カップラーメンの発明者の日清食品の安藤百福ではない?

世界初のカップラーメンは日清食品の「カップヌードル」とされているが、ここでは「カップヌードル」よりも前に開発された幻のカップラーメンについて紹介します。

カップラーメンの発明者は安藤百福ではない?

世界初のカップラーメンは、日清食品の安藤百福(呉百福)が考案した、昭和46年(1971年)発売の「カップヌードル」だと言われている。

しかし、カップヌードルの発売よりも10年前の昭和36年(1961年)に、明星食品がカップラーメンの原型ともいえる「明星叉焼麺(明星チャーシュー麺)」を試験発売しているのだ。

さて、日本初のインスタントラーメン(即席麺)は、日清食品の安藤百福(呉百福)が昭和33年に発明した「チキンラーメン」だとされているが、チキンラーメンよりも数ヶ月前に大和通商の陳栄泰が即席麺「ヤマトの鶏糸麺(ケーシーメン)」を発売し、東明商行の張国文も即席麺「長寿麺」を発売していた。

このため、安藤百福(呉百福)・陳栄泰・張国文の在日台湾人3人が、それぞれに特許を取得し、即席麺の元祖を主張して激しく争い、即席麺業界を巻き込んで特許紛争を起こした。

このようななか、明星食品が昭和36年に日本初のカップラーメン「明星叉焼麺(明星チャーシュー麺)」を開発し、試験販売したのだ。

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「明星叉焼麺」開発の経緯

インスタントラーメン(即席麺)が登場した当時は、チキンラーメンのように麺に味が付いた「味付麺」だった。インスタントラーメンは爆発的に普及していくが、どのインスタントラーメンも味が似たり寄ったりなうえ、味が良くなかった。

これに対して、麺を鍋で数分間、煮込んで食べるラーメンを「半即席麺」と言い、「半即席麺」は麺に味が付いておらず、麺とスープが別々になっており、味が良く、中には野菜などの具材が付いているラーメンもあった。

このころ、インスタントラーメンで麺とスープが別になった商品は無かったので、インスタントラーメンの味の評判が良くないことを知った明星食品は、「半即席麺」を参考にして、麺とスープを別にする「スープ別添付方式」のインスタントラーメンの開発に着手したのである。

一説によると、「味付麺」は日清食品に特許使用料を支払わなければならないため、明星食品は特許使用料を払わないでいいように、スープ別添付方式を開発したと言われる。

さて、明星食品の研究は進み、インスタントラーメンでもスープ別添付方式が実現可能だと分かってきたが、スープの粉末は、麺とは別にして、小袋に入れることになりそうだった。

味付麺は湯を入れるだけだが、スープ別添付方式は粉末の入った小袋を開けるという一手間が余計にかかることになる。

当時、インスタントラーメンは「即席麺」と呼ばれており、湯をかけて2分で食べられるという即席性が人気だった。

そこで、明星食品は、スープ粉末が入った小袋を開ける一手間を大きな欠点だと考え、「驚きに満ちた簡便性」で、小袋を開けるという欠点を補おうと考えた。

そこで、予め即席麺が丼に入っていれば、丼を用意する必要が無く、湯さえあれば、どこでも食べられて便利だということで、アイスクリームのカップに入った世界初のカップラーメン「明星叉焼麺(明星チャーシュー麺)」というアイデアが生まれたのである。

そして、ラーメンの具は、チャーシューとシナチクだろうと言うことで、「明星叉焼麺(明星チャーシュー麺)」にはチャーシューとシナチクが入ることになった。

その後、様々な試験が行われて試作品が完成し、「明星叉焼麺(明星チャーシュー麺)」は1個50円で、鎌倉の海水浴場でテスト販売された。

しかし、容器として使用したカップは耐油性に問題があったため、ラーメンの汁が染み出たり、カップの匂いがラーメンに移るなどの問題が生じた。

アイスクリームのカップメーカー尚山堂も耐熱性のカップを作るのは初めてのことで、様々な角度から検討が加えられたが、当時の技術では限界があり、結局、昭和36年(1961年)7月に容器の問題で「明星叉焼麺(明星チャーシュー麺)」の発売は断念された。

しかし、麺とスープを別にするスープ別添付方式の研究は続けられ、明星食品は昭和37年4月にスープ別添付方式のインスタントラーメン「支那筍入り明星ラーメン」を販売したのだった。

