喜劇団「松竹新喜劇」の座長として活躍した藤山寛美(ふじやま・かんび)の生涯を描く立志伝です。
藤山寛美(本名は稲垣完治)は、昭和4年(1929年)6月15日に大阪府大阪市西区で、俳優・藤山秋美の3男(5人兄弟の5番目)として生まれた。
本名の稲垣完治は、これ以上、子供が生まれないようにというにという意味を込めて、「完治」と名付けられた。
父・藤山秋美(本名は久保田諒治)は新派「成美団」の二枚目俳優だったが、巡業先の名古屋で結核で倒れ、1年の入院生活をした後、昭和8年に死去した。
母・稲垣キミは父・藤山秋美の間に5人の子供を儲けていたが、入籍していなかったので、父・藤山秋美戸が倒れてから慌てて入籍しようとした。
しかし、入籍する前に父・藤山秋美が死んでしまったため、稲垣完治は父方の「久保田」姓にはなrれず、母方の「稲垣」姓のままとなった。
さて、母・稲垣キミは、結婚前にお茶屋「中糸」で女将をしていたので、父・藤山秋美の死後、女将時代の知り合いの伝をた頼って、大阪府大阪市住吉区浜口町へと移り住み、仕立の仕事で生計を立てた。
そのようななか、新派を代表する女形・花柳章太郎が、子供が5人も居るのだから、1人くらいは役者にした方が死んだ藤山秋美も喜ぶのではないかというので、一番下の稲垣完治が役者になることになった。
しかし、稲垣完治はまだ4歳なので、東京へ連れて行くことが出来ないため、父親の藤山秋美よりも寛大になれという意味を込めて、「藤山寛美」という芸名を付け、都築文男に弟子入りさせた。
こうして、藤山寛美は役者の道に入り、昭和9年1月、5歳で初舞台を踏んで子役としてデビューした。青年部の役者の給料が15円という時代に、藤山寛美は給料が50円という好条件だった。
子役の給料が生活費の一部になっていたことから、藤山寛美は小学校へ入っても、芝居を休むことが出来ず、1人だけ早引けするので、「役者の子」とからかわれた。
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昭和16年(1941年)、子役の不足していた喜劇団「松竹家庭劇」の要請で出演すると、「松竹家庭劇」の2代目・渋谷天外から「お前は新派の顔じゃない。喜劇向きだ。松竹家庭劇に来ないか」と誘われ、「松竹家庭劇」へ入り、喜劇に転向した。
2代目・渋谷天外と浪花千栄子の夫婦には、子供が居なかったので、2人は藤山寛美を実の子のように可愛がった。養子の話しが持ち上がる程だった。
昭和20年(1945年)、戦況が悪化し、大勢の若者が予科練に志願するなか、芝居を続けていた藤山寛美(16歳)は非国民として冷たい視線を浴びており、精神的に厳しい時代を過ごしていた。
そのようななか、満州慰問に行く都築文男から満州慰問隊に誘われたので、渡りに船と思い、「松竹家庭劇」を辞めて満州慰問隊に参加し、大阪が空襲を受けるなか、満州へと向かうのだった。
やがて、日本は敗戦を迎え、藤山寛美は満州の奉天で玉音放送を聞いた。
その後、藤山寛美はソ連軍(ロシア軍)に捕まって過酷な状況に置かれるが、赤十字調査団が収容所の調査に来ることになったらしく、日本人は釈放された。
釈放後、ハルビンへ行き、様々な仕事をして生きながらえ、昭和22年10月に無事に帰国して、家族と再会した。
このとき、2代目・渋谷天外は、曽我廼家十吾と喧嘩別れして、「松竹家庭劇」を飛び出し、喜劇団「すいーと・ほーむ」を旗揚げして、地方を巡業していた。
そこで、藤山寛美は「すいーと・ほーむ」に合流するが、勘違いから2代目・渋谷天外と喧嘩して、2ヶ月ほどで「すいーと・ほーむ」を辞めてしまうのだった。
その後、「尾形一座」から誘われて九州巡業に参加したが、女優の花井静江から「ドサ回り的な芝居に出ていると小物になる」と注意されたので、「尾形一座」を逃げ出して大阪へ戻ると、2代目・渋谷天外に許され、再び「すいーと・ほーむ」に参加した。
