わろてんか-藤岡てん(葵わかな)のモデルは林せい(吉本せい)

NHKの朝ドラ「わろてんか」の主人公・藤岡てん(葵わかな)の実在のモデル林せい(吉本せい)の立志伝です。

わろてんか-「藤岡てん」のあらすじ

京都で何代も続く老舗の薬種問屋の長女として生まれた藤岡てん(葵わかな)は、厳格な父により、「人前で笑ってはいけない」と厳しく育てられた。

しかし、藤岡てん(葵わかな)は、「人生には笑いが必要」という北村藤吉と出会い、人生観が一転し、北村藤吉と駆け落ち同然で結婚した。

北村藤吉は、大阪船場の米穀商の跡取り息子だったのだが、芸人遊びにかまけて一切働かず、姉妹には家業の米穀商を倒産させてしまった。

それでも、北村藤吉は芸人遊びを続けていたので、藤岡てん(葵わかな)は呆れて「そんなに笑いが好きなら、商売にしなはれ」と言い、寄席の経営に乗り出すのであった。

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藤岡てん(葵わかな)のモデルは林せい(吉本せい)

林家は明石藩松平家の下級藩士の家系で、林せい(吉本せい)は、明治22年(1889年)12月5日に兵庫県明石市東本町で林豊次郎の3女として生まれた。母親は「林ちよ」である。

父・林豊次郎は兵庫県明石市東本町で太物屋「紀伊國屋」を営んでいたが、林せい(吉本せい)が生まれた後、大阪府大阪市北区へと移り、天神橋5丁目で米穀商・金融業を営むようになった。

林せい(吉本せい)は学校の成績が優秀だったが、船場の商家は女子に学問は必要ないという考えだったので、進学はできず、明治33年(1900年)に尋常小学校を卒業すると、奉公に出た。

林せい(吉本せい)は、北浜の相場師として有名な島徳蔵や、今橋の鴻池家という大阪でも有数の商家に奉公し、奉公先でも優秀だったため、先輩の女中に虐められた。

その後、奉公が空けると、家業を手伝い、ここでも商才を発揮して売上げをの伸ばし、父・林豊次郎を驚かせた。

その後、仕事上で取引していた老舗の荒物問屋「箸吉」の次男で跡取りの吉本泰三(吉本吉兵衛)と、明治40年(1907年)12月に結婚した。

しかし、姑・吉本ユキは口うるさい人で、林せい(吉本せい)は姑・吉本ユキに虐められながら、荒物問屋「箸吉」の「ごりょんさん」を務めた。

その後、林せい(吉本せい)が妊娠したので、明治43年(1910年)4月8日に籍を入れ、翌年の明治44年(1911年)に吉本泰三(吉本吉兵衛)は吉本家の家督を相続した。

このころ、荒物問屋「箸吉」は日露戦争後の反動不況によって経営が悪化していたが、芸人遊びが好きな夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は店の事や借金取りの対応を林せい(吉本せい)に任せて裏口から逃げ出し、芸人遊びをしていた。

夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は旦那芸として覚えた剣舞に入れ込んでおり、「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」という一座の太夫元(興行主)になって、旅巡業に出たが、旅巡業に出る度に借金を膨らませてた。

そして、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)が旅巡業に出ている間に、荒物問屋「箸吉」は大阪市電鉄の計画に引っかかり、荒物問屋「箸吉」は廃業してしまう。

さて、旅巡業から戻ってきた夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、荒物問屋「箸吉」の廃業により失業したが、無職になっても芸人遊びが止められず、芸人遊びを続けていた。

このようななか、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、経営が悪化していた天満宮(天満天神)裏にある三流の寄席「第二文芸館」の権利を購入する約束をしてきたのである。

このため、林せい(吉本せい)が奔走してお金を用意するのだが、夫の実家・吉本家は「わざわざ川原乞食に成り下がることはない」と激怒し、一切の支援を拒否した。

林せい(吉本せい)の父・林豊次郎も「あんな極道者とは別れてしまえ」と激怒していたが、林せい(吉本せい)は何とか頼み込んで父・林豊次郎と金貸しからお金を借りて権利金を用意した。

こうして、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は「第二文芸館」の権利を買い取ると、「なんでも構わぬ、上手いも下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」という方針で二流・三流のゴミ芸人を集めた芸能事務所「反対派(岡田興行部)」と提携し、明治45年(1912年)4月1日に「文芸館」として創業した。

「第二文芸館」は何もやっても大入りにならなかった三流の寄席だったが、林せい(吉本せい)は、格安戦略と定員200人の「文芸館」に祭日には700人の客を入れるなどして、様々な工夫で売上げを伸ばしていった。

