花菱アチャコの立志伝

近代漫才の祖を築いた漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」のツッコミを担当した花菱アチャコの生涯を描く立志伝です。

花菱アチャコの生涯

花菱アチャコ(本名は藤木徳郎)は、明治30年(1897年)2月14日に福井県勝山市で、藤木広吉の次男として生まれた。母親は藤木エンである。

父・藤木広吉は光沢寺の次男で、兄が光沢寺を継いだため、仏壇屋「三浦」に養子に出され、仏壇屋の娘・藤木エンと結婚した。

しかし、仏壇屋「三浦」の道楽息子が仏壇屋を継いだため、花菱アチャコが生まれて間もなく、父・藤木広吉は大阪の天満へと移り住んだ。このため、花菱アチャコは福井県時代の事を全く覚えていない。

大阪に移った父・藤木広吉は、マドロスパイプの製造販売を始めるのだが、全く売れなかった。家計は苦しく、食べるのがやっという生活だった。

花菱アチャコは口減らしのため、3歳の時に綿屋「丸井」へ養子に出されたが、養子先に馴染まず、5歳頃に実家へ戻る。

花菱アチャコが実家に帰ると、弟と妹が生まれており、貧乏に拍車がかかっていたが、やはり、実家は居心地が良かった。

しかし、花菱アチャコは、再び口減らしのため、松島の遊郭の堀井楼に養子に出されてしまう。だが、ここでも養子先に馴染めず、1年で実家へ逃げ戻った。

両親は、仕方が無いので小学校だけは出してやると言い、花菱アチャコは7歳の時に九条第1小学校へ入学し、3年生からは九条第3小学校へ通った。

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花菱アチャコの初舞台

花菱アチャコは小学校のとき、親の目を盗んで金を工面し、芝居小屋「繁栄座」へ足繁く通った。

繁栄座の木戸銭(入場料)は大人5銭、子供3銭で、実家が貧乏な花菱アチャコに毎日、通うほどの金は無い。そこで、知恵を絞った。

繁栄座は入場チケットではなく、手にスタンプを押すのが入場券代わりだったので、花菱アチャコは友達とお金を出し合い、1人分の木戸銭3銭を作り、1人が木戸銭を払ってスタンプを手に押してもらうと、一度、繁栄座を出て、友達の手にスタンプを写し、みんなで繁栄座に入ったのである。

子供の考える事なので、バレていだろうが、そんなに芝居が好きなのなら、ということで見逃してくれていたのだろう。

こうして、不正入場ながらも毎日、芝居が見られるようになると、花菱アチャコは、楽屋に入りたくなり、なけなしの4銭を叩いてゴールデンバット(タバコの銘柄)を購入し、風呂焚きのオヤジに渡すと、すんなりと楽屋に取り次いでくれた。

こうして、花菱アチャコが楽屋に出入りするようになって少しすると、「芝居に出てみないか」と誘われた。

「己が罪」という芝居に登場する玉太郎の友達として子供10人ほど必要なので、出演しないかというのである。

こうして、花菱アチャコは「己が罪」で初舞台を踏んだ。1日2銭、大入りになると5銭の出演料をくれたのが、何より嬉しかった。

出演期間は1ヶ月ほどだったが、一端の役者気取りになり、この舞台出演が花菱アチャコの運命を左右することになる。

奉公先で目覚める

藤木家は貧乏が板に付いており、両親の「小学校は出してやる」という約束は叶わず、花菱アチャコは5年生に成る前に学校を辞めさせられ、唐物町にある額縁店「長野」に奉公へ出された。

花菱アチャコは泣く泣く奉公に出たが、幸運なことに奉公先の旦那が三日と置かずに劇場に通うという無類の芝居好きで、花菱アチャコは旦那に気に入られ、旦那のお供で芝居を見るようになった。

そして、しばらくすると、花菱アチャコは昔の芝居好きがムクムクと目を覚まし、芝居をかぶりついてみるようになっていた。

芝居好きの丁稚が居るらしいという話しが広まって、店に芝居好きの客が来ると、花菱アチャコは座敷に呼ばれるよういなり、曾我廼家五郎のモノマネをして客を笑わせるようになった。

すると、客は喜んで、商談も成立したので、店も万々歳である。花菱アチャコは奉公が上手く行くようになった。

しかし、実家の方がいよいよ行き詰まり、今の奉公先の給料では焼け石に水だったので、2年間、勤め上げた額縁店「長野」を辞めて、安治川鉄鉱所の作業員に転職し、1日25銭の給料をほとんど家に入れた。

ところが、いったん目覚めた芝居好きは押えようがなく、仕事が終わると、夜店を見て回ったり、大道芸人の芸を見るようになった。

そのうちに、花菱アチャコは、モグリの大道演歌団に入り、1部5銭の楽譜を売るために声を張り上げて歌うようになった。

これが大成功し、安治川鉄鉱所の給料よりも多くのギャラをもらうこともあり、給料以外にもお金を持って帰るようようになったため、母・藤木エンに隠しきれなり、モグリの大道演歌団は辞めさせられた。

明治時代の中期に、玉子屋円辰が、正月を祝う「萬歳」から祝い事の要素を排除し、演芸としての「万歳」を開始して大当たりさせた。これが後の「漫才」である。

花菱アチャコは万歳を目指し、万歳の始祖・玉子屋円辰に弟子入りしようとしたのだが、声がダメだと言われて弟子入りを拒否されてしまった。

次に曾我廼家五郎の門を叩いたが、これまた入門を断られてしまった。

母・藤木エンが「そないに好きやったら」ということで、知り合いの伝を頼ってくれ、花菱アチャコは山田九州男(山田五十鈴の父)の一座「美成団」に入れることになった。

しかし、この頃は芸人に対する差別が残っており、父・藤木広吉は「1000両取ったかて、役者は乞食や」と大反対した。

花菱アチャコは、自分の好きな道で生きていきたいと思い、父・藤木広吉を説得したが、父・藤木広吉は説得に応じず、花菱アチャコを勘当したのであった。

花菱アチャコを応援してくれたのは、母・藤木エンだけで、生涯、母・藤木エンへの感謝を忘れなかった。

芸能界に入る

こうして、花菱アチャコは、大正2年(1913年)、16歳の時に山田九州男の新派悲劇の一座「美成団」に入り、念願の芸能界へと足を踏み入れた。

しかし、1年ほど頑張ったも、一向に芽が出ないので、太夫元(興行主)の川崎に相談すると、川崎から「ええとこに気いついたな。君は体が大きいだけで、顔も声も取り柄が無い。君の才能は体だけや。その体と取り柄の無い顔を活かすのは喜劇しかない」と助言された。

