朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第21話「べっぴんさんの坂野惇子がファミリアを設立した経緯の解説」です。
これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」からご覧ください。
坂野惇子(佐々木惇子)・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子の3人が昭和23年(1948年)12月4日にモトヤ靴店のショーケース2台を間借りして始めたベビーショップ・モトヤは、開業から1年後の昭和24年(1949年)12月にモトヤ靴店の西側に隣接する万年筆店跡を借りて独立店舗となった。
そして、坂野惇子らのベビーショップ・モトヤが万年筆店跡で独立して、しばらくすると、モトヤ靴店の南側に隣接するレナウン・サービス・ステーション(兵庫県神戸市生田区三宮町2丁目328番地)が撤退するという話が舞い込んできた。
坂野惇子は、撤退するレナウン・サービス・ステーションを譲り受けて株式会社ファミリアを設立することになるのだが、ファミリア設立の経緯を解説するのは、少し時間を遡らなければならない。
そこで、少し時間を遡り、「佐々木営業部(レナウン)の動き」「坂野通夫の動き」「モトヤ靴店の店主・元田蓮の動き」の3つの視点から、ファミリア設立の経緯を解説する。
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坂野惇子の父・佐々木八十八が創業した「佐々木営業部(レナウン)」は、関東大震災を切っ掛けに、百貨店向け問屋として業績を拡大し、メリヤス界のトップにまで成長した。
その後、父・佐々木八十八は、佐々木営業部(レナウン)の経営を支配人(社長)の尾上設蔵に任せて政界へと進出し、貴族院議員となった。
一方、佐々木営業部(レナウン)は順調に業績を拡大し、国策に沿う形で海外進出も果たしていた。
しかし、佐々木営業部(レナウン)の支配人を務めた尾上設蔵は、第2次世界大戦中に死去。佐々木営業部(レナウン)も戦争の影響で実質的に機能を停止し、戦時中の企業整理で「江商」に吸収合併され、消滅した。
戦後、議員生活に終止符を打った佐々木八十八は、尾上設蔵の長男・尾上清に佐々木営業部(レナウン)の再建を託した。
意を受けた尾上清は、佐々木八十八の長男・佐々木隆一を社長にして佐々木営業部(レナウン)を再建しようと考えたが、佐々木隆一は事業意欲を喪失していたので、これを断った。
そこで、尾上清は自身が社長となり、まず、昭和21年(1946年)に製造部門「東京編職(レナウン・メリヤス工場)」を再開させ、ついで、昭和22年(1947年)9月に佐々木営業部(レナウン)を江商から独立させた。
さらに、尾上清は、中国で活躍していた石津謙介らを起用し、佐々木営業部の販売部門「有信実業」を設立した。
石津謙介は、後に紳士服ブランド「VAN(バン)」を設立して「紳士服の神様」と呼ばれるようになる人物である。
そして、尾上清は、大阪・心斎橋の3階建てビルを買い取り、2階3階を佐々木営業部の事務所として使い、販売部門「有信実業」が1階に小売店「レナウン・サービス・ステーション」と「田中千代デザインルーム」を開設した。
田中千代は、神戸で洋裁学校を経営するデザイナーで、後に香淳皇后の衣装相談役となり、「皇后様のデザイナー」と呼ばれる人物である。
佐々木営業部(レナウン)が江商から独立した翌月の昭和22年(1947年)10月、田中千代が佐々木営業部の主催で、大阪の文楽座でファッションショーを開催した。これが日本人として戦後初のファッションショーである。
戦時中に女性の服はモンペに変えられていた影響で、終戦直後から洋裁ブームが起こっており、田中千代のファッションショーは大反響を呼び、佐々木営業部の販売部門「有信実業」は大成功した。
また、このころ、佐々木営業部(レナウン)の製造部門「東京編職(レナウン・メリヤス工場)」も、戦時中に各地へ疎開していた機能を東京へと集約して、本格的に稼働し始めていた。
このため、佐々木営業部(レナウン)は、ビルの2階3階だけでは手狭になっていた。
ところで、戦後、すみれ丸で帰国した坂野通夫は、就職していた大阪商船(商船三井)に復帰したが、大阪商船は戦争で船を失っており、坂野通夫が希望する海外赴任は絶望的であった。
そこで、坂野通夫は、義父・佐々木八十八や尾上清のアドバイスにより、大阪商船(商船三井)を退社して、尾上清が再開させた製造部門「東京編職(レナウン・メリヤス工場)」へと就職した。
その後、尾上清が江商から佐々木営業部(レナウン)を独立させたので、これに伴い、坂野通夫は東京編職から佐々木営業部(レナウン)へと移籍し、佐々木営業部で尾上清の秘書を務め、レナウン商法を学んでいった。
