NHKの朝ドラ「べっぴんさん」の「ベビー相談室」とファミリアの実話です。
戦後、坂東すみれ(芳根京子)・多田良子(百田夏菜子)・田坂君枝(土村芳)・小野明美(谷村美月)の4人は、靴店「あさや靴店」の一角を借り、「ベビーショップ・あさや」を創業した。
「ベビーショップ・あさや」は、そこそこ繁盛したので、板東すみれ(芳根京子)らは日々、商品作りに励んでいたが、商品を買ってくれるのは知人ばかりだった。
そこで、板東すみれ(芳根京子)は客層を広げるため、父・坂東五十八(生瀬勝久)に相談すると、坂東五十八(生瀬勝久)から「店の売り文句を3つ言えなければならない」と指摘される。
板東すみれ(芳根京子)は「母親の気持ちが分かる」「赤ちゃんのために、作り方にこだわり、良い生地を使っている」と答えたが、3つ目が出なかった。
そのようななか、店に来た客・綾子が「時子の子供の夜泣きが止らない」と話していると、元ベビーナースの小野明美(谷村美月)が「蒸れてるからではないか」と教えた。
それを聞いた板東すみれ(芳根京子)は、代金が貰えない事を承知で、時子に通気性の良い肌着を渡した。
数日後、時子は子供の夜泣きが収まったので、「ベビーショップ・あさや」を訪れ、肌着をくれた板東すみれ(芳根京子)にお礼を言った。
それを見ていた靴店「あさや靴店」の店主・麻田茂男(市村正親)が「まるでベビー相談室ですな」と笑うと、それを聞いた板東すみれ(芳根京子)は、自分たちの売りの3つ目として、無料の「ベビー相談室」を開くことを思いついた。
こうして、板東すみれ(芳根京子)は、「ベビーショップ・あさや」で無料のベビー相談室を開いた。
元ベビーナースの小野明美(谷村美月)のアドバイスは的確で、大勢の相談者がベビー相談室に詰めかけた。
ベビー相談室は無料だったこともあり、相談者の大半はベビー服を買えない人たちで、利益には結びつかなかったが、板東すみれ(芳根京子)はそれでも良いと思っていた。
ところが、ベビー相談室にあまりにも大勢の相談者が詰めかけるようになったため、靴店「あさや靴店」の業務に支障が出るようになってしまった。
そこで、板東すみれ(芳根京子)は、「あさや靴店」の2店舗隣が空き店舗になった事を切っ掛けに、「あさや靴店」を出て空き店舗へと移って、子供用品店「キアリス」を設立することになるのであった。
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朝ドラ「べっぴんさん」に登場する看護婦・小野明美(谷村美月)の実在のモデルは、ベビーナース・大ヶ瀬久子です。
ベビーナースの大ヶ瀬久子は、戦前から外国人医師の元で外国人を専門に育児指導をしており、ファミリア創業者・坂野惇子の長女・坂野光子が生まれたときに、オーツ婦人の紹介で坂野惇子に育児指導を行いました。
西洋式の育児法は、日本古来の育児法と違い、1つ1つが医学や心理学に基づき、赤ちゃんの事が考えられていました。
このとき、ベビーナース・大ヶ瀬久子から学んだ事が、「ベビーショップ・モトヤ」や「ファミアリア」の基礎となっており、ファミリアは当初より、西洋式の育児法の普及に努めました。
しかし、当時は正方形のオシメや新しい育児用品に対する抵抗は、とても激しかったのです。
そこで、ファミリアは昭和27年(1952年)4月に阪急百貨店で行われた第1回「子供ショー」で、育児指冊子「ファミリア・ガイド」を無料で配布しました。これは大きな反響を呼び、他社も冊子を配布するようになりました。
さらに、ファミリアは、昭和36年(1961年)にベビー・ナースの大ヶ瀬久子をベビー・コンサルタントとして招きました。大ヶ瀬久子は、明治33年(1900年)生まれなので、60歳を越えてからファミリアに参加したのです。
ベビー・コンサルタントは出産の準備について相談を受けるファミリアの専門スタップで、大ヶ瀬久子は同じくベビー・ナースとして活躍していた岡本記代子・下岡仲子とともにファミリアのベビー・コンサルタントとして活躍しました。
また、大ヶ瀬久子らベビーコンサルタントは、ファミリアの育児相談員の育成にも尽力しました。
ファミリアはこうして、正しい育児法の啓発活動にも力を入れており、朝ドラ「べっぴんさん」の「ベビー相談室」は、こうした実話がモデルになっているものだと思われます。
朝ドラ「べっぴんさん」の「ベビーショップ・あさや」は、大勢の相談者がベビー相談室に詰めかけるようになり、「あさや靴店」に迷惑を掛けるようになったことから、独立して子供用品店「キアリス」へと発展しました。
この「ベビーショップ・あさや」が独立する経緯の実話も紹介しておきます。
戦後、坂野惇子ら女性4人は、神戸・三宮センター街にある靴店「モトヤ靴店」のショーケース2台を借りて、「ベビーショップ・モトヤ」を創業しました。
坂野惇子らは創業当時から良質な商品を作ってこともあり、「ベビーショップ・モトヤ」は開店した日から大忙しでした。
このようななか、「モトヤ靴店」の店主・元田蓮は、上品な女性客が来るようになったことから、上品な女性客にも靴を買ってもらおうと、奥の作業所を潰して応接室に作り替えたのです。
ところが、坂野惇子らは良き部屋が出来たと思い、店主・元田蓮が作った応接室を事務所や作業場として使い、占領してしまったのです。
流石に困った店主・元田蓮は、同じ三宮センター街で空き店舗を見つけてきて、坂野惇子に独立を勧めたのですが、坂野惇子は「動くのは嫌。絶対に嫌」と言って断固として拒否しました。
店主・元田蓮は、坂野惇子の実家・佐々木家に出入りしていた靴職人で、佐々木八十八に感謝していたため、それ以上、強くは言えず、独立の話は立ち家になってしまいました。
その後、モトヤ靴店の西側に隣接していた万年筆店が移転したため、空き店舗となりました。
この万年筆店は、壁で仕切られていましたが、屋根続きで、裏口も共通でした。しかも、万年筆店の家主は店主・元田蓮でした。
そこで、店主・元田蓮は何とか坂野惇子を説得して万年筆店へと移ってもらい、「ベビーショップ・モトヤ」を追い出すことに成功したのです。
こうして、「ベビーショップ・モトヤ」の創業から1年後に、坂野惇子らは万年筆店で独立したのです。
その直後のことです。万年筆店の北側にあったレナウン・サービス・ステーションが撤退するという噂が伝わって来ました。
レナウン・サービス・ステーションは、佐々木営業部(レナウン)の衣類小売店で、大阪で成功して神戸へと移転してきたのですが、綿が配給制という時代だったので、繊維問屋の佐々木営業部が衣類小売店に進出する事に対して批判が起り、開業した直後に撤退へと追い込まれてしまったのです。
そこで、坂野通夫と田村寛次郎は、坂野惇子にレナウン・サービス・ステーションへ移って本格的に商売する事を勧めました。
坂野惇子は、佐々木営業部の社長・尾上清からレナウン・サービス・ステーションを買い取る形で譲り受け、レナウン・サービス・ステーションへ移ってファミリアを設立したのでした。
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