こうして、花菱アチャコは大正3年(1914年)、17歳の時に太夫元・川崎の紹介で喜劇一座「鬼笑会」という14~15人の小さな一座に入り、喜劇へと転向した。

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花菱アチャコの名前の由来

花菱アチャコは喜劇一座「鬼笑会」に入ったが、喜劇は初めての世界で何も分からないため、芸人の世話ばかりしていた。

しかし、既に世話係は1人居たので、2人も世話係は要らないと言い、座長からクビを言い渡されてしまった。

花菱アチャコは実家を捨ててきたので、「もう少しだけ勉強させてくれ」と手を突いて頼むと、座長は少し考え込み「仕方ない」と言って、「鬼笑会」に置いてくれた。

こうして、喜劇一座「鬼笑会」に残った花菱アチャコは、数々の修行を開始する。その1つに拍子木を打つ仕事があった。

舞台の最後の場面で、舞台の出演者全員が動きを止めて静止すると同時に口を「ア」の字にあけて人形のマネをする。そこで拍子木を1回「チョン」と打つと、幕が閉まる。拍子木の仕事は舞台の最後を飾る大事な仕事だった。

座長は「役者が『ア』と言ったら、『チョン』やで」と教えてくれたので、簡単な仕事だと思っていたが、いざ、やってみると、非常に難しく、いつまで経ってもタイミングが上手く掴めない。

座長から「『ア』と言ったら、『チョン』やで」と何度も言われても、上手くできず、自信を失っていると、他の劇団員からも「『ア』、『チョン』やで」と、からかわれるようになり、終いには名前ではなく「アチョン」と呼ばれるようになった。

そのうち、花菱アチャコは、拍子木は外野ではなく、拍子木も役者なのだと気づき、拍子木の間を掴んだのであった。

そこで、花菱アチャコは、芝居の根底する「間」と「イキ」を会得した事を記念して、「アチョン」から「アチャコ」を取り、「アチャコ」という芸名を付けた。

花菱は、実家の藤木家の家紋「二重亀甲の花菱型」から取り、「花菱アチャコ」と名乗るようになる。

(注釈:花菱アチャコの名前の由来には諸説があり、「花菱」については、吉本興業の林正之助が花菱アチャコを溺愛し、吉本興業の家紋を名乗らせたという説もある。「アチャコ」についても複数の説がある。しかし、本人が認めているのは、上で紹介した説である。)

漫才師・花菱アチャコの誕生

喜劇一座「鬼笑会」では、幕と幕の間に万歳(漫才の前身)を出しており、菅原家千代丸・利三丸という中堅の万歳コンビが居たのだが、相方の利三丸が喜劇一座「鬼笑会」の花形と駆け落ちしてしまった。

舞台の方が代役を立てれば良いが、万歳は代役というわけには行かず、喜劇一座「鬼笑会」は困り果てしまった。

そこで、いつも、舞台袖で万歳を熱心に見ていた花菱アチャコは、千載一遇のチャンス到来と思い、「一度、ワテを使うておくれやす。あんさんの芸を良く見聞しておりましたんや。利三丸の代わりやったらできると思いますさかい。是非ワテにさしてみておくんなはれ」と頼んだ。

菅原家千代丸は花菱アチャコが熱心に見ていたのを知っていたので、「そうか。試しにやってみるか」と言い、花菱アチャコを相方に抜擢し、「菅原家千代丸・花菱アチャコ」という万歳コンビが誕生したのである。

なお、この頃の万歳は歌や踊りの間に「喋り」が入るというのが一般敵で、万歳のメーンは歌や踊りであり、間をつなぐ「喋り」というのは添え物にしか過ぎなかった。

神戸の新開地へ進出

花菱アチャコは万歳という舞台を得て活躍するようになると、物事は上手い方に回るもので、喜劇一座「鬼笑会」から辞めていく役者も居て、役者としても中堅役者にまで出世した。

ところが、大正4年(1915年)に喜劇一座「鬼笑会」は岡山巡業中に解散してしまう。花菱アチャコは入って1年半のことだった。

解散後、万歳コンビ「菅原家千代丸・花菱アチャコ」は、神戸の曾我廼家吾楽の一座に入る事ができた。

神戸と言っても曾我廼家吾楽の一座が出演していたのは、奥平野という不便な場所にある大和座で、閑古鳥が鳴く小屋だった。

奥平野の大和座の座主・吉田奈良丸は、神戸・新開地にも大和座を持っており、しばらくすると、新開地の大和座で空きが出たため、新開地の大和座の番頭は面白い一座を探して方々を駆け回っていた。

花菱アチャコら曾我廼家吾楽一座は奥平野の大和座で、客が入らないのに、一生懸命に頑張っており、何よりも面白かったので、新開地の大和座の番頭に認められ、損得は抜きで出だしてみようということになり、新開地の大和座に出演することになった。

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万歳のメッカ神戸で開花

漫才は元々、「萬歳」と書き、「太夫」と「才蔵」の2人組が正月に家を訪問し、家の前で縁起の良い踊りなどを披露し、正月を祝う芸だった。

それを明治時代の中期に、玉子屋円辰(西本為吉)が「萬歳」から「祝い事」という部分を排除して、演芸としての「万歳」が始まった。

ところが、当時の「万歳」は卑猥だったため、神戸の相生署長が「公序良俗に反する」として、神戸での万歳を禁止した。

それから10年後、大阪の万歳師・砂川捨丸が「万歳」から卑猥な要素を取り除いた、「洗練された万歳」を確立した。

そして、砂川捨丸が「洗練された萬歳」で相生署の検閲を受けて見事に合格し、10年振りに神戸で万歳が解禁され、砂川捨丸が神戸の寄席で「洗練された万歳」を披露した。

神戸では長らく万歳が禁止されていた反動もあり、砂川捨丸の「洗練された萬歳」は当たりに当たった。

このため、大阪や京都で活動していた万歳師も神戸に集まり、神戸の新開地は万歳の中心地となっていたのである。

このようななか、曾我廼家吾楽一座は新開地の大和座に出演することになり、「菅原家千代丸・花菱アチャコ」は幕と幕の合間に万歳を披露した。

花菱アチャコは、万歳と喜劇の両方に出演した事が功を奏して大人気となり、客は「大和座を観に行こう」とは言わず、「アチャコを観に行こう」と言うほどで、新開地の大和座は「アチャコの小屋」と呼ばれるようになっていた。

