べっぴんさん-板東すみれのイジメと疎開の実話

NHKの朝ドラ「べっぴんさん」の板東すみれ(芳根京子)が疎開先の近江(滋賀県)で虐められる実話です。

べっぴんさん-板東すみれ(芳根京子)の疎開とイジメ

昭和20年(1945年)、坂東営業部は国策により統制会社に吸収合併され、坂東五十八(生瀬勝久)は佐々木営業部を失ってしまった。

これを機に、坂東五十八(生瀬勝久)は、近江の実家・坂東家に疎開した。板東すみれ(芳根京子)も幼い長女・坂野さくらを抱えて、姉・坂東ゆり(蓮佛美沙子)とともに近江の坂東家へと疎開した。

しかし、坂東五十八(生瀬勝久)と実家の坂東家には確執があった。

実家の坂東家は、生地の販売を生業とする商家で、次男の坂東五十八(生瀬勝久)は家業の一部を継いで、販路を広げて事業に成功していた。

しかし、本家を継いだ長男・坂東長太郎は、商才が無く、家業を傾けていた。

そこで、次男の坂東五十八(生瀬勝久)は、長男・坂東長太郎に迫られて、得意先を全て実家・坂東家に譲り、大阪へ出て坂東営業部を設立していた。

こうした経緯あるため、実家の坂東家は、坂東五十八(生瀬勝久)と確執があり、祖母の坂東トク子(中村玉緒)以外はみんな冷たく、疎開した坂東すみれ(芳根京子)は実家の坂東家に虐められて肩身の狭い思いをすることになる。

スポンサードリンク

べっぴんさん-イジメと疎開の実話

モデルとなる佐々木八十八は、明治7年(1874年)5月3日に、京都府京都市のべっ甲商「和泉屋」で、佐々木源三郎(宮原源三郎)の長男として生まれました。

私の調査によると、佐々木源三郎(宮原源三郎)は後夫として佐々木家に入っており、佐々木家には長男・佐々木友次郎が居たので、佐々木八十八は佐々木家の次男という扱いになります。

そして、長男・佐々木友次郎が佐々木家の家督を相続するので、次男の佐々木八十八は大阪に出て唐物問屋(輸入雑貨販売店)「大由」に就職します。

しかし、父・佐々木源三郎(宮原源三郎)も長男・佐々木友次郎も早くに亡くなったため、次男の佐々木八十八が佐々木家の家督を相続します。

その後、佐々木八十八は大阪で佐々木営業部(レナウン)を創業して成功しており、実家と確執があったという記録は残っていません。

近江に疎開する実話

朝ドラ「べっぴんさん」の板東すみれ(芳根京子)は近江(滋賀県)へ疎開しますが、モデルとなった坂野惇子(佐々木惇子)は姉を頼って岡山県勝山町(岡山県真庭市)に疎開しています。

姉の佐々木智恵子は、東京の子爵・三浦義次に嫁いでいます。この子爵・三浦義次は、岡山県勝山町に存在した勝山藩の藩主の家系で、三浦家の12代当主です。

そして、姉の佐々木智恵子は東京の空襲で一足先に被災しており、夫・三浦義次の実家にあたる岡山県勝山町(岡山県真庭市)の三浦邸へ疎開していました。

その後、坂野惇子は神戸大空襲で焼け出されたため、姉の佐々木智恵子を頼って岡山県勝山町(岡山県真庭市)の三浦邸へ疎開し、三浦邸で約1年を過ごしたのです。

しかし、旧藩主・三浦家といえど、裕福な暮しが出来るわけでは無く、坂野惇子も慣れない農作業などをして相当に苦労しました。

ただ、坂野惇子が疎開時代に虐められたという記録も伝承も残っていないので、朝ドラ「べっぴんさん」の板東すみれ(芳根京子)が疎開先で虐められるエピソードは、創作です。

ただ、モデルとなった坂野惇子が小学生時代に虐められてたという実話があります。

坂野惇子が虐められた実話

父・佐々木八十八は、早くに父や異父兄を亡くしていたうえ、長女と次女が夭折していたので、怪我や病気には異常なまでに神経質でした。

その被害を最も被ったのが三女の坂野惇子で、坂野惇子は毎日、朝晩、体温を測られたうえ、外食は禁止で、キャラメルも消毒してから食べるという窮屈な幼少期を送りました。

父・佐々木八十八は坂野惇子を私立の甲南小学校へ入学させたかったのですが、甲南小学校は自宅より北にあるので、冬は北風に向かって登校しなければならない事を懸念し、坂野惇子を近くの魚崎小学校へ入学させました。

しかも、坂野惇子には、登校するにも、遠足に行くにも、何時も佐々木家からお供が付いていたので、坂野惇子は「別荘の子」と呼ばれていたのです。

このため、坂野惇子は、「別荘の子」と呼ばれるのが嫌で、レナウンの派手な服ではなく、つぎはぎをした靴下を履きたいと言って両親や姉に抵抗したという実話が残っています。

スポンサードリンク