NHKの朝ドラ「べっぴんさん」で、板東すみれ(芳根京子)らが創業する子供用品店「キアリス」の実話とモデルのファミリア誕生です。
戦後、坂東すみれ(芳根京子)は、幼い娘・坂東さくらを抱えたまま、神戸でバラック小屋を建てて住んでいた。戦地へと赴いた夫・田中紀夫(永山絢斗)は、消息不明になっていた。
そのよう状況で、板東すみれ(芳根京子)は、身の回りの物を売って食料を買うという生活を続けており、ある日、靴を売るために「あさや靴店」を訪れた。
しかし、あさや靴店の店主・麻田茂男(市村正親)は「お嬢様のために作った靴を、他の人に売ることはできません」と拒否した。
それでも、板東すみれ(芳根京子)は「娘のためにお金が必要なのよ」と言って、幼い娘・坂東さくらの写真を見せ、靴を売ってくれるように頼んだ。
このとき、坂東さくらの写真は、板東すみれ(芳根京子)が刺繍を施した写真ケースに入っていた。
写真ケースを見た麻田茂男(市村正親)は刺繍の出来に感心し、「こうした手芸品を作って売ってはどうですか」と提案する。
板東すみれ(芳根京子)は、思わぬ提案に喜び、早速、商品作りに没頭し、あさや靴店で商品を販売して貰うようなった。
ある日、板東すみれ(芳根京子)は、外国人エイミーにオシメをプレゼントしたことを切っ掛けに、外国人エイミーからドレスの作成を依頼される。
板東すみれ(芳根京子)は、親友・多田良子(百田夏菜子)と田坂君枝(土村芳)に協力を依頼し、「一度だけ」という条件で2人の協力を得て、ドレスを完成させた。
そして、ドレス作りが終わった後、田坂君枝(土村芳)から「一緒に働きたい」と頼まれ、多田良子(百田夏菜子)とベビーナース・小野明美(谷村美月)も一緒に働くことになった。
こうして、板東すみれ(芳根京子)ら4人は「あさや靴店」の一角を借りて「ベビーショップ・あさや」を開店し、そこそこ繁盛させていた。
そのようななか、板東すみれ(芳根京子)は、店主・麻田茂男(市村正親)の言葉をヒントに、無料の「ベビー相談室」の開設を思いつき、「ベビーショップ・あさや」で、無料のベビー相談室を開始した。
ベビーナース・小野明美(谷村美月)の育児アドバイスは的確で、ベビー相談室は無料だったこともあり、ベビー相談室は大盛況だった。
しかし、ベビー相談室を目当てに大勢の相談者が「ベビーショップ・あさや」に来るようになったため、「あさや靴店」の業務に支障が出るようになってしまう。
このため、「あさや靴店」の2つ隣の店舗が空き店舗となったことを切っ掛けに、「ベビーショップ・あさや」は空き店舗へと移転することになった。
こうして、板東すみれ(芳根京子)・多田良子(百田夏菜子)・小野明美(谷村美月)・田坂君枝(土村芳)の4人は、空き店舗へと移り、子供用品店「キアリス」を開店する準備に入った。
そのようななか、音信不通になっていた夫の田中紀夫(永山絢斗)が無事に帰国する。しかし、田中紀夫(永山絢斗)は、長らく抑留されていた影響で、人間不信に陥っていた。
その後、板東すみれ(芳根京子)は子供用品店「キアリス」を開店する。
一方、坂東営業部の野上潔(高良健吾)と坂東ゆり(蓮佛美沙子)は、新ブランド「オライオン」を立ち上げて、ファッションショーを計画しており、子供用品店「キアリス」がファッションショーで使用するサマードレスの縫製を手がけることになった。
このファッションショーで、子供用品店「キアリス」のサマードレスが大急百貨店の社長・大島保(伊武雅刀)の目に止り、子供用品店「キアリス」は大急百貨店と取引することになるのであった。
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朝ドラ「べっぴんさん」では、夫の田中紀夫(永山絢斗)が戦争から復員していない状態で、板東すみれ(芳根京子)らは子供用品店「ベビーショップ・あさや」を開業します。
しかし、実話では、夫・坂野通夫は無事に復員しており、坂野惇子(佐々木惇子)らは夫らに応援されて、「ベビーショップ・モトヤ」を創業する事になります。
さて、坂野惇子は佐々木営業部(レナウン)を創業した佐々木八十八の3女に生まれ、何不自由ない生活を送り、坂野通夫と結婚し、長女・坂野光子を儲けて幸せな家庭を築いていました。
しかし、坂野惇子は神戸大空襲で自宅を焼失したうえ、戦後の「新円切換」「預金封鎖」「財産税」という経済政策で、預金の引き出し額が制限され、苦しい生活を送ります。