通常は1ヶ月公演で出演者が変わるのだが、曾我廼家吾楽の一座は4年間常打ちとなり、月に15円だった花菱アチャコの給料は、45円にまで跳ね上がった。

花菱アチャコの徴兵検査

花菱アチャコは大和座に寝泊まりしており、紋付き羽織に和服の着流しを着て徴兵検査へ行った。

すると、検査官から「そんな格好をしとる奴は、役者かヤクザしかいない。役者なんてもんじゃないし、お前はヤクザだな」と言われた。

花菱アチャコは「いえ、その役者でんねん」と説明したが、検査官は最後まで信じてくれず、支那人(中国人)かと疑われてしまった。

徴兵検査では名前の事で散々な目に遭ったが、「アチャコという名前は弱そうだ」と言うことで、第1乙となって、徴兵には行かずに済んだ。

横山エンタツとの出会い

花菱アチャコは、神戸の新開地で人気の絶頂期を迎えていたが、大和座の座主・吉田奈良丸が大和座を止めることにしたので、花菱アチャコは旅巡業の一座に加わり、九州へと巡業に出た。

しかし、九州では志賀廼家淡海の喜劇一座が大人気となっていたため、花菱アチャコらの一座は全く客が入らず、そのうちに太夫元の金が尽きて、一座は九州で消滅してしまう。

そこで、神戸に逃げ帰った花菱アチャコは、相方の菅原家千代丸を説得して喜劇一座「堀越一蝶一座」に入った。

大正10年(1921年)の春、喜劇一座「堀越一蝶一座」に入った花菱アチャコは、堀越一蝶一座で万歳を目指す横山太郎と出会った。

この横山太郎が、後に相方となる「横山エンタツ」である。

花菱アチャコは、横山太郎(横山エンタツ)の第一印象について「世の中にこんな生意気な人間はないということであった。溢れる才能と、それに対する自信が彼をして強い自負の態度をとらせ、巡業の失敗の状態にあった私には、それが傲慢とも思える姿に映ったのかもしれない」と述べている。

花菱アチャコは、真っ直ぐに私を見据えて目線を離そうとしない横山太郎(横山エンタツ)に「なぜか私には、それがカチンときた。しかし不愉快な気持ちではなかった。なんというか、普通の人間の何倍も気になるというのが、強烈な印象を私は受けたのである」という印象を受けた。

一方、横山太郎(横山エンタツ)も、「私を見つめる目の色に、やがてホホウという軽い驚きのようなものが走った」と感じ、花菱アチャコを意思した。

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喋くり漫才の誕生

花菱アチャコと横山太郎(横山エンタツ)は同じ劇団に在籍していたが、一緒に話し合うようなことは無く、万歳を目指す者同士として意識しあう程度であった。

そのようななか、堀越一蝶一座が兵庫県・明石にある三白亭という小さな小屋に出演したときのことである。

重要な役を演じる役者に急用が入ったため、幕開けの時間を延ばすことになり、その間、なんとか時間を繋がなければならなくなった。

そこで、花菱アチャコと横山太郎(後の横山エンタツ)は、これまで特に話した事など無かったが、即興で万歳をやることにした。

この頃の万歳は歌や太鼓の間に馬鹿話をしており、歌や踊りが万歳のメーンで、喋りは歌や踊りの間をつなぐ添え物だったが、花菱アチャコは添え物の喋りに万歳の面白みがあると考えていた。

花菱アチャコも横山太郎(横山エンタツ)も、万歳のメーンとなる歌や踊りが苦手だったこともあり、花菱アチャコは「添え物」の「喋り」だけで万歳を構成することを提案したのでる。

横山太郎(横山エンタツ)は提案に応じ、簡単な打ち合わせをすると、舞台へと上がった。こうして、世界初の「喋くり漫才」が誕生した。

ところが、万歳を期待していた客は、歌も踊りもしない2人に激怒し、「万歳をやれ」と罵声を浴びせかけて、ミカンを投げつけるという有様で、世界初の「喋くり漫才」は誰にも理解されず、散々な結果に終わった。

しかも、堀越一蝶一座も客が入らず、数ヶ月のうちに解散してしまった。

乙女会の旗揚げと池田初代の結婚

大正7年(1918年)、堀越一蝶の喜劇一座が解散して大阪へ逃げ帰った花菱アチャコ(22歳)は、大志を抱いて座長となり、喜劇一座「乙女会」を旗揚げした。

この乙女会が九州で公演することになり、大分県の「鶴崎座」で3日間、公演したときのことである。

この公演は商店街の主宰するイベントだったので、初日の公演が終わると、商店街の幹部が一流料亭「招福桜」に連れて行ってくれた。

どんちゃん騒ぎが終わってお開きになり、花菱アチャコが帰ろうとすると、一緒に行動している平井君が「アチャやん。ちょっと待ちいな。今晩は泊まる所に段取りが出来てるんや」と言った。

商店街のお偉いさんが、気を利かせて女を世話してくれたのだが、世話してくれた女は良く肥えており、タイプでは無かったので、花菱アチャコは断った。

しかし、花菱アチャコは気になる娘(池田初代)が居たので、平井君に、あの娘(池田初代)と話を付けてくれと頼むと、戻ってきた平井君は「あの女子(池田初代)はあかん。あれはこの店(招福桜)の娘や」というので諦めた。

