佐々木惇子(坂野惇子)が坂野通夫と結婚

ファミリアの創業者・坂野惇子(旧姓・佐々木惇子)の生涯を描く立志伝「べっぴんさん-坂野惇子の生涯」の第3話「べっぴんさん-佐々木惇子(坂野惇子)が坂野通夫と結婚」です。

べっぴんさんが東京へ行く

大正時代は多額納税者が互選によって議員に選出されており、多額納税者の互選によって選出した議員を多額納税者議員と言います。

父・佐々木八十八は多額納税者で、皆から信頼されていたため、多額納税者の互選によって多額納税者議員に選ばれ、貴族院議員となっており、佐々木営業部(レナウン)の方は支配人・尾上設蔵に任せていました。

父・佐々木八十八は多額納税者議員だったので、議会中は東京に滞在していたのはもちろん、東京が気に入っており、議会の開催期間中以外も、好んで東京に滞在していました。

また、坂野惇子(佐々木惇子)の姉が東京に嫁いでいたので、父・佐々木八十八と東京の姉が、坂野惇子(佐々木敦子)にも東京に来るように勧めました。

そこで、坂野惇子(佐々木敦子)は、甲南高等女学校(甲南女子大学)を卒業すると上京し、東京の姉夫婦の家に居候しながら、徒歩数分の所にある東京女学館の高等科に通いました。

父・佐々木八十八は坂野惇子(佐々木敦子)を自由にさせていたので、坂野惇子(佐々木敦子)は外泊してスキーに行ったし、東京女学の館高等科へ通う他に、お稽古にも通い、東京で有意義な2年間を過ごしました。

しかし、父・佐々木八十八は、父・異父兄や長男・長女を病気で亡くした影響で、病気や怪我には非常にうるさい性格はいつまでたっても治らず、スキーに行くときも、坂野惇子(佐々木敦子)は包帯や薬を持たされるという有様でした。

スポンサードリンク

坂野惇子が坂野通夫と婚約

やがて、神戸へと戻った坂野惇子(佐々木敦子)は、銀行マン・坂野兼通の末息子・坂野通夫と見合いをして婚約します。

坂野通夫の父・坂野兼通は、名古屋の士族の出で、尾張藩士・加藤高明(後の24代内閣総理大臣)の推薦で三菱合資銀行部(三菱銀行→三菱東京UFJ銀行)に入り、三菱合資銀行部の関西方面の発展に尽力しました。

そして、父・坂野兼通は、三菱合資銀行部の大阪支店長時代に、町田忠治(後に大蔵大臣などを歴任)にヘッドハンティングされて、大阪の山口銀行(三和銀行→三菱東京UFJ銀行)に入り、山口銀行の近代化に尽力しました。

(注釈:山口銀行は山口県にある山口銀行ではありません。かつて、大阪にあった山口財閥の山口銀行で、大阪の山口銀行は後に三和銀行となり、現在は三菱東京UFJ銀行となっています。)

そして、父・坂野兼通は、山口銀行の総理事を務めたほか、大阪の日本生命・大阪蓄財・関西信託・共同火災・毎日新聞など10数社の理事を兼任しました。

そして、父・坂野兼通も佐々木八十八と同様に、明治38年(1905年)に阪神電車の神戸-大阪間が開通したのを切っ掛けに、神戸に別荘を構え、移り住んでいました。

しかし、父・坂野兼通は昭和6年(1931年)8月12日に死去し、16歳の末息子の坂野通夫は以降、21歳上の長兄・坂野信夫(三菱銀行の取締役・キリンビールの常任監査)に育てられ、京都帝国大学経済学部在学中に坂野惇子と見合いして婚約しました。

坂野惇子が坂野通夫と結婚

さて、佐々木八十八が軽井沢に別荘を持っており、坂野惇子と婚約者・坂野通夫は軽井沢の別荘を訪れ、楽しい一時を過ごしました。

その後、坂野通夫は、昭和15年(1940年)に京都帝国大学経済学部を卒業。海外勤務を希望していたので、同年4月に大阪商船(商船三井)に入社しました。

そして、坂野通夫は同年5月に婚約者・坂野惇子(佐々木惇子)と結婚しました。

坂野通夫は坂野惇子(佐々木惇子)と結婚したとき、大阪商船(商船三井)に就職したばかりで、坂野通夫の初任給は90円でした。

そして、坂野通夫と坂野惇子(佐々木惇子)が結婚した翌年の昭和16年(1941年)12月、日本がハワイに真珠湾攻撃を行い、日本は、あんたんとした時代に突入します。

そのようななか、坂野夫婦に長女・坂野光子(てるこ)が誕生します。真珠湾攻撃の翌年の昭和17年(1942年)の秋のことです。

ただ、長女・坂野光子(てるこ)が生まれる前に、坂野惇子(佐々木惇子)はファミリアの創業メンバーとなる村井ミヨ子(中村ミヨ子)と出会うことになるので、先に村井ミヨ子(中村ミヨ子)との出会いを話しておかなければなりません。

スポンサードリンク