坂野惇子(ばんのあつこ)の立志伝

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(ばんのあつこ)の立志伝です。

坂野惇子(ばんのあつこ)の立志伝

坂野惇子(佐々木惇子)の画像坂野惇子(ばんのあつこ)は大正7年(1918年)4月11日に、兵庫県神戸市住吉で、佐々木八十八(ささきやそはち)の3女(末娘)として生まれた。

佐々木八十八は、繊維問屋「佐々木営業部(レナウン)」の創業者で、裕福な家庭に生まれた坂野惇子は何不自由の無い生活を送った。

坂野惇子は甲南高等女学校(甲南女子大学)の1年生の時に、後にファミリアの創業メンバーとなる田村江つ子(榎並江つ子)と出会い、親友となる。

さらに、坂野惇子は甲南高等女学校(甲南女子大学)4年生のときに、後の夫・坂野通夫と出会い、交際を開始する。

そして、甲南高等女学校(甲南女子大学)を卒業後、父・佐々木八十八と姉・佐々木智恵子(三浦智恵子)に誘われて上京し、東京女学館高等科の聴講生となり、2年間を東京で過ごした。

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結婚と新婚生活

昭和14年(1939年)、坂野惇子は、京都帝国大学に在学中の坂野通夫と婚約する。

翌年の昭和15年(1940年)4月に坂野通夫は京都帝国大学を卒業し、大阪商船(商船三井)へ就職した。

そして、翌月の昭和15年(1940年)5月12日に坂野惇子と坂野通夫は結婚し、神戸の外国人村(兵庫県神戸市東灘区岡本)に居を構えた。

結婚後、犬を散歩させていた坂野惇子と坂野通夫は、村井ミヨ子(中井ミヨ子)に「子犬、要りませんか?」と声を掛けた事がきっかけで、村井ミヨ子と出会う。

坂野惇子は昭和17年(1942年)10月13日に長女・坂野光子を出産し、イギリス人のドーツ婦人の紹介で外国人専門のベビーナース大大ヶ瀬久子に来てもらい、3ヶ月間にわたり、西洋式の育児法を学んだ。

坂野通夫の出征と疎開

刻々と戦況は悪化しており、夫・坂野通夫は昭和18年(1943年)10月に海軍の嘱託となり、インドネシアの首都・ジャカルタへと派遣された。

昭和19年(1944年)、坂野惇子は、坂野光子を連れて軽井沢の別荘へ荷物を運び込んで疎開するが、軽井沢の別荘はサマーハウス(夏用の建物)だったので、幼い坂野光子と共に別荘で冬を越すのを不安に思い、同年10月に外国人村(兵庫県神戸市東灘区岡本)の自宅へ戻る。

しかし、坂野惇子は、終戦間近に行われた昭和20年(1945年)6月5日の神戸大空襲によって神戸の自宅を焼失してしまった。

このとき、東京の三浦家に嫁いでいた姉・佐々木智恵子(三浦智恵子)が東京の空襲で被災し、岡山県勝山町の勝山藩旧藩邸に疎開していた。

このため、被災した坂野惇子は、疎開している姉・佐々木智恵子(三浦智恵子)の元に身を寄せ、岡山県勝山町で終戦を迎えた。

ジャカルタに派遣された夫・坂野通夫の消息は不明で、坂野惇子は幼い坂野光子を抱えたまま不安な日々を送った。

戦後、ベビーショップ・モトヤの創業

終戦の翌年、昭和21年(1946年)4月に夫・坂野通夫が無事に帰国。坂野惇子と坂野通夫は同年5月に疎開先を引き払い、兵庫県尼崎市塚口の借家へと移り住んだ。

夫・坂野通夫は無事に帰ってきたが、坂野惇子は戦争で全てを失っており、生活用品も買えないような苦しい生活を送る。

昭和23年(1948年)春、坂野惇子は、身の回りの物を売って食料を買う「売り食い」を続けており、ハイヒールを売却するため、靴店「モトヤ靴店」を訪れた。

しかし、このハイヒールはモトヤ靴店の店主・元田蓮が、坂野惇子のために作ったハイヒールだったので、店主・元田連から「これだけはお売りにならないでください」と懇願されてしまう。