さて、乙女会の公演中は、一流料亭「招福桜」から朝食が届けられることになっており、翌朝、招福桜から朝食が届いたのだが、花菱アチャコの分だけ、特別になっていた。

花菱アチャコが「なんで、ワシの分だけ別なのや」と尋ねると、「座長さんの分は娘さん(池田初代)が特別にあつらえて作ったんだす」と教えてくれた。

その後、3日間の公演が終わり、招福桜から最後の食事が届いたとき、花菱アチャコは、つい、口を滑らせて「ここを打ち上げたら、福岡の『川丈座』へ行く。娘さんに、遊びに来るなら、そこに尋ねてくるように」と、伝言を頼んでしまった。

そんなことをすっかり忘れて、福岡県の「川丈座」で公演をしていると、一流料亭「招福桜」の娘・池田初代が本当に尋ねてきたのである。

花菱アチャコは帰るように勧めたが、池田初代は帰らないと言い、その日、2人は結ばれ、一緒に寝起きするようになった。

そこへ、池田初代のおじいさんが迎えにきた。池田初代は親元を離れて、おじいさんと暮らしており、池田初代は不本意ながら、おじいさんの元へ帰ったのだが、3日も経たずに花菱アチャコの所に舞い戻ってきた。

2度目の連れ戻しには鶴崎の親分が同行しており、娘が帰らないのはアチャコが呼んでいるからに違いないと言い、花菱アチャコは脅された挙げく、池田初代とは一切会わないという念書を書かされ、池田初代と別れた。

その後、喜劇一座「乙女会」の方は、無名が祟って客の入りが悪く、団員がポツポツと減っていき、旗揚げから、わずか1年で公演不能に陥り、九州で解散(消滅)した。

乙女会が消滅した後、花菱アチャコは大阪へと戻って「大八会」という色物中心の団体に入った。

そこへ、じいさんの元へ帰った池田初代が、再びやって来た。話を聞いてみると、池田初代は身ごもったのだという。

それを聞いた花菱アチャコは、池田初代のじいさんに「きっと幸せにしてみせる。今度の件は承知して欲しい」と手紙を書き、ついには、じいさんも両親も根負けし、池田初代と結婚する事を認めてくれたのだった。

花菱アチャコが吉本興業に所属

花菱アチャコは、自分が立ち上げた喜劇一座「乙女会」が九州で消滅した後、大阪へと逃げ帰り、「大八会」に入った。

「大八会」は、大阪の演芸界を席巻していた吉本興行部(吉本興業)の手法に便乗する形で発足し、色物中心の芸人を集め、格安の入場料で笑いを提供する一派だった。

花菱アチャコは、大八会で砂川菊丸(浮世亭夢丸)と万歳コンビを組み、万歳から歌や踊りを排除した「喋くり漫才」をやってみたものの、客からは不評だったため、恥を忍んで数え歌や踊りなどを主とした従来の万歳をやっていた。

そのようななか、吉本興行部(吉本興業)の林正之助は、梅田の青竜館で、花菱アチャコの万歳を見て、どうしても花菱アチャコだけは取得することに決めた。

吉本興行部(吉本興業)は、14年前の明治45年(1912年)4月1日に三流の寄席「文芸館」の経営からスタートし、「寄席のチェーン展開」「格安の入場料」という戦略で急成長を遂げ、大阪の演芸界を統一し、吉本王国を築いた。

しかし、明治時代に入ると、時代の変化から、演芸の中心にあった落語が衰退の一途をたどっており、吉本興業は落語に変わる演芸を探さなければならなかった。

そこで、吉本興業の林正之助は、端席で流行していた万歳に目を付けて万歳師を引き抜いていたとき、花菱アチャコの舞台を見て惚れ込み、吉本興業にスカウトしたのである。

花菱アチャコは4年ほど大八会に所属していたのだが、大八会の太夫元(興行主)・平野三栄が死去して、大八会が解散してしまったため、林正之助の誘いを受けて吉本興行部(吉本興業)に入ったとう。

しかし、別説では、大八会が解散したのは、もっと後の昭和5年(1930年)で、大八会は千日前へと進出したが、吉本興行部(吉本興業)の反撃にあって昭和5年(1930年)に解散しているので、林正之助が花菱アチャコを強引に引き抜いたという。

(注釈:林正之助が大八会を潰したようなので、別説の方が正しいようである。)

こうして、大八会にいた花菱アチャコ(30歳)と千歳家今男は、大正15年(1926年)に吉本興行部(吉本興業)へ入ったのである。

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座長漫才人気投票で1位に

昭和5年(1930年)3月、吉本興業の企画で「座長漫才人気投票」が開かれた。吉本興業の花月に出演する万歳コンビで、誰が一番人気なのかを競う企画である。

期間は10日間で、木戸銭30銭を払って入場すると、客は好きな万歳コンビに1票投票できるというルールだった。

3日目の第1回開票では、花菱アチャコ・千歳家今男のコンビは3位だったが、最終回票では2位を1000票も引き離して優勝した。

この結果を持って、「花菱アチャコ・千歳家今男は人気コンビだった」とされるのだが、「座長漫才人気投票」での優勝にはカラクリがあった。

実は、花菱アチャコ・千歳家今男のコンビを贔屓にしていた客・中島清祐が、家族や従業員、円タクの運転手30人を集めて、10日間の大会開催中に毎日、何度も通わせて、投票させており、花菱アチャコ・千歳家今男は組織票で優勝したのだ。

吉本興業の林正之助は、目を掛けていた花菱アチャコが優勝したので、このころから、人目をはばからず、花菱アチャコを可愛がるようになった。

吉本せい(林せい)は、「他の芸人に示しがつかない」と弟・林正之助を注意したのだが、林正之助は気にせず、花菱アチャコを可愛がった。

エンタツ・アチャコの結成

花菱アチャコは、人気投票で1位になった後、相方の千歳家今男と口論になった。

すると、吉本興業の林正之助が、千歳家今男が悪いと言って千歳家今男を殴り飛ばしたので、千歳家今男は吉本興業を辞めて、千日前の愛進館の大八会へと入った。

コンビ別れした花菱アチャコは、何人かとコンビを組んだが、長続きせず、1人でやっていた。

そのようななか、花菱アチャコの元に、横山エンタツ(元・横山太郎)がときどき、遊びに来ていた。

横山エンタツは、8年前に花菱アチャコと同じ喜劇一座「堀越一蝶一座」に在籍しており、即興で万歳コンビを組んで「喋くり漫才」を披露した横山太郎である。

横山太郎は、「堀越一蝶一座」が解散して花菱アチャコと別れた後、神戸の「樋口興業」に入り、中村種春(女性)とコンビを組んで、東西交流の波に乗り、東京の舞台で活躍していた。