そして、「文芸館」を創業した翌年の大正2年(1913年)1月には、「吉本興行部(後の吉本興業)」を設立し、大正3年(1914年)には三流の寄席ながら、複数の寄席を買収し、寄席のチェーン展開を始めた。

このころ、寄席で働くお茶子や下足番は、客からの祝儀を主な収入源にしており、席亭(席主=寄席の経営者)が払う給料はごく僅かだったので、寄席が増えても、経費はさほど変わらず、寄席が増えれば増えるだけ、儲けは増える一方だった。

ところで、一流の芸とされた落語は、「桂派」と「三友派」の対立により、明治時代に黄金期を築いていたが、「桂派」も「三友派」も双方の指導者的立場だった人物を失い、大正時代に入ると、衰退の一途をたどっていた。

こうした落語衰退の隙を突き、格安路線の吉本興行部(吉本興業)と反対派は勢力を拡大していったのである。

吉本興行部(吉本興業)は、大正7年(1918年)に「桂派」の拠点「金沢亭(蓬莱館)」を買収して落語の「桂派」を追い落とすると、「金沢亭」を「南地花月」と改名し、吉本系の寄席を「○○花月」という名称でチェーン展開していった。

さらに、大正9年(1920年)12月に反対派(岡田興行部)の興行主・岡田政太郎が急死すると、吉本興行部(吉本興業)は吉本派の芸人を率いて「吉本花月連」を発足した。

こうして、反対派は「岡田反対派」と「吉本花月連」に分裂したが、3ヶ月後には「吉本花月連」が「岡田反対派」を吸収した。

さらに、大正10年(1921年)、林せい(吉本せい)は、初代・桂春団治(皮田藤吉)の借金を肩代わりすることで、絶大なる人気を誇った落語家の初代・桂春団治(皮田藤吉)と専属契約を結んだ。

吉本の「南地花月」に初代・桂春団治(皮田藤吉)の看板が上がるようになると、「南地花月」の西側にある「紅梅邸」で抵抗していた「三友派」も戦意を喪失し、大正11年(1922年)8月に吉本興行部(吉本興業)に降伏した。

こうした、林せい(吉本せい)は「桂派」「三友派」「反対派」を傘下に収めて大阪の演芸界を統一し、最盛期の大正11年(1922年)には大阪18館・神戸2館・京都5館・東京1館・神奈川1館・名古屋1館の計28館の寄席を手中に収め、吉本王国を築いたのである。

さて、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)が東京・神田川の「神田花月」を足がかりにして東京征服を目論んでいたやさき、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生し、関東の寄席は壊滅的な被害を受けた。

すると、林せい(吉本せい)は、毛布を買い付け、実弟・林正之助を東京へと派遣して、東京の芸人を見舞わせた。

これに感謝した東京の落語家は、大阪に来て吉本興行部(吉本興業)の寄席に上がり、地方巡業にも参加してくれたので、吉本興行部(吉本興業)の名前は全国へと知れ渡っていった。

こうして吉本興行部(吉本興業)が吉本王国を築き、東京征服を虎視眈々と狙っていた矢先、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)が大正13年(1924年)2月13日に脳溢血で死去してしまう。享年39だった。

長男・吉本泰之助は夭折していおり、林せい(吉本せい)は生まれたばかりの次男・笠置シヅ子に家督を相続させ、自分は親権を行使するという形を取った。

そして、林せい(吉本せい)は、既に吉本興行部(吉本興業)で活躍していた実弟・林正之助に吉本興行部(吉本興業)の経営を任せ、新たに招き入れた実弟・林弘高に東京の業務を任せた。

さて、演芸の中心にあった落語は、大正時代に入ると、低迷の一途をたどっており、落語に変わる演目の発掘が必要だった。

林せい(吉本せい)は、神戸や大阪の端席で流行していた島根県の安来節に目を付け、弟・林正之助を島根県へ派遣して、安来節の演者をスカウトし、吉本の寄席に上げて大当たりさせていた。

しかし、安来節は落語に変わる演目とまでは言えず、やはり、落語に変わる演目を見つける必要があった。

そこで、弟・林弘高は、三流の寄席で流行していた万歳(後の漫才)に目を付け、万歳を起用し、翌昭和6年(1931年)1月に万歳コンビ「エンタツ・アチャコ」を結成させた。

万歳コンビ「エンタツ・アチャコ」は、「早慶戦」という野球ネタで大阪の笑いを独占し、その後、東京へも進出して活躍した。

一方、ラジオが普及し始めており、林せい(吉本せい)はラジオが普及すれば、寄席に客が来なくなると、ラジオに対して強い危機感を抱き、ラジオへの無断出演を禁じ、芸人から念書を取った。