このような状況で、坂野惇子は身の回りの物を売って食料を買う「売り食い」を続けており、靴店「モトヤ靴店」にハイヒールを売却に行きました。
しかし、このハイヒールは、モトヤ靴店の店主・元田蓮が坂野惇子のために作ったものだったので、店主・元田蓮から「苦しいでしょうが、これだけはお売りにならないでください」と懇願されてしまいます。
困った坂野惇子は、話題を変えるために、「こんなに大きくなったのよ」と言い、長女・坂野光子の写真を見せました。
このとき、長女・坂野光子の写真は、坂野惇子が作った綿スエードの布地に花柄の刺繍が入った写真入れに入っていました。また、このとき、坂野惇子が持っていたバックも坂野惇子が自作したものでした。
これを見た店主・元田蓮は、作りの良さに感心し、「こういう手芸品を作って売っててはどうですか?ショーケースを貸しますよ」と提案したのです。
坂野惇子は思わぬ提案に喜び、帰宅すると、親友の田村江つ子(田村枝津子)に相談しました。
すると、田村江つ子(榎並江つ子)は、義姉(夫の姉)・田村光子にも相談しようと提案しましました。
田村光子は、阪神間で有名な木川章子の第1の門下生として洋裁に覚えがあり、既に人から頼まれて洋裁の仕事を開始していたのです。
こして、坂野惇子・田村江つ子(榎並江つ子)・田村光子の3人が話し合って手芸店を開くことが決まり、それぞれの夫に相談すると、夫同士で集まり、妻らの手芸店を開くために話し合いを行いました。
また、坂野惇子らは単なる手芸店を開こうとしていたのですが、夫・坂野通夫や父・佐々木八十八の助言により、長女・坂野光子を出産したときに学んだ西洋式の育児を生かし、べっぴんさん(特別な商品)を作るベビーショップを開くことになったのです。
そして、坂野惇子の家と、田村光子の家に別れて、商品作りが始まりました。ファミリアの創業メンバー村井ミヨ子(中井ミヨ子)も、坂野惇子から誘いを受けて商品作りの段階から参加しています。
やがて、ある程度の商品が完成すると、昭和23年(1948年)12月4日に靴店「モトヤ靴店」の店内で「ベビーショップ・モトヤ」をオープンしました。ショーケース2台だけの小さな小さな店でした。
ちまたに粗悪品が横行していた時代に、坂野惇子らは外国製の良質な生地や毛糸を使い、手間暇を掛けた、べっぴんさん(特別)な商品を作っていたので、ベビーショップ・モトヤの商品は飛ぶように売れていきました。
モトヤ靴店の店主・元田蓮は、ベビーショップ・モトヤが出来たおかげで、上品な女性が店に来るようになったので、上品な女性にも靴を買って貰おうと思い、奥の作業場を潰して応接室に改装しました。
ところが、坂野惇子らは、良き部屋が出来たと思い、応接室を事務所や作業場として使い、占領していまったのです。
本業に支障が出始めたため、流石の店主・元田蓮も困り果て、商店街の空き店舗を見つけてきて、坂野惇子に独立を勧めました。
しかし、坂野惇子は「元田さんの所じゃなきゃ嫌。動くのは絶対に嫌」と言い、移転を拒否します。
店主・元田蓮は、坂野惇子の父・佐々木八十八に恩義を感じていたので、それ以上は何も言えず、ベビーショップ・モトヤの独立の話は立ち消えになってしまいます。
その後、モトヤ靴店の西側に隣接する万年筆店が移転し、空き店舗となりました。
この万年筆店は店主・元田蓮の貸している物件で、壁で隔たれた独立した店舗でしたが、屋根続きであり、裏口が共通でした。
そこで、店主・元田蓮は、裏口が共通ということで、独立を嫌がる坂野惇子を何とか説得し、坂野惇子ら万年筆店へと追い出したのです。
こうして、坂野惇子らのベビーショップ・モトヤは、万年筆店へ移って独立したのです。
そして、その直後、モトヤ靴店の南側にあった衣類小売店「レナウン・サービス・ステーション」が撤退するという噂が伝わってきました。
そこで、坂野通夫は坂野惇子に、レナウン・サービス・ステーションへ移って本格的に商売することを勧めました。
こうして、坂野惇子らはレナウン・サービス・ステーションへ移り、子供服ブランド「ファミリア」を設立したのです。
そして、坂野惇子らがファミリアを設立してまもなく、ファミリアは阪急百貨店の社長・清水雅の目に止り、阪急百貨店へと進出することになったのです。
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