そして、横山太郎は東京時代に「横山エンタツ」と改名し、東京で活躍していたが、関東大震災の時に怪我をして大阪へ逃げ帰り、傷が癒えると、昭和4年(1929年)に総勢9人の喜劇一座「瓢々会」を率いてアメリカ巡業を行ったが、失敗に終わった。

そして、帰国した横山エンタツは、芸能界に失望して、ヘアピン(パーマをかける機械)やハトロン紙の製造をしていたが、こちらも運気に見舞われず、大阪の玉造で落ちぶれていた。

そして、横山エンタツは大阪の人ではないので、友達が居らず、ときどき、花菱アチャコの所に遊びに来ていたのである。

時を同じくして、吉本興業の林正之助が横山エンタツに目を付けた。

横山エンタツは芸能界に失望しており、吉本入りを断ったが、林正之助は何度か横山エンタツの自宅に通った末、暴風雨のような雨が降る日に、横山エンタツのスカウトに成功した。

このとき、横山エンタツが出した条件が、花菱アチャコを相方にするというものだった。今一度、芸能界に戻るのなら、花菱アチャコと「喋くり漫才」に賭けてみようと思ったのである。

吉本興業の林正之助はこの条件を飲み、昭和5年(1930年)に横山エンタツが吉本興業に入り、昭和5年5月に「エンタツ・アチャコ」が誕生した(昭和6年にコンビを結成したという説も有り)。

花菱アチャコが34歳、横山エンタツが35歳のことである。

エンタツ・アチャコの2人漫談

昭和5年(1930年)5月から「エンタツ・アチャコ」は、万歳から歌や踊りを排除して会話だけで構成した「喋くり漫才」を「2人漫談」と称して三流の舞台に上がる。

「エンタツ・アチャコ」の万歳を主導したのだ横山エンタツである。横山エンタツは東京時代にありとあらゆるタイプの万歳をやり尽くしたという万歳の天才で、横山エンタツはビシビシと花菱アチャコを鍛えた。横山エンタツの指導は、手が出ることもあるほど厳しかった。

そして、横山エンタツは、従来の万歳や万歳師を「低俗で下品」と嫌い、新聞などを徹底的に読んで時事ネタを盛り込んだ漫才を作った。

さらに、吉本興業の林正之助は「エンタツ・アチャコ」にスーツを着せたり、「キミ」「ボク」という標準語を取り入れさせたり、マイクスタンドの前で萬歳をやらせたりして、近代漫才スタイルの原型を作った。

しかし、この頃の万歳は歌や踊りを主体とする万歳が一般的であり、エンタツ・アチャコの「2人漫談」は受け入れられず、客からは罵倒やミカンが跳んでくるという有様だった。

ところで、このころ、世界恐慌の影響で日本も不況に見舞われており、吉本興業の林正之助は千日前の「南陽館」を入場料10銭という格安にして漫才を見せる「10銭万歳」を始め、この「10銭万歳」が大当たりする。

ちょうど、大正時代末期から昭和初期にかけてサラリーマンが増えており、こうした若い世代は古い形式にとらわれず、流行に敏感だった。

「エンタツ・アチャコ」の「2人漫談」は、「10銭万歳」の大ヒットも手伝って、サラリーマンという若い世代に受け入れられ、「インテリ萬歳」として人気が出始めたのである。

「変わった萬歳やてるで」ということで、エンタツ・アチャコの噂は広まって、寄席は連日の満員となり、エンタツ・アチャコは結成から、わずか半年で、一流の寄席「南地花月」へと進出したのである。

しかし、この頃は、一流の寄席では未だに落語が中心で、万歳は二流・三流の扱いを受けており、落語家はお囃子で優雅に舞台に上がるのだが、万歳の時になると、お囃子を演奏する人がソッポを向いてしまうため、万歳師は太鼓の音だけで舞台に上がるという有様だった。

満州慰問「皇軍慰問隊」

昭和6年(1931年)9月、満州事変が勃発すると、吉本興業の林正之助は、朝日新聞と手を組み、昭和6年12月に満州駐留軍の慰問団「皇軍慰問隊」を派遣した。

メンバーは、漫才のエンタツ・アチャコ、講談の神田山陽、漫談の花月亭九里丸という小規模な慰問団で、これに吉本興行部の支配人・滝野寿吉が同行した。

「アチャコ」が来るというので、将校の間で「もの凄いべっぴんさんが来る」という噂になったのだが、花菱アチャコは図体の大きい「おっさん」だってので、期待していた将校は腰を抜かして驚いた、というエピソードも残っている。

花菱アチャコは、満州で怖い思いもしたが、朝日新聞が満州慰問団「皇軍慰問隊」を大々的に報じてくれたので、二流・三流の扱いを受けていた万歳の格も上がり、「エンタツ・アチャコ」の良い宣伝になった。

なお、花菱アチャコは、今回の皇軍慰問隊を含めて計3回、満州を慰問している。

万歳から漫才へ

吉本興行部は、昭和7年3月に「吉本興業合名会社」へと改組し、吉本せい(林せい)が主宰者に就任し、林正之助が総支配人に、林弘高が吉本興業の東京支配人に就任した。

昭和7年10月には、東京支社に入社していた橋本鉄彦(橋本鐡彦)を大阪へと呼び寄せ、昭和8年1月に「文藝部」「宣伝部」「映画部」を発足し、橋本鉄彦(橋本鐡彦)に統括を任せた。

この橋本鉄彦(橋本鐡彦)が、エンタツ・アチャコの「2人漫談」「喋くり漫才」を見て、もはや「万歳」ではないと考え、吉本興業の文藝部が発行する「吉本演芸通信」の中で、「万歳」という表記を「漫才」へと変更する事を発表したのである。

