朝ドラ「べっぴんさん」のモデル坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描く立志伝「ファミリアの創業者-坂野惇子の立志伝」の第4話「坂野惇子(佐々木惇子)が坂野通夫と結婚」です。
これより前の話は、目次「ファミリア創業者-坂野惇子の立志伝」からご覧ください。
坂野通夫は、坂野兼通の末息子(7男2女)として、大正5年(1916年)9月30日に兵庫県芦屋市で生まれた。
妻・坂野惇子(佐々木惇子)の誕生日が大正7年(1918年)4月11日なので、坂野通夫が2歳上である。
坂野通夫の父・坂野兼通は、大阪の山口銀行(三和銀行→三菱東京UFJ銀行)を有する山口財閥の大番頭として活躍し、大阪銀行界の重鎮として君臨した銀行家である。
さて、明治38年(1905年)に阪神電鉄の大阪-神戸間が開通したのを機に、大阪の富豪層が、開発されて騒がしくなった大阪を逃げ出し、開発されていない神戸方面へ移り住んだ。
奇しくも、坂野惇子の父・佐々木八十八も、坂野通夫の父・坂野兼通も、大阪で成功しており、両家とも明治38年(1905年)に大阪を逃げ出し、神戸方面へと移り住んだ。
そして、坂野通夫は大正5年(1916年)9月30日に兵庫県芦屋市で生まれ、その2年後の大正7年(1918年)4月11日に坂野惇子が兵庫県神戸市住吉で生まれた。
生まれる前から赤い糸で結ばれていたのか、偶然、兵庫県で生まれる事になった2人が出会うのは、昭和10年(1935年)2月、スキー場からの帰りのバス(トラック)の中でであった。
坂野通夫は、坂野惇子のリュックの紐が解けていたので、結んであげた。それが2人の出会いだった。
こうして2人の親交が始まるが、その後、坂野通夫は京都の京都帝国大学(京大)へと進学し、坂野惇子も東京の東京女学館高等科へと進み、別れる事になった。
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佐々木営業部(レナウン)を成功させた父・佐々木八十八は、佐々木営業部(レナウン)を支配人の尾上設蔵に任せ、政界へと進出していた。
佐々木八十八は、大正12年(1923年)に大阪市東区区会議員となり、日本赤十字社の大阪支部事業費として1万円を寄付したとして、大正14年(1925年)に金杯一組を下賜され、大正15年(1926年)には紺綬褒章を下賜された。
さて、大正時代の選挙は現在の選挙制度とは違い、国税を治めた多額納税者の中から互選によって貴族院議員を選出する制度が有り、多額納税者から選出する議員を多額納税者議員といった。
佐々木営業部(レナウン)を成功させた佐々木八十八は、大阪の多額納税者になっており、また人格者だったので、多額納税者による互選によって多額納税者議員に選ばれ、昭和6年(1931年)8月31日に貴族院議員となっていた。
ところで、佐々木八十八の次女・佐々木智恵子(三浦智恵子)は、東京の子爵・三浦義次と結婚し、東京に住んでいた。
子爵・三浦義次は、岡山県の勝山藩主・三浦基次の長男で、世が世なら、大名という身分であるが、このときは子爵という身分で、佐々木営業部(レナウン)の製造部門「レナウン・メリヤス工業」の取締役をしていた。
さて、佐々木八十八は貴族院議員だったので、議会の開催中はもちろんのこと、議会の閉会中も好んで、東京の三浦家に滞在していた。
そこで、父・佐々木八十八と佐々木智恵子(三浦智恵子)が、佐々木惇子(坂野惇子)に上京を勧めたのである。
誘いを受けた佐々木惇子(坂野惇子)は、甲南高等女学校(甲南女子大学)を卒業後に上京し、三浦家に居候して、三浦家の近くにある東京女学館高等科の聴講生となった。
父・佐々木八十八は、健康以外については寛容だったので、佐々木惇子(坂野惇子)は外泊してスキーにも行ったし、東京女学館高等科へ通う他に、お稽古にも通い、東京で有意義な2年間を過ごした。
しかし、父・佐々木八十八は健康に神経質な性格は治らず、未だに病気や怪我には口うるさく、スキーに行くときも、佐々木惇子(坂野惇子)は包帯や薬を持たされるという有様であった。
昭和12年(1937年)に勃発した日中戦争は長引き、昭和13年4月には国家総動員法が発令された。さらに、昭和14年5月にノモンハン事件が勃発した。
こうした戦時下では卒業・就職・結婚・徴兵が1セットになっており、京都帝国大学(京都大学)の卒業を控えた坂野通夫は、昭和14年(1939年)5月に佐々木惇子(坂野惇子)と正式に婚約した。
そして、父・佐々木八十八が徴兵されるまでの間は青春を楽しめるように取りはからってくれたので、坂野通夫と佐々木惇子(坂野惇子)は夏は軽井沢の別荘へ行ったり、冬はスキーへ行ったりして青春を楽しんだ。
「この写真の時代が私にとって、一番楽しかった青春時代であったように思う」
晩年、坂野惇子(佐々木惇子)は、軽井沢の別荘で坂野通夫と撮った1枚の写真を手にし、軽井沢の別荘で坂野通夫と過ごした楽しい一時を懐かしんだ。
坂野通夫は、佐々木惇子(坂野惇子)と婚約した翌年の昭和15年(1940年)4月に京都帝国大学を卒業し、海外勤務を希望して大阪商船(商船三井)に入社した。
そして、翌月の昭和15年(1940年)5月に坂野惇子と結婚し、神戸の外国人村(兵庫県神戸市東灘区岡本)に居を構えた。坂野通夫が25歳、坂野惇子が23歳のことである。
坂野通夫は小学生の頃に肋膜炎を煩っていたため、徴兵検査の時にレントゲンに影が出で乙種となり、徴兵を逃れていたので、ひとまず幸せな新婚生活を送ることができた。
そして、結婚から2年後の昭和17年(1942年)の秋に待望の長女・坂野光子が生まれることになる。
ただ、長女・坂野光子が生まれる前に、坂野惇子は子供服ブランド「ファミリア」の創業メンバーとなる村井ミヨ子(中井ミヨ子)と出会うことになる。
お手数ですが、第5話は目次「ファミリア創業者-坂野惇子の立志伝」から選んでください。
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