しかし、お金に困っていた落語家の初代・桂春団治(皮田藤吉)が、吉本興行部(吉本興業)に無断でラジオに出演するという「ラジオ事件」を起こした。

ところが、懸念とは裏腹に、ラジオを聞いた人が初代・桂春団治(皮田藤吉)を見るために寄席に詰めかけたため、林せい(吉本せい)はマスコミ戦略を一転させることになった。

このようななか、昭和7年3月1日、吉本興行部は「吉本興業合名会社」に改組し、林せい(吉本せい)が主宰者に就任した。そして、弟・林正之助が総支配人に就任し、弟・林弘高が東京支配人に就任した。

さて、林せい(吉本せい)は「吉本があるのは落語家のおかげ」と感謝し、仕事の無い落語家にも給料を与え続けていたが、その思いは落語家には伝わらなかった。

吉本の顔とも言えた初代・桂春団治(皮田藤吉)も「ラジオ事件」を起こした翌年から、体調が悪化して寄席に出る数が激減し、昭和9年(1934年)10月6日に死去した。

さらに、初代・桂春団治(皮田藤吉)の弟子・桂小春団治は、吉本興業の落語軽視に異を唱え、昭和8年(1933年)10月に吉本興行部を出奔するという事件を起こしたこともあり、吉本興業の落語軽視はよりいっそう強まった。

以降、吉本興業の中心は万歳や映画になっていくのだが、林せい(吉本せい)は落語家を担当しており、万歳(漫才)には関わっていないので、エピソードは激減していく。

さて、林せい(吉本せい)は、昭和3年に紺綬褒章を受章し、昭和9年(1934年)2月11日には、多額の寄付を下として、大阪府から表彰された。

吉本興業は、「松竹」「東宝」と供に三大興行主に数えられるまで成長しており、マスコミは林せい(吉本せい)を「女今太閤」「女小林一三」などを賞賛した。

このようななか、林せい(吉本せい)が故意にしていた阪府議会の議長・辻阪信次郎が、昭和10年11月16日に脱税汚職事件で逮捕された、

これが吉本興業にも飛び火し、林せい(吉本せい)は逮捕されたが、病気を理由に釈放され、そのまま赤十字病院へ入院した。

大阪府議会の議長・辻阪信次郎が口を閉ざしたまま、昭和11年1月23日に刑務所で自殺したため、脱税汚職事件は有耶無耶に終わり、林せい(吉本せい)は罪に問われなかったが、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)が築いた吉本興業に汚点を残してしまった。

林せい(吉本せい)は、汚名を返上するため、昭和13年(1938年)8月25日に大阪のシンボル「通天閣」を31万円で購入した。

このころ、「吉本の寄席を通らなくては通天閣に登れない」と言われており、林せい(吉本せい)が通天閣を購入した事により、通天閣のお膝元「新世界」は吉本の町となった。

ところが、昭和18年(1943年)1月16日に通天閣の西側の大橋座の2階から出火。これが大きな火事に発展し、通天閣の足が解けてしまった。

既に日本は太平洋戦争に突入しており、国が鉄を回収していたので、林せい(吉本せい)は通天閣は補修せず、解体式を行い、そのまま大阪府に献納した。

さて、吉本興業の方は、映画界にも進出して、東宝と提携し、松竹と対立するなど、成長を続けていたが、戦争で芸人も寄席も失った。

戦後、吉本興業は、林せい(吉本せい)が「一生面倒を見る」と約束した花菱アチャコだけを残して、芸人との専属契約を解除し、洋画の映画館として再スタートを切った。

その一方で、アメリカ将校を慰問場として、昭和21年に京都・祇園でキャバレー「グランド京都」を開き、吉本興業はキャバレー「グランド京都」によって戦後の不況を乗りきって再建を遂げた。

ただし、戦後の吉本興業に林せい(吉本せい)は関与していなかった。戦争で大阪の自宅を失った林せい(吉本せい)は、戦後は甲子園の別邸へと移り、報告書を読む程度だった。

林せい(吉本せい)は、跡取り息子の次男・吉本穎右(吉本泰典)に吉本興業を継がせようと考えていたらしい。

しかし、次男・吉本泰典(吉本穎右)は、林せい(吉本せい)の意に反して、笠置シヅ子と恋愛に落ちた末、昭和22年(1947年)5月19日に肺結核で死去してしまう。享年24だった。

そこで、林せい(吉本せい)は、昭和23年(1948年)1月に吉本興業株式会社を設立すると、代表権の無い会長へと退き、名実ともに弟・林正之助に会社を譲った。

林せい(吉本せい)は、最愛の次男・吉本泰典(吉本穎右)を失ってからは急速に衰えていき、肺結核で日本赤十字病院に入院していたが、昭和25年(1950年)3月14日に死去した。享年61だった。

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