これは万歳師からも大きな反対があったが、橋本鉄彦(橋本鐡彦)の説得により、万歳師も納得し、名実ともに「漫才」時代を迎えたのである。

伝説の「早慶戦」の誕生

昭和8年(1933年)の秋、柳家金語楼が早慶戦・第3回戦のチケットを2枚くれた。当時の6大学野球の早慶戦と言えば、プロ野球の巨人阪神戦を上回るほどの人気だった。

昭和8年10月22日、エンタツ・アチャコは、もらったチケットでネット裏に陣取り、早慶戦を観戦していると、7対7で迎えた9回表に事件が起きた。

第8回に慶應義塾大学の3塁側コーチ水原茂が審判の判定に抗議するという騒動があったことから、3塁側の早稲田大学応援団が9回表に、3塁側コーチ水原茂にリンゴの芯を投げつけた。

すると、水原茂がリンゴの芯を3塁側に投げ返したので、早稲田大学応援団が激怒。慶應義塾大学が試合に勝ったこともあり、試合後、早稲田大学応援団が慶應義塾大学の応援ベンチに流れ込み、暴動を起こしたのである。世に言う「リンゴ事件」である。

この早慶戦(リンゴ事件)を観たエンタツ・アチャコは、大阪へ戻ると、漫才のネタを作り上げた。こうして完成したのがエンタツ・アチャコを代表する「早慶戦」である。

(注釈:ただし、ネタ「早慶戦」に「リンゴ事件」の事が含まれていないので、「リンゴ事件」を観ていないという説や、エンタツ・アチャコは昭和6年ごろから既にネタ「早慶戦」を披露していたという証言もある。)

ラジオの電波に乗って全国に

昭和に入ってラジオが普及し始めると、吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)は、ラジオで落語が聴けるようになれば、誰も寄席に来なくなるとラジオに危機感を募らせ、所属する芸人にラジオ番組への無断出演を禁じて念書を取った。

しかし、昭和5年(1930年)12月17日に落語家の初代・桂春団治が、吉本興業に無断で大阪放送局(NHK大阪/JOBK)のラジオ放送に出演し、「祝い酒」を語るという事件を起こした。世に言う「初代・桂春団治のラジオ事件」である。

以前から吉本興業と大阪放送局(NHK大阪/JOBK)は、険悪な関係になっていたが、この「初代・桂春団治のラジオ事件」を切っ掛けに対立し、吉本興業の芸人は大阪放送局(NHK大阪/JOBK)には出演しなくなった。

ところが、東京ではラジオ放送の翌日に寄席に来る客が増えるようになっており、吉本興業がラジオに対して抱いていた危機感が全く的外れだった事が判明してくる。

一方、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)の方も、大阪の演芸界を独占する吉本興業を抜きにしてはラジオ番組が成立しないという問題が発生していた。

そこで、エンタツ・アチャコの活躍に目を付けた大阪放送局(NHK大阪/JOBK)が、吉本興業に和解を持ちかけ、吉本興業は大阪放送局から頼まれる形で和解を受け入れた。

こうして、吉本興業はラジオ放送の主導権を握り、昭和9年(1934年)6月10日に法善寺の南地花月に出演する「エンタツ・アチャコ」をに中継放送させたのである。

「エンタツ・アチャコ」は「2人漫談」として十八番のネタ「早慶戦」をやり、全国へと笑いを届けた。

エンタツ・アチャコの東京進出

エンタツ・アチャコは、この「早慶戦」によって大阪で絶大なる人気を誇り、昭和9年(1934年)8月21日に東京の新橋演舞場で開催された「第二回・特選漫才大会」に出演し、東京へ進出した。

東京の商店街のあちこちにエンタツ・アチャコの写真が貼ってあり、日劇の屋上にも「エンタツ・アチャコ来る」というアドバルーンもあがった。

しかも、当時は絶大なる人気を誇った6大学野球の「早慶戦」を漫才でやるということで、噂が噂を呼び、初日から満員大入りだった。

さらに、今までに見たことの無い新しい漫才のスタイルということで噂が広まり、エンタツ・アチャコは10日間の「第二回・特選漫才大会」を連日満員大入りにするという記録を作り、大阪へと凱旋した。

アチャコが中耳炎で入院

昭和9年(1934年)9月10日、東京から凱旋した「エンタツ・アチャコ」は、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)が中継放送する南地花月に出演する。

その舞台が終わると、花菱アチャコは担ぎ込まれるようにして大阪赤十字病院に入院した。

実は、東京・新橋演舞場で行われた「第二回・特選漫才大会」に出演したとき、花菱アチャコは中耳炎にかかっていたのだ。

この時、洋画家の鍋井克之が「アチャやん、気にしたらいかんで。死んだ沢田正二郎(役者)なぁ、やっぱり新橋演舞場に出演してて、ここに泊まっていたとき、中耳炎にかかって死んだんやぞ。しかも、年は38やった。ほんまに気いつけなアカンで」と話した。

花菱アチャコは、ちょうど38歳で、新橋演舞場に出演し、死んだ沢田正二郎と同じ宿に泊まっており、沢田正二郎が死んだ時と3つも条件が一致していた。

花菱アチャコは驚いて今すぐ入院したかったが、出演する「第二回・特選漫才大会」は「エンタツ・アチャコ」の運命を左右する大舞台だった。

このため、花菱アチャコは、石にかじりついてでも10日間の舞台を勤め上げなければならないと思い、高熱と痛みで自分の言葉も聞こえない状況だったが、なんとか10日間の舞台を勤め上げ、「第二回・特選漫才大会」を成功させた。

そして、花菱アチャコは大阪へ帰って、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)がラジオ中継放送する南地花月の舞台に出演し、この舞台が終わると、担ぎ込まれるようにして大阪赤十字病院に入院したのである。

エンタツ・アチャコの解散

当時は良い薬が無く、中耳炎で死ぬ人も居る時代だったが、花菱アチャコは、1ヶ月ほど入院していると、段々と良くなってきた。

すると、花菱アチャコは漫才がしたくて我慢できず、医者が止めるのを振り切って退院した。

ところが、相方の横山エンタツは、花菱アチャコが入院している間に、杉浦エノスケと漫才コンビを組んで漫才をやっていた。

なんと、人気絶頂だった「エンタツ・アチャコ」は、花菱アチャコが中耳炎で入院している1ヶ月の間に解散していたのである。

人気漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」の解散の理由は、林正之助の思惑と、横山エンタツの不満だった。