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靴屋「モトヤ靴店」の店主・元田蓮は、モトヤ靴店の南側に隣接する土地に簡易店舗を建てており、その木造の簡易店舗に運動具店に貸していた。
しかし、運動具店が移転して空き店舗になってしまったため、元田蓮は空き店舗の事を、佐々木営業部(レナウン)で働いている坂野通夫に相談した。
このころ、佐々木営業部(レナウン)は、戦後初のファッションショーを成功させており、ビルが手狭になっていた。
そこで、佐々木営業部(レナウン)の社長・尾上清は、坂野通夫から話を聞き、大金を投じて靴屋「モトヤ靴店」の南側に2階建てのレナウン・サービス・ステーションを建設し、佐々木営業部(レナウン)の販売部門「有信実業」を神戸へ移転させた。
そして、昭和24年(1949年)9月に、神戸のレナウン・サービス・ステーションは華々しくオープンした。坂野惇子らが万年筆店で独立店舗となる3ヶ月前のことである。
神戸のレナウン・サービス・ステーションは、1階が「紳士服の神様」と呼ばれるようになる石津謙介の居る「レナウン・サービス・ステーション」があり、2階は「皇后様のデザイナー」と呼ばれるようになる田中千代の「田中千代デザインルーム」という豪華な布陣だった。
ところが、当時は綿が配給制だったので、繊維卸の佐々木営業部(レナウン)が小売りに進出することに批判が殺到してしまう。
このため、佐々木営業部(レナウン)の販売部門「有信実業」は、神戸のレナウン・サービス・ステーションを開店した直後に撤退を余儀なくされることになる。
神戸のレナウン・サービス・ステーションがオープンしてから3ヶ月後の昭和24年(1949年)12月、坂野惇子らが創業した「ベビーショップ・モトヤ」は、モトヤ靴店から万年筆店跡へと移り、独立店舗となった。
それから、しばらくすると、モトヤ靴店の南側に隣接するレナウン・サービス・ステーションが撤退する事が伝わってきた。
佐々木営業部(レナウン)は大金を投じて神戸のレナウン・サービス・ステーションを建設したが、当時は綿が配給制だったので、繊維問屋の佐々木営業部が小売業に進出することに批判が集まり、撤退を余儀なくされたのである。
レナウン・サービス・ステーションは佐々木営業部(レナウン)が大金を使って建設しただけあって立派な建物で、東京から権利金を積むので譲って欲しいという声もあるほどの優良物件だった。後は誰に譲るかという段階になっていた。
そこで、坂野通夫と田村寛次郎は、これを機に、個人商店のベビーショップ・モトヤを会社組織にして、レナウン・サービス・ステーションへ移って本格的に商売をすることを、坂野惇子に勧めた。
佐々木営業部(レナウン)の社長・尾上清は、坂野惇子と幼馴染みで、戦後、坂野惇子に仕事を持つように勧めていたので、坂野惇子が本格的な商売を開始することに賛成した。
家主の元田蓮も「あなた方なら、貸してもいい」と言ってくれたので、坂野惇子は不安を抱えながらも、本格的な商売を開始することを決意する。
坂野惇子がレナウン・サービス・ステーションへ移る事を決意すると、尾上清はレナウン・サービス・ステーションの建物を20万円、店内の商品を20万円という好条件で坂野惇子に譲ってくれた。
さらに、尾上清は、坂野惇子らが設立するファミリアに20万円を出資し、ファミリアの株主となってくたので、レナウン・サービス・ステーションの取得費用は実質的に尾上清が負担してくれた。
このため、坂野惇子は、無事にレナウン・サービス・ステーションの建物を引き継ぐ事ができた。
さて、坂野惇子は20万円でレナウン・サービス・ステーションの商品をそのまま引き継いたが、それでも坂野惇子にとっては店舗が広すぎた。
そこで、坂野通夫が佐々木営業部(レナウン)と取引のある川村商店に依頼し、川村商店に店舗3分1で婦人服を販売してもらった。
また、皆の推薦を受け、ファミリア設立の切っ掛けを作ってくれた恩人である靴屋「モトヤ靴店」の店主・元田蓮が、ファミリアの初代社長を引き受けてくることになった。
そして、互選により、坂野惇子がファミリアの専務取締役に就任し、田村枝津子(田村江つ子)と田村光子が取締役に就任しました。
さらに、川村商店の川村睦夫に常務取締役を引き受けてもらい、田村陽(飯田陽)に監査を引き受けてもらった。
こうして、みんなの協力により、株式会社ファミリアが設立され、昭和25年(1950年)4月12日に、神戸三宮センター街のレナウン・サービス・ステーション(兵庫県神戸市生田区三宮町2丁目328番地)で、「ベビーショップ・ファミリア」を創業したのであった。
坂野惇子の立志伝の第22話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」から選んでください。
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