坂野惇子と村井ミヨ子(中井ミヨ子)の出会い

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子の生涯を描く立志伝「ファミリアの創業者・坂野惇子の立志伝」の第5話「坂野惇子と村井ミヨ子(中井ミヨ子)の出会い」です。

このページは第5話です。これより前の話は、目次「ファミリア創業者-坂野惇子の立志伝」から選んでください。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)との出会い

坂野惇子(佐々木惇子)坂野通夫と結婚してしばらくしての出来事である。

坂野惇子と坂野通夫は、非常に仲の良い夫婦で、いつも一緒に犬を散歩させており、このとき、よく見かける女の子がいた。

その女の子が、後に子供服ブランド「ファミリ」の創業メンバーとなる中井ミヨ子(村井ミヨ子)である。

中井ミヨ子(村井ミヨ子)は大正12年(1923年)3月4日に東京市麹町区3番地で、日綿実業(ニチメン→総合商社「双日」)の東京支店長・中井栄三郎の三女として生まれた。

母・原田キヨ(中井キヨ)は、足尾銅山鉱毒事件の救済に奔走した原田定助の娘である。

中井ミヨ子(村井ミヨ子)は早産だったうえ、へその緒が首に巻き付いて仮死状態で生まれてきたため、医者がちゃんと育つか心配するような状態だった。

そこで、祖父が誕生日(3月4日)を記念して「三四子」と名付けようとしたが、父・中井栄三郎が「美代子」の方が良いと言って反対したため、最終的に「みよ」の部分がカタカナになり、「ミヨ子」と名付けられた。

ちなみに、坂野惇子の父・佐々木八十八は、明治7年(1874年)5月の八十八夜に生まれたので、「八十八(やそはち)」と名付けられた。

さて、村井ミヨ子(中井ミヨ子)が2歳の時に、父・中井栄三郎はビルマ(ミャンマー)勤務となったため、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は父・中井栄三郎に連れられてビルマへと渡った。

その後、父・中井栄三郎がインドへと赴任したので、村井ミヨ子(中井ミヨ子)もインドへと渡った。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)は未熟児で生まれてきたので、体が小さかったが、インドで暮らしているウチに人並みに成長していく。

やがて、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は小学校に入学する年齢になったので、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は母・原田キヨ(中井キヨ)と弟と共に日本へ帰国し、日本に残っていた兄や姉と合流して、神戸の芦屋付近に住んだ。

そして、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は精道小学校へ入学したが、仮死状態・未熟児で生まれてきた影響で体が弱く、風邪と肺炎を繰り返してばかりだったため、先生よりも医者と仲良くなるという有様であった。

やがて、父・中井栄三郎が大阪勤務になって帰国し、芦屋で中井ミヨ子(村井ミヨ子)に妹が生まれた。

その後、医者の勧めもあり、父・中井栄三郎は空気の良い芦屋山手町の松林の中に一軒家を建てて移り住んだ。

松林の中に建てた自宅は、秋には松茸がなり、春にはワラビがなり、まるで山の中で、中井ミヨ子(村井ミヨ子)は自然の中で木登りをしたり、トンネルを掘ったり、缶蹴りをしたりして遊び、段々と元気になっていった。

そして、中井ミヨ子(村井ミヨ子)は、精道小学校を卒業後、兵庫県神戸市のミッションスクール「松蔭高等女学校」を経て、松蔭専攻科で学び、卒業後も、お茶・お花・洋裁・ピアノなどを学んだ。

昭和16年(1941年)ごろ、フランス帰りの松葉先生が兵庫県神戸市東灘区岡本で洋裁のアトリエを開いており、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は週3回ほど、松葉先生のアトリエに通い、洋裁を習っていた。

そのとき、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、よく犬のを散歩させている夫婦を見かけており、いつも「素敵な夫婦だな」と思っていた。その夫婦というのが、坂野惇子・坂野通夫の夫婦だった。

坂野惇子と坂野通夫は昭和15年(1940年)5月に結婚して神戸の外国人村(兵庫県神戸市東灘区岡本)に住み、よく一緒に犬の散歩をしていたのである。

そのようなか、ある日、中井ミヨ子(村井ミヨ子)は坂野通夫から「子犬、要りませんか?」と声を掛けられた。

中井ミヨ子(村井ミヨ子)は動物が好きだったので、二つ返事で「はい」と答え、坂野家へ子犬を貰いに行った。

これが、坂野惇子と中井ミヨ子(村井ミヨ子)の出会いである。やがて、この背の小さい少女・中井ミヨ子(村井ミヨ子)が後に一緒にファミリアを創業するメンバーとなるが、それはもう少し後の話しである。第6話へ続く。

お手数ですが、第6話は目次「ファミリア創業者-坂野惇子の立志伝」から選んでください。