このとき、坂野惇子が持っていた手作りの写真入れやカバンが店主・元田蓮の目に止り、店主・元田蓮から「ショーケースを貸すので、こういう手製の物を作ってはどうか」と提案を受けた。

思いもよらない提案に喜んだ坂野惇子は、親友の田村江つ子(田村枝津子)に相談すると、田村江つ子(田村枝津子)は義理の姉(夫の姉)・田村光子に相談しようと言った。

こうして、3人で話し合いが行われ、手芸店を出店する事で話し合いがまとまると、それぞれの夫に相談する。

すると、坂野惇子の夫・坂野通夫も、田村江つ子(田村枝津子)の夫・田村寛次郎も、田村光子の夫・田村駒治郎も妻が仕事を持つ事に賛成し、夫同士が集まって手芸店を開店するための具体的な相談を始めた。

さて、当初、坂野惇子は単なる手芸店を出店する予定だったが、父・佐々木八十八や夫・坂野通夫のアドバイスを受け、覚えた西洋式の育児の知識を生かし、どこにも売っていないような特別な子供服を作る店を出店する事にした。

田村江つ子(田村枝津子)も田村光子も賛成してくれ、早速、商品作りを開始した。

坂野惇子は村井ミヨ子にも参加を呼びかけており、村井ミヨ子も商品作りの段階から加わった。

そして、ある程度の商品が出来あがると、坂野惇子は昭和23年(1948年)12月4日に「ベビーショップ・モトヤ」をオープンした。靴店「モトヤ靴店」のショーケース2台を借りただけの小さな小さな店であった。

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独立店舗へ

当時は闇市で粗悪品が横行しており、国民は良質な物に飢えていたので、坂野惇子が創業した「ベビーショップ・モトヤ」は創業するやいなや大人気となった。

商品はショーケースに並べる側から売れていき、坂野惇子は客の前で仕上げをする程の忙しさだった。

さて、店主の元田連は、ベビーショップ・モトヤに来る上品な女性客に靴をかってもらおうと、奥の作業場を一つ潰して応接室に改装したが、坂野惇子らが応接室を事務所代わりに使い、占領してしまう。

流石に困った店主・元田連は、モトヤ靴店の西側に隣接している万年筆店が空き店舗になったことを切っ掛けに、坂野惇子に万年筆店跡へ移ってもらった。

こうして、ベビーショップ・モトヤは創業から1年後の昭和24年(1949年)12月に、万年筆店跡へ移り、小さいながらも独立店舗となった。

ファミリアの設立

その直後、モトヤ靴店の南側に隣接する「レナウン・サービス・ステーション」が撤退するという話が伝わってきた。

レナウン・サービス・ステーションは、佐々木営業部(レナウン)の衣類小売店で大阪で大成功して神戸へと移転してきたのだが、当時は綿が配給制だったので、繊維問屋の佐々木営業部が小売店へ進出することに批判が上がり、開店早々に撤退を余儀なくされたのである。

坂野通夫と田村寛次郎は、坂野惇子らに、これを機に会社組織にして本格的に商売する事を勧めた。

坂野惇子は、佐々木営業部の社長・尾上清や、家主・元田蓮らの協力を得てレナウン・サービス・ステーションを取得し、田村江つ子(田村枝津子)と田村光子とともに株式会社ファミリアを設立した。

