坂野惇子の立志伝-手芸教室と村井ミヨ子

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子の立志伝を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第11話「坂野惇子の立志伝-手芸教室と村井ミヨ子」です。

このページは立志伝の第11話です。これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」からご覧ください。

別荘に荷物を取りに行く

昭和21年(1946年)秋、坂野惇子の父・佐々木八十八が軽井沢の別荘を手放すことになり、父・佐々木八十八から「荷物を取りに来るように」という連絡が来た。

坂野惇子は、夫の坂野通夫が海軍に召集されてジャカルタへ派遣された翌年の昭和19年(1944年)に、一通りの荷物を軽井沢の別荘へ運んで、幼い長女・坂野光子(てるこ)と共に軽井沢の別荘に疎開していた。

しかし、軽井沢の別荘はサマーハウスだったので、坂野惇子は幼い長女・坂野光子を抱えたまま、軽井沢の別荘で冬を越すのを不安に思い、昭和19年(1944年)10月に神戸・岡本の自宅へと戻っていた。

そのとき、汽車の荷物制限が厳しくなっており、手荷物しか持ち込むことが出来ず、坂野惇子は、ほとんどの荷物を軽井沢の別荘に残したまま神戸へと戻っていた。その荷物が、軽井沢の別荘にそのまま残っていたのである。

坂野惇子と坂野通夫は、戦後の新円500円生活で苦しい生活を続けていたが、何とかお金を工面し、軽井沢の別荘に荷物を引き取りに行き、軽井沢の別荘から荷物を引き取ってきた。

こうして持ち帰った荷物の中に、坂野惇子が学生時代から貯めていたフランス製の刺繍糸や英国製の毛糸・布地・洋服地や、一度も履いた事が無いハイヒールなどがあった。

そして、これらの荷物が、貴重な財産となり、坂野惇子の運命を変えることにあるのであった。

スポンサードリンク

村井ミヨ子(中井ミヨ子)と手芸教室

坂野惇子の友達・村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、学校を卒業して、お稽古に精を出していたとき、大阪・船場の旧家・井村家の村井完一との結婚話が持ち込まれた。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、ままだまお稽古をしたかったので、「まだ結婚はしたくない。ましてや、村井のおじさんだけは絶対に嫌」と結婚を拒否した。

しかし、父・中井栄三郎に「嫌なら、いつでも戻ってきてもいい」と諭され、昭和19年(1944年)に大阪・船場の旧家・村井家の村井完一と結婚していた。

夫の村井完一は戦争で召集されていたが、内地勤務だったので無事で、自宅も空襲を免れており、村井ミヨ子(中井ミヨ子)はファミリア創業メンバーの中で最も良い条件で終戦を迎えていた。

しかし、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は戦後、GHQに自宅を接収されたため、仮住まいでの共同生活を経て、山芦屋の実家の庭に小さな家を建てて、夫・村井完一と姑の3人で住んでいた。

そして、子供の居ない村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、時々、坂野惇子の家を訪れ、長女・坂野光子と一緒に遊ぶようになっていた。

そのようななか、坂野惇子が軽井沢の別荘から、フランス製の刺繍糸や英国製の毛糸や布地や洋服地を持ち帰ってきたのである。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)は元々、結婚せずにお稽古がしたかったので、坂野惇子に手芸を教えて欲しいと頼んだ。

そこで、坂野惇子は中井ミヨ子や姪や義姉や近所の人を相手に、昭和22年(1947年)の春頃から、週1回、自宅で手芸の教室を開催するようになった。

こうして、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、幼い坂野光子と一緒になって坂野惇子の事を「おかあちゃま、おかあちゃま」と呼で遊びながら、坂野惇子から手芸を学んでいったのである。第12話へ続く。

第12話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」から選んでください。

スポンサードリンク