榎並充造の生涯

子供服ブランド「ファミリア」を創業した坂野惇子の生涯を描く小説「べっぴんさん-坂野惇子の生涯」の関係者の紹介編「榎並充造の生涯」です。

榎並充造の生涯

榎並充造榎並充造(えなみ・みつぞう)は、明治12年(1879年)11月18日に兵庫県神戸市で、質屋を営む神戸の旧家・榎並家の榎並彦五郎の長男として生まれた。

榎並充造は、兵庫県立神戸中学校(神戸一中)の2回生で、同じく神戸一中の2回生に岡崎忠雄(石丸忠雄)が居り、2人は神戸一中時代に親友となった。

この岡崎忠雄(石丸忠雄)は後に岡崎財閥の2代目となる人物で、後に榎並充造と岡崎忠雄(石丸忠雄)は神戸の財界を代表する財界人となる。

さて、榎並充造は、神戸中学校(神戸一中)を卒業して、早稲田専門学校(早稲田大学)へと進んだ。

そして、早稲田専門学校(早稲田大学)の政治科を卒業後、志願兵として入学して軍務に勤勉し、少尉(後備陸軍歩兵少尉)に昇進して正八位を賜わった。

明治37年(1904年)に父・榎並彦五郎が死去したため、家督を相続し、実家の質屋を継いだ。

しかし、榎並充造は質屋という暗い体質が合わず、質屋は番頭に任せて出歩いていた。そのとき、日本毛織を創業していた義兄・川西清兵衛から、布製ベルト「阪東式木綿調帯」の開発者・阪東直三郎を紹介された。

当時の機械を動かすベルトは、牛革製で、その全てを輸入に頼っており、非常に高価だった。

そこ目を付けた阪東直三郎は、木綿調帯(布製のベルト)を開発し、特許「阪東式木綿調帯」を取得したのだが、どの企業からも声がかからず、窮地に追いやられいた。

阪東直三郎の話を聞いた榎並充造は、「安価に製造できる木綿調帯が普及すれば、工業に大きく貢献できる」と考え、義兄・川西清兵衛に相談した。

この話に、「日本のマッチ王」と呼ばれた東洋燐寸の創始者・滝川弁三が加わり、榎並充造が1万円、川西清兵衛と滝川弁三が各2万円を出資し、明治39年(1906年)に資本金5万円で兵庫県神戸市に阪東式調帯合資会社(現在のバンドー化学)を設立した。

そして、阪東式調帯合資会社は、阪東直三郎から3万円で「阪東式木綿調帯」の特許を買い取るとともに、阪東直三郎を技術者として雇い入れ、木綿調帯(布製のベルト)の製造を開始したのである。

しかし、木綿調帯は思うように普及しなかった。木綿調帯は安価に製造できたが、牛革製に比べると、性能面に欠点があったのだ。

そのようななか、明治42年(1909年)、海軍工廠から木綿調帯を試したい要請があった。

海軍工廠はヨーロッパから高速度鋼切断機を購入したが、機械に付いていたベルトが伸びて使い物にならないため、木綿調帯を試したいということだった。

これは榎並充造にとって、木綿調帯を普及させる大きなチャンスだったが、試運転中にベルトが継ぎ目から切れ、立ち会っていた阪東直三郎が死亡してしまう。

阪東直三郎を失った榎並充造は、事業の縮小を余儀なくされ、設備と借金だけが残った。

こうした状況を打破するため、榎並充造は伸縮性のあるゴムに着目し、ゴム先進国のイギリスを調査した。

そして、榎並充造は、東京高等工業学校(東京工業大学)を卒業したばかりの今井恭次郎を招き入れ、ゴムベルトの研究を開始し、ゴムベルトの製造に成功した。

しかし、出資者の川西清兵衛と滝川弁三は、木綿調帯での失敗があったので、ゴムベルトへの出資に賛成なかった。

困った榎並充造は、岡崎汽船の社長・岡崎藤吉に相談した。

岡崎藤吉は、榎並充造の親友・岡崎忠雄(石丸忠雄)の養父であり、神戸・岡崎財閥の創始者である。まだ神戸岡崎銀行は設立していないが、岡崎藤吉は日清戦争・日露戦争の特需で財を成し、神戸財界でその名を轟かせていた。

この岡崎汽船の社長・岡崎藤吉が三菱合資会社銀行(三菱銀行)を紹介してくれ、三菱合資会社銀行から融資を受けることが出来たので、榎並充造は大正2年(1913年)から阪東式調帯合資会社(バンドー化学)でゴムベルトの製造を開始する。

ちょうど、このころ、ゴム製品製造業「日本イングラム護謨(ゴム)」の元従業員らが、榎並充造に「ゴムをやるのなら使ってくれ」と直訴した。

これより少し前、イギリスのゴム会社が共同で日本に進出する予定だったが、イギリスのイングラム社が抜け駆けして、明治41年(1908年)に神戸に進出し、日本イングラム護謨を設立していた。