そして、坂野惇子は、昭和25年(1950年)4月12日に、レナウン・サービス・ステーション跡でファミリアを創業した。

阪急百貨店に出店

坂野惇子のファミリアを設立して早々、阪急百貨店の社長・清水雅の目に止り、大阪の阪急百貨店にショーケース2台の直営店を出店する。

ファミリアは阪急百貨店でも人気となり、直ぐショーケースは3台へと増え、阪急百貨店でも台頭していった。

そして、ファミリアは阪急百貨店で子供ショーを成功させ、その名を関東にまで広めていった。

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ファミリアの東京進出

昭和29年(1954年)、ファミリアは高島屋の要請を受け、東京高島屋で子供服展を開催し、子供服展を成功させる。

さらに、伊勢丹からも要請を受け、伊勢丹で子供服展を開始し、伊勢丹でも子供服展を成功させる。

そして、昭和31年(1956年)5月に阪急百貨店が東京・銀座に数寄屋橋阪急を出店することになり、坂野惇子は阪急百貨店から要請を受け、数寄屋橋阪急にファミリア東京店を出店する。

ファミリアが皇室御用達ブランドに

昭和38年(1963年)、皇后・美智子さま(平成の今上天皇の皇后)が第1子・浩宮徳仁親王をご懐妊し、高島屋がファミリアの出産用品を皇室に献上した。

皇室は高島屋を通じてファミリアの商品を購入していたが、やがてファミリアから直接購入するようになり、ファミリアは皇室御調達ブランドとなった。

銀座ファミリアの設立

ファミリアは量産体制を確立して以降、全国展開を開始し、全国に直営店を広げていた。

このようななか、昭和51年(1976年)、レナウンの理事長・尾上清から銀座出店を勧められる。

坂野惇子は、過去に銀座進出を目指していたことがったが、不動産の値上がりから、単価の安いベビー用品では採算が取れないと判断し、銀座進出を断念していた。

さらに、坂野惇子は、このとき、59歳になっており、そろそろ、第2の人生について考え始めていたので、尾上清の勧めを断った。

ところが、阪急百貨店の会長・清水雅からも、「よく考えてみなさい。貴女たちなら成功すると思うよ」と言われ、坂野惇子はもう一度、尾上清と話し合うことにした。

この話し合いで、坂野惇子を代表取締役として別会社「銀座ファミリア」を設立し、東京の銀座に銀座ファミリを出店する事が決まった。

こうして、坂野惇子は、昭和51年(昭和51年)9月23日に、子供用品の百貨店「銀座ファミリア」がオープンしたのである。

さらに、ファミリアは銀座に進出に次いで、昭和54年(1979年)にハワイのホノルルに現地法人「ファミリアUSA」を設立し、世界進出を果した。

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坂野惇子の晩年

昭和60年(1985年)3月、創立35周年を節目に社長の坂野通夫が会長へと退き、娘婿・岡崎晴彦がファミリアの社長に就任する。坂野惇子も副会長へと退いた。

坂野惇子は平成4年(1992年)5月12日に52回目の結婚記念日を祝ったが、夫・坂野通夫は同年5月23日に腸閉塞を起こして危篤となり、平成4年(1992年)6月2日午後5時52分に急性呼吸不全により死去した。

坂野惇子は坂野通夫の死を受けてファミリアの会長に就任して、平成10年(1998年)に名誉会長へ退いた。そして、平成17年(2005年)9月24日に心不全で死去した。享年88。奇しくも、父・佐々木八十八と名前と同じ年齢まで生きた。

坂野惇子の子供と子孫

坂野惇子と坂野通夫の子供は、長女・坂野光子(岡崎光子)だけだった。長女・坂野光子(岡崎光子)が岡崎晴彦と結婚して岡崎姓になったので、坂野姓を引く継ぐ者は居なかった。

しかし、長女・坂野光子(岡崎光子)の三男・岡崎雅(坂野雅)が坂野惇子の養子となって坂野姓を引き継いだ。

坂野惇子(ばんのあつこ)について詳しく知りたい方は、「べっぴんさんのモデル・坂野惇子の立志伝」をご覧ください。

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