NHKの朝ドラ「わろてんか」のモデルとなる吉本興業の創業者の生涯を描く「吉本せいの生涯」の第5話です。
第5話より前については目次「「わろてんか」の実話「吉本せいの生涯」」から選んでください。
吉本せい(林せい)は、傾いていた荒物問屋「箸吉」を立て直しに孤軍奮闘していたが、女手1つではどうすることもできず、夫・吉本吉次郎(吉本泰三)が1年半の地方巡業に出ている間に、「箸吉」を廃業して、実家の林家に戻り、林家で夫・吉本吉次郎(吉本泰三)の帰りを待った。
父・林豊次郎は、元々、結婚には反対していたこともあり、「あんな道楽者とは別れてしまえ」と激怒していた。
このため、吉本せい(林せい)は夫・吉本吉次郎(吉本泰三)が旅巡業から戻ってくると、早々に、「これ以上はスネかじりはしたくない」と言い、丸帯2本を売って26円を作り、吉本泰三と長女・吉本喜代子を連れて、天満天神の表にある長屋に引っ越した。
引っ越し先は、敷金10円、家賃3円で、2畳と4畳という2間の長屋だった。
しかし、夫・吉本吉次郎(吉本泰三)は戻ってきも無職なので、何の収入も無く、吉本せい(林せい)が針仕事をして生活費を稼いだ。
羽織1枚25銭、着物1枚20銭という仕事を1日に5枚を仕上げ、指にタコを作り、終いには切れて血がにじみ、心労と助膜炎や肺の痛みに耐えながら、針仕事を続けた。
それでも、夫・吉本吉次郎(吉本泰三)は、芸人遊びを止めずに、芸人遊びを続けていた。
そのようななか、夫・吉本吉次郎(吉本泰三)が、吉本せい(林せい)には何の相談も無く、天満天神の裏にある寄席「第二文芸館」を買う約束をしてきたと言い出したのである。
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「天満ハン」と親しまれる天満天神(天満宮)の裏に、演芸の小屋が8軒並んでおり、この8軒を「天満8軒」と呼んだ。
この「天満8軒」の一番端に、「娯楽派(互楽派)」の指定席「第二文芸館」があった。
「娯楽派(互楽派)」は、「三友派」や「桂派」を離れた落語家らが発足した団体で、「第一文芸館」「第二文芸館」「第三文芸館」「第四文芸館」を指摘席として活動していた。
しかし、「娯楽派(互楽派)」は、「浪速三友派」と「桂派」に対抗できるだけの力は無く、発足後、わずか半年で消滅してしまう。
なかでも、「第二文芸館」と「第四文芸館」は、何をやっても客が入らないという呪われた寄席で、「第二文芸館」が売りに出たのだ。
長屋に引っ越しても芸人遊びを続けていた夫・吉本吉次郎(吉本泰三)は、取り巻きの芸人から「第二文芸館」が売りに出ているという知らせを受け、「第二文芸館」の購入を決めたのである。
このとき、吉本吉次郎(吉本泰三)に報告した取り巻き芸人というのが、渡辺力蔵(後の花月亭九里丸)だという説もある。
さて、吉本せい(林せい)が夫・吉本吉次郎(吉本泰三)に寄席の経営を進めたとう有名なエピソードは、完全な創作である。
史実の吉本せい(林せい)は、「第二文芸館」の購入については何の相談も受けておらず、突然、夫・吉本吉次郎(吉本泰三)から「第二文芸館」を購入する約束をしてきたと言われ、「ほな、そこ、ウチがやるって言うてしもたって。私に事後承諾せえいうことですがな」と呆れている。
「第二文芸館」の土地は天満天神の物なので購入はできず、買うのは「第二文芸館」の営業権だけで、営業権は300円だった。
しかし、夫・吉本吉次郎(吉本泰三)には、お金を調達するような能力は無く、吉本せい(林せい)の顔を見る度に「金が要る、金が要る」と騒ぐばかりだった。
吉本せい(林せい)は、しばらく知らん顔をしていたのだが、夫・吉本吉次郎(吉本泰三)ではお金を到達できないので、しかたなく重い腰を上げ、お金の調達に動いた。
「お金があったかて、お父はん(泰三の父)が出しますかいな。放蕩息子やって毛嫌いしてたさかい。だいいち、うちの大将(吉本泰三)かて、箸吉にはビダ一文借れへん。あの、けったくその悪い後妻(吉本ユキ)が何ぬかすやわからへん。おやじ(泰三の父)も、あの後妻に塩梅巻かれてんのやさかい」という事で、夫・吉本吉次郎(吉本泰三)の実家・吉本家からお金を借りる事は出来ない。
そこで、吉本せい(林せい)は、福島の金貸し「鬼熊」から少し借り、残りは実家の父・林豊次郎に頼み込んで借りて、お金を用意した。
父・林豊次郎は、「あんな道楽者とは別れてしまえ」と激怒していたこともあり、吉本せい(林せい)はお金を借りるのに、相当な苦労をしたという。
さて、吉本せい(林せい)は総額500円を借りた。「第二文芸館」の権利金が300円で、残り200円は権利金だと言われている。
しかし、吉本せい(林せい)がお金を借りてくると、夫・吉本吉次郎(吉本泰三)はその金を持って芸人遊びに走ったため、吉本せい(林せい)は再び金をお金を借りに行ったという逸話も残っている。
さて、兎にも角にも、吉本せい(林せい)がお金を調達すると、夫・吉本吉次郎(吉本泰三)は「あとはワイに任せとけ」と胸を叩いたのであった。
こうして、夫・吉本吉次郎(吉本泰三)は、天満天神裏の「第二文芸館」を購入すると、「第二」を外して「文芸館」という名前で、明治45年(1912年)4月1日に寄席の営業を開始するのであった。
このように、史実の吉本せい(林せい)は、お金を調達しただけで、第二文芸館の購入は夫・吉本吉次郎(吉本泰三)が勝手に進めたことであり、吉本せい(林せい)も第二文芸館の購入に関しては詳しい事は知らない。
江戸時代の芸能人は税金を払わなくて良い身分で、差別される対象だったが、明治時代になって、芸能人も税金を課せられるようになった。
ある落語家は、「ようやく人間になれる」と喜び、紋付き袴を着て税金を納めに行ったという逸話が残っている。
その後も芸能人に対する差別は残っており、芸人遊びは甲斐性として認められていたが、寄席の経営は芸能界に足を踏み入れることになるので、差別される対象となってしまう。
このため、夫・吉本吉次郎(吉本泰三)の実家・吉本家は、老舗の荒物問屋「箸吉」を営んできたプライドから、芸能界に足を踏み入れることに激怒し、夫・吉本吉次郎(吉本泰三)を勘当同然に扱ったという。
夫・吉本吉次郎(吉本泰三)は、代々、吉本家の当主が継ぐ「吉兵衛」を襲名していたが、「いつまでも吉兵衛では気分が変わらん」と言い、寄席の経営開始に前後して、父親から襲名していた「5代目・吉兵衛」を返上し、通称として「吉本泰三」を名乗るようになった。
夫・吉本吉次郎(吉本泰三)は、戸籍までは変更しておらず、「吉本泰三」は通り名だが、これ以降、本名の「吉本吉兵衛」を名乗る事は無かった。
「吉本せいの生涯-吉本興業と反対派の提携」続く。
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