喜劇王と呼ばれた曾我廼家五郎が、昭和23年11月1日に死去すると、松竹は「曽我廼家五郎劇」「松竹家庭劇」「すいーと・ほーむ」を合流させ、「松竹新喜劇」を旗揚げした。
「すいーと・ほーむ」に参加していた藤山寛美は、座長の2代目・渋谷天外に付いて「松竹新喜劇」の旗揚げに参加し、翌年の昭和24年3月、20歳の時に芝居「ボス追放」で始めて主役を演じ、ようやく1人前の役者となった。
その後、2代目・渋谷天外が女優の九重京子と不倫して子供を作り、妻の浪花千栄子と離婚したため、浪花千栄子が「松竹新喜劇」を退団し、「松竹新劇」はダメージを受けた。
しかし、2代目・渋谷天外が昭和26年に芝居「桂春団治」をヒットさせる。
藤山寛美は、これまで2枚目を演じてきたが、「桂春団治」で始めてアホ役を演じて評価され、以降はアホ役に転じた。
そして、2代目・渋谷天外が藤山寛美のアホ役を生かすために書いた、昭和27年の「あてにならない人々」がヒットし、藤山寛美(23歳)はスターとしての地位を確立した。
昭和31年2月、「松竹新喜劇」は松竹の映画「たぬき」の撮影に参加するが、不満を爆発させたアドリブ王の曾我廼家十吾が昭和31年4月に「松竹新喜劇」を退団してしまう。
その後、昭和32年に放送を開始したテレビ番組「親バカ子バカ」が大ヒットし、松竹新喜劇は「テレビの新喜劇」と言われるようになる。
藤山寛美が全国的に有名になったのはテレビのおかげで、テレビ番組のヒットにより、爆発的な人気となり、「新喜劇のプリンス」と呼ばれるようになった。
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藤山寛美は、無名だった時代の昭和26年秋に芸者の高橋峰子と出会い、その半年後に結婚(入籍は昭和30年)したが、妻の高橋峰子は2人の子供を持っていたこともあり、双方の親から結婚を反対された。
師匠の2代目・渋谷天外も2人の結婚には大反対で、結婚を秘密にするように命じ、事あるごとに「別れろ、別れろ」と言っていた。
しかし、昭和33年(1958年)12月に娘が生まれたので、2代目・渋谷天外のペンネーム「館直志」から「直」の字を貰い、「直子」と名付けると、2代目・渋谷天外は以降、離婚しろと言わなくなった。
この「直子」というのが、女優・藤山直美である。
藤山寛美は、役者の家に生まれたので、母親から「きれい遊んで、きれいに別れろ」と教えられていたこともあり、金遣いが激しかった。
女遊びだけではなく、男性にも金を使っていた。ボーイに車を買い与えたり、ホステスに高額なチップを払ったりした。
本人は役者という仕事柄、話題作りが大切だと考え、話題作りのためにお金を使っていたが、マスコミは「舞台だけではなく、私生活もアホだった」と書き立てた。
初めは2代目・渋谷天外も「おまえはけったいな役者や。借金が増えるごとに役者ぶりが良くなる」と褒めていたが、2代目・渋谷天外が借金の額を知ったときには、どうにもならない額になっていた。
藤山寛美はテレビの仕事で忙しくなり、女遊びをする暇が無くなっても、借金は勝手に増えていくうえ、出資先の倒産や不渡り、手形の持ち逃げなども重なり、借金は4500万円となっていたのだ。
昭和40年の国家公務員の初任給が2万1000円だったので、4500万円は平成の価値で約4億円になる。
そこで、ある人に5000万円の小切手を割り引いてもらったのだが、金利によって雪だるま式に借金は増えていき、いつのまにか借金は1億8000万円に膨れ上がった。
そのようななか、「松竹新喜劇」の座長を務める2代目・渋谷天外が倒れてしまう。
座長の2代目・渋谷天外は、昭和39年10月に「松竹新喜劇」を会社組織にして、松竹から独立させ、膨大な量の仕事をこなしていたのだが、昭和40年9月に脳出血で倒れて入院し、戦線の離脱を余儀なくされた。
2代目・渋谷天外は、倒れたときに意識があり、藤山寛美(37歳)を呼ぶと、「松竹新喜劇」の事を頼んだので、藤山寛美は事実上の座長となり、「松竹新喜劇」を支えるために奮闘する。
