べっぴんさん-坂野惇子とファミリアの名前の秘話

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第22話「べっぴんさん-坂野惇子とファミリアの名前の秘話」です。

これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」からご覧ください。

べっぴんさん-坂野惇子とファミリアの命名秘話

坂野惇子が昭和23年(1948年)12月4日にモトヤ靴店のショーケース2台を借りて創業したベビーショップ・モトヤは、創業から1年後の昭和24年(1949年)12月に万年筆店へと移ってモトヤ靴店から独立した。

その直後、神戸のレナウン・サービスステーション(兵庫県神戸市生田区三宮町2丁目328番地)が撤退することになり、坂野惇子がレナウン・サービスステーションを譲り受け、本格的に商売を開始することになった。

このため、ベビーショップ・モトヤを解散して、株式会社を設立するのだが、会社を設立するには会社名が必要なので、創業メンバーである坂野惇子・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子の3人は会社名と店の名前について話し合った。

すると、「ベビーショップ・コウベ」という意見が出た。

しかし、最年長の田村光子が「いいと思うけど、神戸という地名に限定してしまうのはどうかしら。将来、大阪や東京にも発展できるような大きな名前をつけられないからしら」と異を唱えた。

なんと、田村光子は、ファミリアの設立前から既に、大阪や東京進出を視野に入れていたのである。

そもそも、坂野惇子らがファミリアを設立する事になったのは、田村光子が坂野通夫が見つけてきた店舗ではなく、靴屋「モトヤ靴店」でベビーショップ・モトヤを開くことを選んだからだった。

洋反物問屋「田村駒」を創業した父・田村駒治郎から商売の勘を引き継いでいた田村光子は、再び、ファミリアの岐路で才覚を発揮し、ファミリアを成功へと導くことになる。

さて、田村光子の意見を聞いた坂野惇子と田村枝津子(田村江つ子)は、田村光子の意見に賛成し、改めて、赤ちゃんや子供のために特別な商品(べっぴんさん)を作り、全国のママから愛される店にする事を決意した。

そこで、坂野惇子は「なにか、子供と母親にむく、家族的な意味を持つ社名は付けられないかしら」と考えた。

ある日、社名を考えていた坂野惇子は、偶然、外国人の知人に出会ったので、「フランス語で『家族』は何というのですか」と尋ねた。

すると、外国人の知人が「ファミリアと言うのですよ」と教えてくれた。

坂野惇子は「ファミリア」という響きに、親しみやすさを覚えて、直ぐに気に入った。

しかし、坂野惇子は店名の頭に「ベビーショップ」と付ける事を決めていたので、ベビーショップ(英語)とファミリア(フランス語)では、混合(チャンポン)になってしまうため、ファミリアという名前を諦めた。

ところが、坂野惇子が、念のために英語の辞書を調べてみると、なんと、英語の辞書に「ファミリア」という単語があった。

しかも、英語の「ファミリア」には、「より楽しい」「うちとけた」「家族的」「親友」という意味があった。

喜んだ坂野惇子は、みんなに「ファミリア」という名前を提案すると、田村光子が「母音の『ア』で終わる名前は縁起が良いんです」と大賛成してくれたので、社名は「ファミリア」に決定した。

こうして、坂野惇子・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子の3人は、株式会社ファミリアを設立し、昭和25年(1950年)4月12日に、レナウン・サービス・ステーション(兵庫県神戸市生田区三宮町2丁目328番地)で、「ベビーショップ・ファミリア」を開店したのであった。

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村井ミヨ子(中井ミヨ子)もファミリアに参加

村井ミヨ子(中井ミヨ子)は子供の頃から病弱だったため、ベビーショップ・モトヤで働き始めた当初、週に3~4回、朝10時から夕方4時までの勤務で、夕方5時になれば、夫・村井完一が迎えに来て、「ミヨ子は寝る時間なので」と言って、村井ミヨ子(中井ミヨ子)を連れて帰った。

これまで、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は月に1回は高熱を出していたが、ベビーショップ・モトヤで働くようになってからは、次第次第に熱が出る間隔が広がっていった。

そして、ファミリアを創業する頃には、毎日、出勤できるようになっていたので、父・中井栄三郎も夫・村井完一もファミリアへの参加を応援してくれた。

こうして、村井ミヨ子(中井ミヨ子)も、ベビーショップ・モトヤから引き続き、子供服ブランド「ファミリア」に加わったのである。第23話へ続く。

坂野惇子の立志伝の第23話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」から選んでください。

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