朝ドラ「べっぴんさん」に登場する「エイス」と「オライオン」の対決と業務提携の実話です。
オライオンの野上潔(高良健吾)は、婦人服を売り込むため、大急百貨店の社長・大島保(伊武雅刀)に面会した。
このとき、エイスの岩佐栄輔(松下優也)も社長・大島保(伊武雅刀)の元を訪れており、野上潔(高良健吾)は失踪していた岩佐栄輔(松下優也)と再会した。
エイスの岩佐栄輔(松下優也)は大急百貨店に紳士服の売り込みに来ており、社長・大島保(伊武雅刀)はエイスの岩佐栄輔(松下優也)に10日間の期間限定出店させた。
エイスの岩佐栄輔(松下優也)は、この期間限定出店で大きな売上げを記録し、本格的に大急百貨店へ進出した。
さらに、若者の間で絶大な人気を誇るエイスの岩佐栄輔(松下優也)は、婦人服にも進出しようとしていた。
野上潔(高良健吾)は、これに対向するため、若者向けブランドを展開しようとしていた。
このようななか、野上潔(高良健吾)は、岩佐栄輔(松下優也)を自宅に招くと、岩佐栄輔(松下優也)は「エイスには感性溢れる若いデザイナーが揃っているが、オライオンのデザインは古くさい。若者向けには進出しないようが良い」と忠告し、エイスのデザインブックを見せた。
それを見たオライオンの野上潔(高良健吾)は、岩佐栄輔(松下優也)の忠告を聞きれ、若者向けへの進出を断念した。
さらに、岩佐栄輔(松下優也)は「品質の良い衣類を作る」という熱い思いを語り、野上潔(高良健吾)に業務提携を申し入れた。
エイスが服を作り、オライオンが売る。岩佐栄輔(松下優也)は、オライオンの販売網を活用して、エイスの服を売りたいというのだ。
オライオンの野上潔(高良健吾)は、苦悩の末、一歩一歩でも自分で事業を進めたいと思い、岩佐栄輔(松下優也)からの業務提携の申し入れを断ったのであった。
スポンサードリンク
オライオンの野上潔(高良健吾)のモデルは、レナウンの尾上清です。
一方、エイスの岩佐栄輔(松下優也)のモデルは、VANの石津謙介です。
朝ドラ「べっぴんさん」で、エイスの岩佐栄輔(松下優也)がオライオンの野上潔(高良健吾)に業務提携を持ちかけるエピソードにはモデルとなった実話があるので、今回はレナウンとVANの業務提携の実話を紹介します。
さて、石津謙介は戦後、佐々木営業部(レナウン)を再開した尾上清に誘われ、佐々木営業部(レナウン)の小売部門「有信実業」の営業部長に就任した。
そして、石津謙介は、佐々木営業部(レナウン)のビル1階に紳士服部門「レナウン・サービス・ステーション」と婦人服部門「田中千代デザインルーム」を開いた。
石津謙介は、PX(アメリカ軍関係)から横無した生地を使っていたので、密輸品と間違われるほど、高品質な紳士服を作っており、レナウン・サービス・ステーションの紳士服は飛ぶように売れた。
このため、ビル3階に入っていた佐々木営業部(レナウン)は手狭になり、佐々木営業部(レナウン)が1階も使うことになった。
そこで、尾上清は、兵庫県の神戸・三宮センター街に新店舗を建設し、1階の「レナウン・サービス・ステーション」と「田中千代デザインルーム」を神戸に移転した。
しかし、繊維が配給制だったので、繊維卸の佐々木営業部(レナウン)が衣類小売りに進出することに批判が殺到し、神戸・三宮センター街に移転した「レナウン・サービス・ステーション」と「田中千代デザインルーム」は開店間もなく撤退を余儀なくされた。
このとき、レナウン・サービス・ステーションの隣の店舗で、佐々木営業部(レナウン)の創業者・佐々木八十八の三女・坂野惇子(佐々木惇子)が、子供服店「ベビーショップ・モトヤ」を開いていた。
そこで、尾上清は「レナウン・サービス・ステーション」を坂野惇子に譲った。
坂野惇子は、「レナウン・サービス・ステーション」へ移転するのを機に、法人化し、株式会社ファミリアを設立した。
これが、朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる、皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」である。
さて、石津謙介は神戸から撤退した後、尾上清に招かれ、東京のレナウン研究室へと移籍したが、その後も、土日は大阪へと帰り、有信実業の高木一雄と服を作って売っていた。
このとき服が飛ぶように売れたので、石津謙介は佐々木営業部(レナウン)を辞めて、独立する事にした。
すると、佐々木営業部(レナウン)の尾上清は、「何時までも仕立屋ではいかん。レナウンは女物の既製服をやるから、男物の既製服をやれ」と言って送り出してくれた。