林正之助は、花菱アチャコのボケに惚れ込んで、吉本興業にスカウトしたのだが、花菱アチャコは「エンタツ・アチャコ」でツッコミに回っていた。

そこで、林正之助は、横山エンタツにギャラは折半していると教えた。

すると、「エンタツ・アチャコ」で漫才を主導していた横山エンタツは、花菱アチャコとギャラを折半している事を知って不満に思い、他の者と組めば取り分が多くなると考え、吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)にコンビの変更を申し出たのである。

吉本せい(林せい)は花菱アチャコが退院するまでの間、給料を支給すると言って解散を止めたのだが、横山エンタツは「休んでいるのに給料は貰えない」と固辞し、「エンタツ・アチャコ」を解散して、自分の方がギャラの取り分が多くなる杉浦エノスケとコンビを組んだのである。

しかし、花菱アチャコは、解散の理由も教えてもらえず、「あんなに苦労を共にして、気心も知り尽くした2人である。イキも合い、2人とも別な相方など考えられないと思っていた。それが、ひと月やそこらの入院で、こうも簡単にご破算になってしまうのか」とショックを受けた。

その後、花菱アチャコは「エンタツ氏は彼なりに、その場で一番いいと思うことをやったまでだろう」と心の整理を付けると、病気を完全に治すため、再入院した。

こうして、今なお伝説に残る万歳コンビ「エンタツ・アチャコ」は、わずか4年4ヶ月で解散したのである。

エンタツ・アチャコの再結成

花菱アチャコは退院して復帰すると、吉本興業の計らいにより、元相方・千歳家今男とコンビを再結成して漫才を開始した。

しかし、先行していた「横山エンタツ・杉浦エノスケ」が「エンタツ・アチャコ」のネタをやって人気になっていたので、後発の花菱アチャコ・千歳家今男は散々な目に遭っていた。

このようななか、次第に世間から「エンタツ・アチャコ」の復活を望む声が高まったため、舞台では別々のコンビを組み、映画や放送では「エンタツ・アチャコ」を復活させるという不思議な事になった。

そして、吉本興業はPCL(東宝)と組んで映画界へ進出し、「エンタツ・アチャコ」は映画「あきれた連中」に主演して、映画の中で復活を遂げた。

久しぶりの復活とはいえ、長年培ってきたものがあり、エンタツ・アチャコは、映画「あきれた連中」の撮影で、あうんの呼吸を見せた。

エンタツ・アチャコは勝手に喋るので、何度もNGを出したが、次第に勝手に喋らせた方が面白いと言うことが分かり、あらすじ以外はエンタツ・アチャコの自由にしてよいということになった。

さて、撮影の最終日の前日、撮影所のアパートに戻ったエンタツ・アチャコは、映画の出演料について話し合った。

花菱アチャコは「僕は安う見積もっても2人で2000円、つまり、1人で1000円ずつかな」と言ったが、横山エンタツは「アホなこと言うな。この映画の制作費が5万円やで。そら、もっとくれるで」とあきれた。

花菱アチャコが「そうか。じゃ、1万円」と言うと、横山エンタツは「そやそや。そのくらいはくれるで、きっと」と言った。

しかし、撮影が終わって吉本興業がくれた出演料は、10円札が10枚だけ(100円)だった。

その後、映画は大ヒットし、続編も作られたが、エンタツ・アチャコの出演料は100円のままだった。

母の死

映画「あきれた連中」の撮影が昭和11年(1936年)12月28日に終わり、PCL映画人の舞台挨拶のため、12月30日に大阪を発ち、東京へと向かったが、静岡に着いたときに「母危篤」の電報が届いたため、大阪へとトンボ返りした。

花菱アチャコは、芸人になる事を唯一、応援してくれた母・藤木エンに映画を見せたかったが、母・藤木エンは昭和11年12月31日に眠るように息を引き取った。享年62。死因は咽頭癌だった。

花菱アチャコは、昭和12年1月3日に母・藤木エンの葬儀を行うと、その足で舞台に向かった。芸人とは辛いもので、母・藤木エンが死んでも舞台は1日も休むことは出来なかった。

アチャコの無断出演事件

昭和13年(1938年)1月、花菱アチャコは道修町の余興屋の福島という人から、吉本興業を通さずに直接、山口県山口市にある百足百貨店が開催する寄席への出演依頼を受けた。

百足百貨店が年末に100円以上購入してくれた客を招待する寄席で、昼夜1回ずつで、出演料も弾むのだという。

何より都合の良いことに、イベント宇会場は百足百貨店の屋上だったので、「遊芸稼人」(ゆうげいかせぎにん)の鑑札(許可書)も不要なのだという。

当時、芸人は「遊芸稼人」と呼ばれ、大正4年(1915年)に鑑札制度となり、大正14年(1925年)に県税に組み込まれた。

これ以降、芸人は、昭和20年頃までは都道府県に登録して「遊芸稼人」の鑑札をもらわなければ、舞台に上がることが出来ず、当時の芸人にとって、遊芸稼人の鑑札(許可書)は非常に大事だったのである。

花菱アチャコも芸人なので、吉本興業に入るまでは遊芸稼人の鑑札を自分で手続きしていたが、吉本興業に入ってからは、吉本興業が遊芸稼人の登録手続きをしており、遊芸稼人の鑑札も吉本興業に預けていた。

このため、遊芸稼人の鑑札が必要ないという仕事は、吉本興業を通さずに仕事を受けるのに好条件だったのである。

お金が大好きな花菱アチャコは、好条件に目がくらみ、吉本興業が禁止している無断出演を承諾し、吉本興業には「母親の墓参り」と言って休みをもらい、相方・千歳家今男と一緒に山口県山口市の百足百貨店へと向かった。

