)だった。
その日、坂野通夫はスキー場からの帰りのバス(トラック)で、坂野惇子(佐々木惇子)のリュックの紐が解けていたのに気づき、リュックの紐を結んでやった。
これが、坂野通夫が坂野惇子(佐々木惇子)と初めて交わした言葉であり、このリュックの紐が「赤い糸」となり、2人は交際を開始しすることになる。
なお、このときのグループから、坂野惇子(佐々木惇子)らを含めて3組のカップルが誕生し、いずれも後に結婚したという。
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坂野通夫はガキ大将として育っており、「浜(芦屋)に遊びに行くぞ」と言って甥っ子達を引き連れて浜辺に遊びに行くのだが、遊びに行く先に、なぜか、いつもべっぴんさんな女性が居た。
そう、このべっぴんさんこそが、坂野惇子(佐々木惇子)だった。
遊びに連れて行ってもらっていた甥っ子が、「デートのダシに利用されてたのか!」と気づくのは、もう少し後である。
こうして、坂野惇子(佐々木惇子)は坂野通夫と密かに愛想育んでいき、甲南女学校のガールズトークで、親友の田村江つ子(榎並江つ子)も、ときどき、坂野通夫の名前を聞くようになる。
坂野惇子(佐々木惇子)の姉・佐々木智恵子(三浦智恵子)は、東京の子爵・三浦義次に嫁いでおり、東京に住んでいた。
このころ、坂野惇子(佐々木惇子)の父・佐々木八十八は貴族院議員をしており、議会の開会中はもちろんのこと、議会の閉会中も好んで東京の三浦家に滞在していた。
そこで、父・佐々木八十八と姉・佐々木智恵子(三浦智恵子)が、坂野惇子(佐々木惇子)にも上京を勧めたので、坂野惇子(佐々木惇子)は甲南女学校を卒業すると、上京して東京の三浦家に居候しながら、東京女学館高等科の聴講生となり、2年間を東京で過ごした。
一方、坂野通夫は甲南高校を卒業して京都帝国大学(京都大学)へと進学したため、坂野惇子(佐々木惇子)と坂野通夫は離ればなれとなり、遠距離恋愛となった。
坂野通夫は京都帝国大学に進学してエリートコースを歩んだが、大学を卒業しても兵隊に取られてして戦死する人も多いことから、あまり勉強には身を入れず、学生生活を楽しんだ。
やがて、2人の交際は父・佐々木八十八の知るところとなり、正式に交際が認められるようになる。
さて、この時代は卒業・結婚・就職・徴兵が1セットになっていたので、坂野通夫は京都帝国大学の卒業を控えた昭和14年(1939年)5月に佐々木惇子(坂野惇子)と正式に婚約した。
一説によると、当時の自由恋愛で結婚するのは1割以下である。しかも、両家のお嬢様となれば、仲人を立てて結婚を申し込むのが普通であり、自由恋愛は無いと言って等しい。
しかし、父・佐々木八十八は先進的で民主的な考え方の持ち主だったため、佐々木惇子(坂野惇子)と坂野通夫の結婚を認めたのである。
そして、卒業すれば徴兵が待っているので、父・佐々木八十八が徴兵されるまでの間は青春を楽しめるように取りはからってくれ、坂野通夫と佐々木惇子(坂野惇子)は、夏は軽井沢の別荘へ行ったり、冬はスキーへ行ったりして青春を楽しむことが出来た。
しかし、未だに病気や怪我に対する父・佐々木八十八の心配性は治らず、佐々木惇子(坂野惇子)は包帯や薬を持たされたうえ、必ず佐々木家からお手伝いさんが付いてまわった。
坂野惇子(佐々木惇子)は後に、この婚約時代が何も心配するこなく楽しめた青春時代であった、と回想している。
さて、坂野通夫は、婚約した翌年の昭和15年(1940年)4月に京都帝国大学を卒業して大阪商船(商船三井)に入社した。
翌月の昭和15年(1940年)5月に坂野惇子と結婚し、神戸の外国人村(兵庫県神戸市東灘区岡本)に居を構えた。坂野通夫が25歳、坂野惇子が23歳のことである(注釈:表記は数え年です)。
さいわいなことに、坂野通夫は中学時代に肺膜炎の病気を患った事があり、徴兵検査のレントゲン撮影で肺に影が出たため、乙種として兵役を免れていた。
このため、2人は、ひとまず、幸せな新婚生活をおくることができた。
しかし、2人が結婚した翌年の昭和16年(1941年)12月に日本は真珠湾攻撃を行って第二次世界大戦に参戦し、国民の生活はますます厳しくなっていく。
こうして、アンタンとした時代を迎えるなか、昭和17年(1942年)10月13日に待望の長女・坂野光子が生まれた。
しかし、苦しいながらも幸せな生活は束の間だった。日本の戦況は刻一刻と悪化しており、乙種として徴兵を免れていた坂野通夫は、長女・坂野光子が生まれた1年後の昭和18年(1943年)10月に海軍の嘱託してジャカルタへと派遣されるのであった。
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