その後、日清食品の安藤百福(呉百福)がカップヌードルを開発するのだが、それは明星食品の「明星叉焼麺(明星チャーシュー麺)」の開発断念から5年後のことである。

カップヌードル発明の経緯

日本初のインスタントラーメンには諸説あるが、初めて商業的に成功したのは日清食品の安藤百福(呉百福)が開発したチキンラーメンである。

(注釈:詳しくは「インスタントラーメンの発明者は台湾人だった」をご覧ください。)

そして、昭和33年(1958年)8月にチキンラーンを発売して以降、即席麺の売り上げは爆発的に伸び続けていたが、昭和39年(1964年)に即席ラーメンで食中毒が相次いだことから、信頼を失い、成長率は急激に鈍化した。

さらに、過激な安売り合戦や「スープ別添付方式」の即席麺の登場で、苦しい立場に追いやられた日清食品の安藤百福(呉百福)は、海外に販路を求め、昭和41年(1966年)6月にアメリカを視察し、昭和41年7月にはヨーロッパを視察した。

このとき、安藤百福(呉百福)はバイヤーにチキンラーンを試食してもらったのだが、アメリカには丼と箸で食べるという文化が無かったので、バイヤーはチキンラーメンを2つに割って紙コップの中に入れ、湯を注いで食べた。

それを見た安藤百福(呉百福)は即席麺をカップの中に入れて販売するカップラーメンという発想を得たのである。

日清食品の安藤百福(呉百福)は、早速、カップラーメンの開発に取りかかり、発泡スチロールの丼を採用した試作品「カップチキン」「どんぶり付きチキンラーメン」を完成させ、昭和41年12月に試験販売をした。

しかし、当時は発泡スチロールを食品容器に使用した例は無く、当時の技術では満足のいく容器は作れなかった。このため、容器の問題で、カップラーメンの開発は頓挫した。

その後、サンヨー食品・明星食品・エースコックなどがヒット商品を出して台頭しており、危機感を覚えた日清食品の安藤百福(呉百福)は昭和45年(1970年)7月にカップラーメンの開発を再開した。

今度は、片手で持てるこという条件から紙コップを大きくしたような縦型カップの採用が決まり、運送時は包装になり、食べるときは調理器にも、食器にもなるという容器の開発が始まった。

日清食品は紙コップの大手・東罐興業に相談したが、当時の技術では安藤百福(呉百福)の要求を満たすよな容器は無かった。

しかし、東罐興業は開発中のPSP(ポリスチレン・ペーパー)の情報を入手し、試行錯誤の末、カップヌードルの容器を完成させた。

さらに、日清食品の安藤百福(呉百福)は、麺をカップの底に付けない「中間保持」を考案し、フリーズドライで具材を乾燥させ、カップラーメン「カップヌードル」を完成させたのである。

さて、昭和46年(1971年)5月に「カップヌードル」の発表会が行われ、新聞や雑誌が取り上げてくれたが、袋麺の実売価格が25円なのに対し、カップヌードルは100円と高額だったので、問屋は高いと言って相手にしてくれなかった。

このため、通常の食品ルートでは販売できず、日清食品は、連れ込みホテル・官公庁・レジャー産業・病院などの販売ルートを開拓していった。

最初にカップヌードルが売れたのは、朝霞駐屯地の自衛隊で、その後は消防署や看護婦などでカップヌードルの利便性が認められ、夜勤で働く人に受け入れられていき、東京・銀座の歩行者天国での販売では、1日で2万食が売り切れた。

さらに、日清食品の安藤百福(呉百福)は、世界初のカップラーメンの自動販売機を設置した。チューブが2重になっており、外側のチューブでカップラーメンの蓋を貫き、内側のチューブで湯を注ぐという仕組みだった。

自動販売機での売り上げは好調で、自動販売機のカップヌードルが売れているという噂が問屋に伝わり、ようやく問屋からの問い合わせが来るようになった。

そのようななか、昭和47年(1972年)2月に、連合赤軍が人質を取り、長野県北佐久郡軽井沢町にある「浅間山荘」に立てこもった事件「あさま山荘事件」が発生する。

日清食品は警視庁の機動隊にカップヌードルを供給しており、「あさま山荘事件」に動員された機動隊が、カップヌードルを持参した。

そして、極寒の中で、銃撃戦の合間に、モクモクと湯気が立ち上がるカップヌードルを食べる機動隊がテレビ中継で放送された。

これが話題となり、カップヌードルは爆発的に売れていくのだった。

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