3年連続で神奈川県立野庭高校(のばこうこう)の吹奏楽部で部長を務めた藤田剛(ふじた・ごう)の立志伝です。
藤田剛(ふじた・ごう)は、昭和54年(1979年)度から昭和57年(1982年)度まで3年連続で野庭高校吹奏楽部の部長を務めた。
そして、2年生の時に中澤忠雄を指導者として野庭高校吹奏楽部に招き、部長として吹奏楽部の取り纏めに奔走し、野庭高校吹奏楽部の礎を築いた。
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藤田剛は小学校で鼓笛隊に入り、地元の横浜市立港南中学校の吹奏楽部でトロンボーンを担当し、6期生として野庭高校へ入学した。
藤田剛は東京藝術大学を目指す音楽少年で、親に頼み込んで音楽の個人レッスンを受けていたが、トロンボーンは自宅では練習できないため、野庭高校の吹奏楽部に入った。
野庭高校の吹奏楽部は個人練習が中心だったので、藤田剛は吹奏楽部のことなど考えず、トロンボーンの個人練習に没頭していた。
藤田剛は音楽少年だったが、当時は「ツッパリ」と呼ばれた不良で、無免許でバイクを運転して警察に補導されるなどしており、吹奏楽部以外でも活躍していた。
藤田剛は港南中学校の吹奏楽部で副部長を務めたことがあり、リーダーシップが強かったので、異例ながら1年生で野庭高校吹奏楽部の部長に抜擢されると、次第次第と吹奏楽部の事を考えるようになっていった。
野庭高校の吹奏楽部は、部員が少ないため、音楽コンクールでは少人数編成の「B部門」に出場しており、B部門で地区大会を勝ち進み、県大会で優秀な成績を収めていた。
1981年、大勢の新入部員が入ってきたので、2年生になっても引き続き部長を務めていた藤田剛は、意気揚々と大編成のA部門に出場したのだが、野庭高校吹奏楽部は地区大会で惨敗してしまう。
B部門は県大会までしかないのだが、A部門は全国大会まであるので、レベルが全く違ったのである。
実力の差をまざまざと見せつけられた藤田剛は、野庭高校吹奏楽部を立て直すため、部員に練習に参加するように呼びかけたが、野庭高校は偏差値の低く不良が多い高校なので、真面目に練習に参加するような部員は少なかった。
そのようななか、藤田剛は出入りの楽器屋から「近くにプロの音楽家が住んでいるので、教えて貰ってはどうか」とアドバイスをもらう。
藤田剛は個人レッスンを受けていたので、プロの凄さを知っており、プロの指導を受けられたらどんなに凄いことだろうと思った。
野庭高校吹奏楽部で話し合いが行われ、指導を依頼することで意見が一致し、野庭高校吹奏楽部は楽器屋を通じて、そのプロの音楽家に指導を依頼した。
そのプロの音楽家は、中澤忠雄と言って、日本フィルハーモニー交響楽団・HNK交響楽団・読売日本交響楽団で活躍したプロのチューバ奏者で、交通事故の後遺症でオーケストラから引退し、音楽教室を開催していた。
中澤忠雄は音楽教室が軌道に乗っていたし、教育者という性格ではなかったので、気乗りしなかったが、楽器屋の頼みをむげに事はる事も出来ず、野庭高校吹奏楽部を見学した。
その結果、中澤忠雄は藤田剛に懇願され、3月に行われる定期演奏会までという約束で、週に1~2回程度、吹奏楽を指導することにした。
藤田剛は、受けていた個人レッスンを全て辞め、野庭高校吹奏楽部の事を考えるようになっていく。藤田剛の父も、父兄で父母会を結成し、野庭高校吹奏楽部を支援する。
中澤忠雄も「音楽バカ」で、頻繁に野庭高校吹奏楽部へ通って指導するようになり、3月までという約束であったが、4月には部活動嘱託員となり、正式に野庭高校吹奏楽部を指導するようになった。
野庭高校吹奏楽部は3年生になると、進学の関係で、部活への参加は自由となっていたが、中澤忠雄は全国大会を目指すためには実力のある3年生が必要だとして、3年生に残留を求めた。
3年生は残留派と引退派に別れて議論を開始。3年でも部長を務める藤田剛は、3年生の残留を説得し、3年生の半数以上が吹奏楽部に残ってくれた。
これに喜んだ中澤忠雄は、「3年生を全国大会へ連れて行く」と言い、3年生を優遇するようになった。
しかし、2年生の中には、中澤忠雄の3年生優遇や練習方法が気に入らず、不満を募らせる者が居た。
そして、7月なって野庭高校吹奏楽部が中山湖で合宿をおこなったとき、不満を募らせていた2年生が不満を爆発させ、不満を態度で表した。
激怒した中澤忠雄は合宿を打ち切って帰ろうとしたが、藤田剛が懸命に追いかけ、藤田剛の熱意に討たれた中澤忠雄は引き返して合宿を続けた。
一方、不満を態度で表した2年生は、未だに不満を募らせていたが、泣きながら自分たちを殴る藤田剛を見て、藤田剛や中澤忠雄を受け入れていった。
こうして、藤田剛の活躍により、野庭高校吹奏楽部は合宿を切っ掛けに1つにまとまり、この年、野庭高校吹奏楽部は地区大会・県大会と勝ち進んで、関東大会へと進出し、関東大会で銀賞に選ばれた。
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藤田剛は卒業後、運送会社で働きながら、OBとして野庭高校吹奏楽部に関わり、中澤忠雄や妻・中澤信子と交流を続けた。
そして、中澤忠雄と妻・中澤信子の死後、野庭高校吹奏楽部のOBで作る音楽サークル「ナカザワ・キネン野庭吹奏楽団」に加わった。
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