昭和41年1月、座長の2代目・渋谷天外の穴を埋めるため、会社の方針で、人気漫才コンビ「ミヤコ蝶々・南都雄二」が「松竹新喜劇」に加わった。
そのようななか、昭和41年4月、借金取りが恐喝で逮捕され、この事件を新聞が報じたため、藤山寛美の借金問題や暴力団との関係が明るみに出てしまう。
この報道の翌日は、3女・藤山直美の小学校の入学式で、3女・藤山直美は小学校を楽しみにしていたのだが、父親の借金報道のせいで、小学校へ行き無くなくなった。
また、借金報道を切っ掛けに、借金取りが自宅や楽屋に押しかけてくるようになったため、昭和41年4月に「松竹新喜劇」の専務・勝忠男が藤山寛美をクビにした。寛美は退職金も要求せず、素直にクビを受け入れたので、「松竹新喜劇」の重役達は驚いたという。
藤山寛美は退団前から東映の映画に出演しており、監督のマキノ雅弘が「借金は個人の問題」と言い、役者として映画に使ってくれたので、「松竹新喜劇」を退団した後は東映の映画に出演した。
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東映は松竹とライバル関係にあったが、松竹新喜劇をクビになった藤山寛美の事を心配し、寛美の為に劇団を旗揚げしようとしていた。
しかし、藤山寛美の抜けた途端に「松竹新喜劇」は客が入らなくなり、劇場の方も困ったため、親会社の松竹は早々に藤山寛美を復帰させなければなくなった。
専務・勝忠男は、この復帰問題を巡り、2代目・渋谷天外や松竹と対立して辞任し、2代目・渋谷天外も会社組織としての「松竹新喜劇」を解散して、再び松竹の劇団へと戻した。
こうして、松竹が借金を肩代わりして、藤山寛美が昭和41年11月に「松竹新喜劇」に復帰すると、「松竹新喜劇」は再び人気を取り戻すのだった。
「松竹新喜劇」に復帰した藤山寛美は、借金を返済するため、無休公演を実行した。座長としての重責に焦りを感じながらも、「クエスト狂言」「ゼニまつり」「阿呆まつり」などのイベントを次々と成功させ、飛ぶ鳥を落とす勢いをみせた。
増え続けていた借金も、昭和50年に個人事務所を設立して、妻・稲垣峰子が社長に就任し、次女の稲垣美千代が事務処理に当たるようになり、ようやく借金返済の道筋がつきはじめた。
しかし、借金を返済するための無休連続公演に付き合わされる団員の方から不満が爆発し、曽我廼家鶴蝶や小島秀哉の退団。千葉蝶三郎が死去し、滝見すが子の戦線離脱するという不幸にも見舞われた。
さらに、藤山寛美は、昔の芝居をやったり、大衆劇と一緒に剣劇をやってたり、舞台に客を上げて「のど自慢大会」を開いたりするようになったので、次第に客は減っていき、人気は低迷していった。
松竹は、人気の低迷を受け、昭和60年に「松竹新喜劇」を解散し、昭和60年3月に再編成した「松竹新喜劇」を再発足するが、人気は取り戻せなかった。
それでも、藤山寛美は昭和62年(1987年)3月まで休むこと無く公演を続けて、244ヶ月(20年4ヶ月)の連続無休公演という偉業を成し遂げた。借金も完済した。
平成2年(1990年)1月、数年前から肝臓を悪くしていた藤山寛美は、「漢方薬なら副作用が無い」ということで、漢方薬を飲み始めたのだが、漢方薬を飲み始めてから体調が悪化した。
そこで、平成2年3月、軽い気持ちで大阪市立大学に検査入院すると、肝硬変と診断され、そのまま入院。死ぬ少し前から、金儲けではない芝居がしたいと言い、しきりに芝居に話しをするようになっていた。
平成2年5月21日、女優をしている3女・藤山直美が千秋楽を終えて見舞いに来たので、ビデオで芝居を観ていた藤山寛美は3女・藤山直美に演技を指導して、夜10時に眠りに就いたのだが、夜10時40分に死去した。61歳だった。
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