べっぴんさん-銀座キアリスのモデルと実話

NHKの朝ドラ「べっぴんさん」に登場する「銀座キアリス」のモデルと実話です。

銀座キアリス-あらすじ

次世代のキアリスを担う村田健太郎(古川雄輝)は、一流商社「KADOSHO(カドショー)」の社長・古門充信(西岡徳馬)に洗脳され、スピードを重視した拡大路線をとっていた。

しかし、坂東すみれ(芳根京子)が企画したキアリスの映画制作を通じて、村田健太郎(古川雄輝)はキアリスの原点が赤ちゃんと母親のための育児だと知り、拡大路線を止めた。

こうして、キアリスは、従来の地に足を付けた経営を取り戻した。

そのようななか、オライオンの野上潔(高良健吾)が、東京・銀座に良い中古ビルを見つけ、キアリスに「銀座にキアリスのワンダーランドを作らないか」と持ちかけた。

板東すみれ(芳根京子)らは、東京・銀座のビルを見て直ぐに気に入り、銀座出店の夢を膨らませていった。

そんな板東すみれ(芳根京子)らを見た坂東紀夫(永山絢斗)は、銀行勤務の村田昭一(平岡祐太)に銀行から融資を受けられないかと相談したが、銀行からの融資は得られなかった。

それを聞いた板東すみれ(芳根京子)は、落ち込んで銀座出店の夢を諦めようとしたとき、一流商社「KADOSHO(カドショー)」の社長・古門充信(西岡徳馬)から連絡が来た。

なんと、KADOSHO(カドショー)の社長・古門充信(西岡徳馬)が、赤ちゃんと母親の事を思うキアリスの企業理念に共感し、無条件でキアリスの銀座出店に資金提供してくれるというのである。

そもそも、社長・古門充信(西岡徳馬)が、なぜ、キアリスの銀座出店について知っているのか。大きな謎だった。

それに、エイスが倒産した原因は、KADOSHO(カドショー)の社長・古門充信(西岡徳馬)が資金を引きあげてハシゴを外したからだと言われており、田坂君枝(土村芳)は社長・古門充信(西岡徳馬)を信用しなかった。

しかし、板東すみれ(芳根京子)は、どうしても銀座キアリスの出店を諦められ無かった。

そのようななか、オライオンの野上潔(高良健吾)から、「他にビルを借りたいという人が居る。ビルのオーナーが今月中に返事が欲しいと言っている」と催促された。

ショックを受けた板東すみれ(芳根京子)ら4人は、話し合った結果、KADOSHO(カドショー)の資金を受けてでも銀座へ出店することに決め、重役会議で銀座出店を主張した。

ところが、村田健太郎(古川雄輝)が「銀行が貸してくれないと言ってるんで。銀座出店は身の丈に合っていない。地に足を付けた経営が重要だ」と言い放った。

これを聞いた板東すみれ(芳根京子)ら4人は目が覚めて、銀座出店を諦め、KADOSHO(カドショー)の社長・古門充信(西岡徳馬)に融資の話を断ったのだった。

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銀座キアリスのモデルと実話

朝ドラ「べっぴんさん」に登場する「銀座キアリス」のモデルは、ファミリアが昭和51年(昭和51年)9月23日にオープンした子供の百貨店「銀座ファミリア」です。

ただし、史実のファミリアは、阪急百貨店が昭和31年(1956年)5月29日に東京・銀座で数寄屋橋阪急をオープンしたのにともない、数寄屋橋阪急にファミリア東京店をオープンしており、既に東京進出は果たしています。

ファミリが銀座ファミリアをオープンするのは、ファミリアが東京進出を果たしてから20年後の出来事です。

さて、坂野惇子が銀座ファミリアを出店する切っ掛けとなったのは、昭和51年(1976年)4月にレナウンの理事長・尾上清からかかってきた1本の電話だった。

東京の銀座6丁目にあるジョセフ・マグニン・ジャパンの銀座店が新宿店と統合することになり、新宿店が空くことになった。

尾上清は、空き店舗となる新宿店をどうするかで相談を受けていたので、ファミリアの坂野惇子に電話し、良い場所を取ってあげるから、直ぐに見に来るようにと告げたのである。

坂野惇子は、他にも用件があったので、ひとまず上京の約束をして電話を切り、ファミリアの社内で相談したが、地価の高い銀座に単価の安い子供服の店を出すのは難しいと言い、誰も銀座出店を望む者は居なかった。

後日、上京した坂野惇子は尾上清に会いに行く途中のタクシーから、ジョセフ・マグニン・ジャパン銀座店を見ると、1店舗向こうには百貨店の松坂屋があり、場所は悪くないと思った。