しかし、イギリスのダンロップ社が明治42年(1909年)に神戸に進出してダンロップ護謨を設立し、ダンロップ護謨が日本イングラム護謨を吸収するかたちで合併した。

このため、日本イングラム護謨で働いていた日本人の従業員は、これを不満に思い、ゴムベルトを開発した榎並充造に「ゴムをやるなら雇って欲しい」と持ちかけたのである。

ちょうど、榎並充造は、ゴム製品の品質向上と輸入阻止を考えていたので、ゴムの技術を持つ従業員は渡りに船だった。

そこで、榎並充造は、再び岡崎汽船の社長・岡崎藤吉に相談した。

その結果、榎並充造が6円、岡崎忠雄・田清曹・高田虎一がそれぞれ2円を出し、大正2年(1913年)にゴム製品を製造する内外護謨合資会社(現在の「内外ゴム」)を設立し、日本イングラム護謨の技術者を雇い入れた。

こうして、榎並充造は大正2年(1913年)に阪東式調帯(バンドー化学)でゴムベルトの製造を開始する一方で、内外護謨(内外ゴム」)を設立したのである。

さて、阪東式調帯(バンドー化学)が製造するゴムベルト「サンベルト」は、好評で、ゴムベルトの代名詞となるほどに成長していく。

また、第1次世界大戦後の反動不況に備えてゴム靴やゴムカッパなどの製造に乗り出し、大正10年には日本初となるコンベヤベルトの開発に成功する。

昭和2年の昭和恐慌では、不況を逆手にとって、有利な条件で大型設備投資を行い、需要の安定に成功した。

一方、内外護謨(内外ゴム)も国産初の自動車タイヤの製造に成功し、順調に業績を拡大していった。

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神戸財界を牽引する

榎並充造は、阪東式調帯(バンドー化学)と内外護謨(内外ゴム)の社長を務めたほか、朝日海上火災保険・川西倉庫・神戸生糸・昭栄汽船・阪神国道自動車などの要職を務め、神戸財界で活躍した。

そして、榎並充造は、大正10年4月に神戸商工会議所の議員に就任。大正12年には神戸市議員に当選し、以降は公職にも尽力した。

一方、親友の岡崎忠雄(石丸忠雄)は、第1次世界大戦の時に船を売却して巨万の富を築き、神戸岡崎銀行を設立して、岡崎財閥の2代目として神戸財界で活躍しており、昭和6年(1931年)に神戸商工会議所の第17代会頭に就任した。

岡崎忠雄(石丸忠雄)は第17代会頭を6年2月務めて任期を終えると、榎並充造が親友・岡崎忠雄(石丸忠雄)の後を引き継ぐ形で、昭和12年(1948年)に神戸商工会議所の第18代会頭に就任した。

そして、榎並充造の任期が満了すると、今度は親友・岡崎忠雄(石丸忠雄)が榎並充造の後を引き継ぐ形で、昭和16年(1941年)3月に神戸商工会議所の第19代会頭に就任した。

こうして、榎並充造と親友・岡崎忠雄(石丸忠雄)は、神戸を代表する財界人として昭和初期の神戸財界を牽引した。

しかし、翌年の昭和17年、榎並充造は、阪東式調帯(バンドー化学)の社長を雀部昌之介(ささべ・さまのすけ)に譲り、会長に退いた。

奉仕の人生

榎並充造は、神戸財界で活躍する一方で、昭和5年に親和高等女学校(神戸親和女子大学)の理事に就任した。

また、昭和9年には神戸女子薬学専門学校(神戸薬科大学)の理事に就任した。

さらに、孤児院「神戸真生塾」の理事長、兵庫県共同募金の委員長なども務め、教育や社会福祉にも尽力した。

榎並充造は一貫して現場主義で何事も率先して行っており、孤児院「神戸真生塾」のボーイスカウトにも参加したほか、クリスマスにはサンタクロースに扮してプレゼントを配った。

榎並充造の晩年

榎並充造は病気になって以降、悠々自適の生活を送り、大勢の親友に礼を言うため、満68歳の誕生日となる昭和22年11月18日に須磨の自宅で生前葬を営んだ。

榎並充造は、お酒が好きで、人柄も良く、交友関係が広かったので、生前葬には大勢の著名人が集まった。

そして、昭和26年(1951年)2月7日、榎並充造は菩提寺の迎接寺で、戦死した社員の霊前に拝礼していた時に心筋梗塞を起こして死去した。享年72(数え年)。

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榎並充造さんの写真

ご一族の方より、榎並充造さんの写真を提供して頂きました。ありがとうございます。

榎並充造さんは、工業の発展などに貢献したなどの功績により、昭和4年5月15日に紺綬褒章を下賜され、私財を寄付して、昭和19年1月19日に綠綬褒章を下賜されています。胸にはその勲章が輝いています。

榎並充造の画像
榎並充造の画像2枚

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