さらに、尾上清が退職金代わりに大阪のバラックをくれたので、石津謙介はバラックにミシンを揉み込み、昭和26年(1951年)4月に「石津商店」を設立した。
朝ドラ「べっぴんさん」では、岩佐栄輔(松下優也)が野上潔(高良健吾)と対立して失踪するように描かれているが、そうした実話は無い。実話では円満退社である。
さて、石津商店の設立から3ヶ月後、石津謙介は、廃刊にあった風刺雑誌「VAN」の編集長・伊藤逸平から「VAN」の使用許可を得たので、昭和26年7月に「有限会社ヴァンヂャケット」へと改組し、ブランド名を「VAN」とした。
さらに、昭和30年(1955年)にはヴァンヂャケットを株式会社化して東京へと進出した。
こときの「VAN」は中高年向け高級衣料を作っており、若者向けのアイビールックを取り入れるのは、東京進出後の昭和32年(1957年)からである。
その後、アイビールックを取り入れた「VAN」は、爆発的な人気を得ていき、昭和39年(1964年)に、アイビールックを着て「VAN」の紙袋を持った「みゆき族」が社会現象となり、VANは全盛期を迎えた。
VANの石津謙介は「アイビーの神様」「メンズファッションの神様」と呼ばれるようになった。
一方、尾上清は、商標の「レナウン」を前面に押し出し、社名を「佐々木営業部」→「レナウン商事」→「レナウン」へと変更していた。
さらに、尾上清は、テレビ時代の到来を察知し、テレビCM「レナウン娘」を流して人気を呼び、メリヤス問屋から一流のアパレル企業へと成長させ、昭和44年(1969年)には一部上場を果たしていた。
ところで、このころ、第1次ベビーブームで生まれた人たちが、成人しており、若者の数は先細りしていた。
ところが、成人の受け皿となる紳士服ブランドが存在していなかった。アイビールックの「VAN」は。若者向けに特化しており、紳士服はカバーしていなかったため、紳士服は空白地帯となっていたのだ。
そこで、紳士服に目を付けたレナウンの尾上清は、VANの石津謙介に業務提携と紳士服への進出をもちかけたのである。
しかし、VANの石津謙介は、尾上清の誘いを辞退する形で、断った。
VANの石津謙介が尾上清の誘いを断った理由はハッキリしないが、仲が悪かったと言う理由では無い。
おそらく、VANの石津謙介は、アメリカの紳士服メーカー「ハート・シャフナー・マルクス」と業務提携の交渉に入っていたのではないかと思われる。
朝ドラ「べっぴんさん」では、エイスの岩佐栄輔(松下優也)が業務提携を持ちかけ、オライオンの野上潔(高良健吾)が断っている。
しかし、実話は正反対で、レナウンの尾上清が業務提携を持ちかけ、VANの石津謙介が断ったのである。
ちなみに、エイスの岩佐栄輔(松下優也)が「オライオンの販売網を活用したい」と言っているのにも、モデルとなる実話がある。
元々、佐々木営業部(レナウン)は、百貨店向けのメリヤス問屋として成長した経緯から、売上げの7割は百貨店だったが、昭和30年代に入ると、小売店からの需要が増大していた。
そこで、尾上清は昭和30年代に入ると、百貨店向けメリヤス問屋からの脱却を図るため、「レナウン・チェーン・ストアー」という組織を形成し、全国にレナウンの商品を置く小売店を増やし、全国に販売網を形成した。
このレナウン・チェーン・ストアーが、レナウンをメリヤス問屋から一流アパレルメーカーへの躍進させた原動力であり、エイスの岩佐栄輔(松下優也)が言う「オライオンの販売網」のモデルなのである。
ところで、レナウンの尾上清は、VANの石津謙介に業務提携を断られた後、新たな業務提携先を探し、大阪の高級紳士服メーカー「ニシキ」と業務提携した。
こうして設立されたのが高級紳士服メーカー「ダーバン」である。紳士服メーカー「ダーバン」は、フランスの俳優アラン・ドロンを起用したCMがヒットし、日本を代表する紳士服ブランドへと成長した。
一方、VANの石津謙介は、昭和40年代に入ってから拡大路線を取った結果、会社が暴走して拡大路線に歯止めが利かなくなり、昭和53年(1978年)4月6日に東京地裁に会社更生法の適用を申請して倒産した。負債総額は500億円だった。
VANの倒産後、レナウンの尾上清は、石津謙介を、紳士服メーカー「ダーバン」の社長室付きアドバイザーに迎え入れ、競売に掛けられた四谷の自宅を買い戻すお金を貸も貸し、色々と面倒見たのである。
後に石津謙介は、「あの時にレナウンと業務提携しれいれば、会社のイケイケドンドンは防げたかもしれない」と語った。
スポンサードリンク
Copyright(C)2010年9月 All Rights Reserved.