その後、坂野惇子は尾上清に会って、「400坪という広さは婦人服には中途半端な広さ」と言って断ったのだが、「子供物の百貨店なら、手頃な広さね」と言ってしまった。

それを聞いた尾上清は「子供物の百貨店」というアイデアを絶賛し、「ぜひファミリアでやりなさい」と勧めた。

坂野惇子は10数年前に子供百貨店をオープンするという夢を持っていたのだが、都会の地下が高騰しており、単価の低いベビー用品では採算が取れず、子供の百貨店を持つ事は不可能と分かり、この夢を諦めていた。

また、坂野惇子はこのとき、59歳になっており、第2の人生に向けて生活設計を立てていたので、この場は銀座出店を固辞して退散した。

ところが、尾上清は毎晩のように電話を掛けてきて、「色々な人に聞いたが、ファミリアの子供百貨店は大賛成だという人が多い」「年商6億円は見込める」と熱心に勧めた。

坂野惇子は、尾上清の熱意に負けて、臨時重役会を開いて銀座出店について検討したが、尾上清のいう年商6億円が実現できたとしても、採算は取れないだろうという結論になった。

数日後、尾上清が大阪に帰ってきたので、坂野惇子は正式に銀座出店を断るため、大阪へと向かった。

このとき、坂野惇子は、阪急百貨店のコンコースで、阪急百貨店の会長・清水雅に出会った。

ところで、ファミリアの社長・坂野通夫は、長兄・坂野信夫から「大切な相談に乗って頂く方には、常日頃から折々の状態を申し上げておかないことには、いざというときに、正確なアドバイスをしていただきにくよ」と教えられていたので、常日頃から阪急百貨店の会長・清水雅に報告をしており、銀座出店の件も報告していた。

このため、会長・清水雅は坂野惇子に「銀座は世界中に知られている街でPR効果もあり、容易に得られる場所ではなさそうだ。尾上君が貴女たちに悪い話しを持って来るはずが無いのだから、もう1度よく考えて見なさい。貴方たちなら、成功すると思うよ」と銀座出店を勧めた。

清水雅の言葉に心を打たれた坂野惇子は、清水雅と出会った事に運命を感じ、その後、尾上清に会い、清水雅の言葉を伝えた。

すると、尾上清は、坂野惇子が断るために持ってきた資料にも目をくれず、ここぞとばかりに、銀座出店を勧め、今晩、ファミリアの社長・坂野通夫と会って話し合いをする事に決めた。

その日の晩、尾上清は坂野家を訪れて、坂野通夫に銀座出店を勧めると、坂野通夫も銀座のPR効果を理解していたので、銀座出店を決定した。

すると、尾上清は未だに衰えを知らず、朝4時まで話し合いを続け、その日のうちに資本金8000万円で別会社「銀座ファミリア」を設立する事を決め、坂野家の娘婿・岡崎晴彦を取締役店長に抜擢した。

そして、岡崎晴彦を支えるべく、坂野惇子が代表取締役、坂野通夫が監査役、尾上清が相談役、下岡祥浩が取締役に就任する事が決まった。

下岡祥浩はファミリアから精鋭7人を率いて出向し、坂野夫婦も岡崎晴彦の右腕となる経理担当が必要だと考え、三菱銀行に日参して、三菱銀行から藤井康を出向社員として迎えた。

ところで、ジョセフ・マグニン・ジャパンの銀座店は床が大理石になっいたので、坂野惇子は大理石では子供が滑って危ないと思った。

さらに、エレベーターが奥まったところにあった事も気に入らなかったので、坂野惇子は信頼するベルギーのデノー氏に相談して、全面改装することにした。

ファミリアの社長・坂野通夫は、常日頃から経費支出を厳しく取り締まっていたが、こういう時は寛容で、店舗の全面改装を認めた。

坂野惇子の依頼を受けたデノー氏は夏休み1ヶ月を利用して来日してくれ、坂野惇子の理想はデノー氏によって具現化されていった。

そして、昭和51年(1976年)9月23日、「大きな松坂屋の隣に『小さな子供のデーパート』が誕生します」というキャッチフレーズで、銀座ファミリアがオープンした。

銀座ファミリアは、レナウン宣伝部の協力によって本格的な宣伝が行われ、銀座の新しい名所の1つなりった。

取締店長に抜擢された岡崎晴彦は、経理担当・藤井康という良き参謀を得たことも有り、銀座ファミリアを成功させ、目標を大きく上回る売上げを記録したのであった。

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