ベビーショップ・モトヤの決算に坂野惇子が悶絶

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第19話「ベビーショップ・モトヤの決算に坂野惇子が悶絶した理由」です。

これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」からご覧ください

ベビーショップ・モトヤの決算

戦後で粗悪品が横行していた時代に、坂野惇子が創業した「ベビーショップ・モトヤ」は良質な子供服を作って販売していたので、商品は創業初日から飛ぶように売れた。

ベビーショップ・モトヤは、製造が全く追いつかず、商品不足という危機に陥ったが、坂野惇子が思いついたキャンディーを入れたクリスマスベルや、坂野通夫が考案したオモチャのバケツがヒットし、ひとまず、クリスマスと年末を乗り、昭和24年(1949年)の正月を迎えた。

創業から1ヶ月、働きづめであった坂野惇子・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子も、正月は店を休み、ようやく一息つくことが出来た。

「ちょうど良い機会だから、決算してみましょうよ」

そう言ったものの、商売の素人である坂野惇子らに決算の知識など無いので、夫らに手伝ってもらい、ベビーショップ・モトヤが営業を開始して最初の1ヶ月の収支を出してもらいました。

やがて、坂野通夫は呆れるように言った。

「これじゃ毛玉2つ分だな」

「え?・・・毛玉2つ分?」

坂野惇子らはその収支を聞いて驚いた。数ヶ月間、馬車馬のように働き、あれだけ商品を売ったのに、儲けはわずかに毛玉2つ分だったのである。

それもそのはず、坂野惇子らは洋裁に覚えたがったので、良質な子供服は作る事ができたが、商売に関してはド素人だったので、商売については何も分かっていなかったのだ。

それに、坂野惇子はお嬢様育ちだったので、原価を知ってしまうと、高い値段を付ける事に罪悪感を感じてしまい、高い売値を付けられなかったのである。

田村光子は創業メンバーのなかで唯一、田村駒という商家に生まれ育ったので、商売の事が分かっており、原価に利益を乗せた値段を付けていた。

坂野惇子は、田村光子の所から上がってくる商品には初めから値札が付いていたので、安心して売れるという有様だった。

販売責任者の坂野惇子は、バザーでしか物を売ったことがなかったので、経費などの概念がなく、その日の売り上げが全て利益と思っていたおり、利益が毛玉2つ分という事実にショックを受けた。

「べつに、損したわけじゃないから」

夫・坂野通夫らが呆れるなか、坂野惇子らは、そう言って慰め合った。

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坂野惇子に呆れる家主の元田蓮

さて、そうした状況に驚いたのが、坂野惇子らにショーケースを間貸ししている靴屋「モトヤ靴店」の店主・元田蓮だった。

坂野惇子らは、家賃を売り上げ歩合制で払うことになっていたので、ベビーショップ・モトヤの売り上げを全て元田夫人に渡していた。

このため、店主・元田蓮は坂野惇子らが原価ギリギリで商売をしている事を知ったのである。

驚いた店主・元田蓮は、家賃や経費を払わなければならないこと、売れ残る商品があること、中には商品が盗まれることもあること、など商売の基本をかみ砕いて教えた。

「商売って難しいのね」

坂野惇子は店主・元田蓮に商売の基本を教えてもらい、商売の難しさを痛感したのであった。

こうした状況を見かねた坂野通夫と田村陽(飯田陽)は、仕事帰りにベビーショップ・モトヤに立ち寄り、帳簿の付け方を教えた。

このころ、「田村駒の田村駒治郎を逮捕」で紹介したように、2代目・田村駒治郎が田村駒の社長を辞任し、弟の田村寛次郎が田村駒の社長代行を務めており、田村寛次郎は非常に多忙だったが、週末はベビーショップ・モトヤに立ち寄り、伝票の切り方を教えた。第20話へ続く。

坂野惇子の立志伝の第20話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」から選んでください。

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