吉本せいの生涯-ゴロゴロ冷やし飴の元祖

NHKの朝ドラ「わろてんか」のモデルとなる吉本興業の創業者・吉本せいの生涯を描く「吉本せいの生涯」の第7話です。

木戸銭は5銭やで

何やっても客が入らないという三流の寄席「第二文芸館」の営業権を購入した吉本泰三(吉本吉兵衛)は、岡田政太郎の「浪速落語反対派(岡田興行部)」と提携して明治45年(1912年)4月1日に「文芸館」として営業を開始した。これが吉本興業の創業である。

吉本泰三は寄席の経営のみにであり、提携する岡田政太郎の「浪速落語反対派」から、モノマネ・曲芸・剣舞・女講談など、「色物」と呼ばれて二流・三流扱いを受けていた芸人を派遣してもらった。

岡田正太郎にとっても吉本泰三は大事な仕事のパートナーなので、当然、経営のアドバイスはあっただろう。

「安くて面白い」という方針の田正太郎が木戸銭(入場料)5銭で寄席を経営しており、吉本泰三も同様に「文芸館」の木戸銭(入場料)を5銭にした。5銭と言えば、キツネうどん1杯くらいの値段である。

一般的な寄席の入場料は15銭ほどで、一流の寄席は出し物が良いときは入場料1円ほどしたというので、「文芸館」の入場料5銭というのはかなり安い。

ただし、一般の寄席は入場料に下足代が含まれていたが、「文芸館」は木戸銭(入場料)と別に下足代2銭を取った。実質的な入場料は7銭だが、これも入場料を安く見せるための工夫だった。

さて、吉本せい(林せい)は寄席の入り口に「木戸銭5銭、下足代2銭」と書いた木の札をぶら下げておいた。

しかし、その裏には「木戸銭10銭」と書いており、雨が降ると、雨宿りするために客が入ってくるので、クルリと木の板をひっくり返して、木戸銭を倍にするのだ。雨が降ると傘の値段を上げるようなことをしていた。

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芸人の心を掴む

寄席の経営を開始すると、本泰三は木戸番をやり、吉本せい(林せい)は下足番や売り子から芸人の世話までした。

また、入場料5銭の「文芸館」に出演するような芸人は、弟子を連れられるような身分ではないので、身の回りのことは自分でやらなければならない。

そこで、吉本せい(林せい)が芸人汗を拭いてやったりして、弟子の代わりとなって芸人の世話を焼いて面倒を見た。

このころは、太っていた方が美人扱いをされたようで、太目の吉本せい(林せい)は人気があったし、若い女性が賢明に世話してくれて悪い気になる男性はいない。芸人らは、吉本せい(林せい)に感謝して、舞台で張り切った。

また、吉本泰三が芸人遊びをしていた時に恩を受けた芸人連中が、恩返しとばかりに「文芸館」へと駆けつけた。

このため、芸人は客が少なくても決して手を抜かずに熱演を続けた。

すると、吉本泰三は喜び、「後はまかせたで」と言い、「文芸館」のことを妻・吉本せい(林せい)に任せて、芸人を率いて遊びに行き、利益度外視で芸人を可愛がったので、「文芸館」の経営は吉本せい(林せい)の双肩にかかってきた。

ワテはゴロゴロ冷やし飴の元祖や

明治時代にクーラーなど無いので、夏になると、寄席は客足が落ち込む。そうした窮地を打開したのが、吉本せい(林せい)が考案した「ゴロゴロ冷やし飴」だった。

冷やし飴とは、水飴を湯で溶いて、ショウガを加えた、関西で定番の飲み物である。

当時は、4斗樽に氷の塊を入れ、その中に冷やし飴の瓶を入れて冷やすのが一般的だったが、これでは満遍なく冷えず、客から「冷えてない」とクレームが来ることがあった。

そこで、吉本せい(林せい)は、「ゴロゴロ冷やし飴」を考案した。

台の上に氷の塊を置き、冷やし飴の瓶1本を氷の塊の上でゴロゴロと転がしていると、氷が溶けて凹みが出来る。

すると、今度は、出来た凹みに、冷やし飴を瓶を3~4本入れて、ゴロゴロと転がすのである。

台の上に氷の塊を置き、氷の上に冷やし飴の瓶を並べて、ゴロゴロと転がし、冷やし飴を冷やすという方法を考案した。こうすれば、どの瓶もよく冷えるのだ。

吉本せい(林せい)が考案したゴロゴロ冷やし飴は、見た目も珍しいというこどで、次第に評判となっていき、1本2銭の冷やし飴が飛ぶように売れた。

また、吉本せい(林せい)は寄席の出入り次に簡易な売店を作っており、通行人にも販売したので、ゴロゴロ冷やし飴を買ったついでに、寄席を観ていくという客も増え、夏場の不入りを乗りきることが出来た。

吉本せい(林せい)は、このゴロゴロ冷やし飴を考案したことが嬉しかったらしく、「ワテはゴロゴロ冷やし飴の元祖や」と口癖のように言っていた。

吉本泰三がお茶子の前掛けをデザイン

すると、吉本泰三も負けじと、お茶子の前掛けを考えた。「吉」という字が菱形になるようにデザインし、お茶子が前掛けをかけると、この菱形の部分がお茶子の股間にくるように配置した。これは完全な下ネタなので解説は省略する。

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定員200人の寄席に750人を動員

寄席では、客が増えてると、「お膝送り」と言って、先に入っている客に詰めてもらい、新たな客を入れる。

寄席はイスではなく、桟敷なので、桟敷に何人の客を詰め込めるかは、お茶子の腕の見せ所である。

吉本せい(林せい)は、お茶子も担当しており、次々に客を詰め込んで行くのだが、これ以上は無理という状況でも、客と客の間に自分のお尻を割り込ませてスペースを開けると、そこに座布団を置いて新しく呼び込んだ客を座らせるのである。

さらに、吉本せい(林せい)は、満員になると、つまらない芸人に長々と芸をさせて、客を帰らせたり、芸人の順番を抜かして先頭の芸人を舞台に上げ、客に「もう1周したんかいな」と思わせて帰らせたりして、席が空くと、また客を呼び込んで座らせた。

また、吉本せい(林せい)は、真夏でも寄席を締め切って中の空気を換気せず、客が気分が悪くなって帰らせるように仕向けた。

こうした様々な努力により、夜の1回公演で7円を売上げ、天満天神(天満宮)が祭りの日には1日に入場料だけで35円を売り上げた。入場料で35円ということは、定員は150から200人の「文芸館」に、1日で700人を動員したことになる。

さらに、吉本せい(林せい)は、一流の寄席では席内で販売する食べ物や飲み物の売上げが相当あると聞くと、松屋町の駄菓子屋へと買い付けに行き、オカキや煎餅や酢昆布など、喉の渇きそうな物を仕入れて席内で販売し、ラムネの売上げを伸ばした。

また、冬になると、客席にミカンの皮が捨てられているのを見て、何かに利用できないかと思い、修道町の漢方問屋に相談し、咳止め薬の陳皮の原材料としてミカンの皮を販売する約束を取り付け、ミカンの皮を干して漢方問屋に運んだ。微々たる値段だったが、それでも貴重な収入源だった。

とにもかくにも、吉本せい(林せい)は借金を返済するためにがむしゃらに働き、程なくして500円を貯めて借金を返済する事に成功している。

(注釈:吉本せいが考案したのは「ゴロゴロ冷やし飴」と「客のすし詰め」だけで、その他の手法は他の寄席でも一般的にやっている行為だった。)

吉本せいの生涯-吉本興行部(吉本興業)の設立」へ続く。

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