ところが、このイベントは評判で観客を収容しきれなくなったため、会場が百足百貨店の屋上から、山口市にある山口座へと変更になり、鑑札が必要になったのである。

昼の部は何とか無事に終えたが、夜の部が始まる直前に山口警察署から係の者が来て、出演者全員の鑑札を確認すると言い出した。

他の出演者は鑑札を持っていたが、花菱アチャコと相方・千歳家今男は鑑札を吉本興業に預けたままなので、持っているはずがない。

花菱アチャコは事情を話したが、山口警察署はどうしても全員の鑑札番号を控えなければいけないと言い、大阪の島之内署へ花菱アチャコらの鑑札番号を問い合わせた。

ところが、間の悪いことに、大阪の島之内署の鑑札係が不在だったため、島之内署は吉本興業に電話をして花菱アチャコらの鑑札の番号を問い合わせたのである。

島之内署「2人の鑑札は何番や」
吉本興業「○○番やけど、なんでそんなこと聞くねん」
島之内署「なんでも、山口の山口座に出演しとる言うとったで」

こうして、花菱アチャコの無断出演は、吉本興業にバレてしまった。

落語家の初代・桂春団治が吉本興業の無断出演禁止を破ってラジオ出演したとき、吉本興業は初代・桂春団治に対して差し押さえを執行しており、これは伝説となっていた。

吉本興業の報復を恐れた花菱アチャコは、吉本興業の待ち伏せを警戒し、迂回して逃げ帰り、隠れ家に潜伏したが、結局は吉本興行からの使者が来て、結局は謹慎処分を宣告された。

ただの謹慎だったので、花菱アチャコは連日連夜、お得意さんの座敷に呼ばれて、楽しみながらの謹慎だったが、一向に吉本興業からお呼びがかからないので、待ちくたびれていた。

そのようななか、謹慎処分から1ヶ月ほどした2月の給料日に柳家三亀松から電話があり、もうすぐ舞台に出られるという報告を受けた。

実は、吉本幹部の師匠連中が吉本興業に「謹慎をさせるのはいいが、いつまでも続けては、よそに行く事もあるだろう。そうなったら、吉本に不利益だ」と掛け合うと、吉本興業も「長期の謹慎は他の物への見せしめで、そろそろ呼ぼうと思っていた」と言い、謹慎を解除したのだ。

花菱アチャコは、その日のうちに吉本興業から呼び出しがかかり、師匠連中の仲介で吉本興業に謝罪し、1ヶ月にわたる謹慎生活を終えたのだった。

松竹の引き抜き事件

東宝と松竹が東京で激しく対立しており、吉本興業と松竹も「万歳師引き抜き事件」で遺恨があった。

そのようななか、吉本興業はPCL(東宝)と提携して映画界に進出し、昭和11年にエンタツ・アチャコ主演の映画「あきれた連中」を制作した。

さらに、吉本興業の林正之助が、東宝の小林一三からの要請を受けて、昭和14年(1939年)2月に東京宝塚劇場の取締役を兼任し、吉本興業と東宝は関係を深めた。

これに危機感を覚えた松竹は、昭和14年3月、松竹系の新興シネマに「演芸部門」(後の松竹芸能)を作り、演芸界に進出するため、吉本興業の芸人を引き抜きにかかった。

松竹は引き抜きに大金を投じており、新興シネマは、吉本興業の「ミスワカナ・玉松一郎」を引き抜いたのを手始めに、「平和ラッパ・浅田家日佐丸」「松葉家奴・松葉家喜久奴」「西川ヒノデ・ミスワカバ」「御園ラッキー・香島セブン」「永田キング・ミスエロ子」を引き抜いた。

さらに、新興シネマは、吉本興業から「あきれたボーイズ」の坊屋三郎・芝利英・益田喜頓の3人を引き抜き、花菱アチャコにも触手を伸ばした。

新興シネマの社長・永田雅一は、花菱アチャコに1年間の契約料として契約金3万円・月給1500円を提示し、3万1500円が入った三和銀行の通帳を見せた。

当時の大卒の月給が45円、花菱アチャコの吉本興業の給料が130円だったので、月給1500円というのは破格である。

ドケチで有名な花菱アチャコは、通帳をみて驚き、「へえ、それなら行きます。でも、今すぐにというわけにはいきまへん。遅いか早いかわからへんけど、吉本と話し合ってから行きます」と言い、新興シネマへの移籍を約束した。

すると、新興シネマの社長・永田雅一は、「金は前渡しで預けておこう」と言い、花菱アチャコにお金の入った通帳を渡した。

花菱アチャコは、吉本興業には売り出して貰った恩はあるが、吉本興業から契約金を貰ったわけではないし、月給130円、映画の出演料はいつまで経っても100円である。

映画は大当たりしており、恩は十分に返しただろうと思い、新興シネマへの移籍を決意した。

それから2日後、吉本興業は引き抜きに感づき、専務・林正之助と支配人・金沢菅道が、名古屋の劇場にに出演していた花菱アチャコを連れ去ってホテルに監禁し、恫喝した。

しかし、ドケチの花菱アチャコは大金に目がくらんでおり、吉本興業の恫喝には屈せず、移籍の意思は変わらなった。

すると、吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)が、父・藤木広吉に花菱アチャコが吉本への義理を欠いて、新興シネマへ移ろうとしていると告げ口したうえで、父・藤木広吉を脅した。

驚いた父・藤木広吉は、勘当すると言って激怒し、「お金よりも大切な物がある。お金は返してくる」と言い、花菱アチャコから通帳を取り上げた。

花菱アチャコは、芸能界に入るときに父・藤木広吉から勘当されているので、勘当の好きなおっさんやと呆れながらも、通帳を取り上げられて3万1500円と大金を失い、吉本興業に残る羽目になった。

しかし、ドケチの花菱アチャコはタダでは転ばず、吉本興業に残る条件として「一生面倒を見る」という念書を求めたので、林正之助は仕方なく「一生面倒を見る」と一札を入れた。

吉本興業は大阪の演芸界を独占していたが、松竹の演芸進出によって、吉本興業の独占が崩れてしまったため、吉本興業は仕方なく芸人の給料を上げた。

お金の大好きな花菱アチャコは、松竹の移籍金を失ったが、吉本興業の給料が上がったため、「えらい、おおきに」と喜んでいた。

アチャコ劇団の旗揚げ

昭和17年(昭和17年)、漫才に行き詰まっていた横山エンタツは、元喜劇役者ということもあって、喜劇「エンタツ劇団」を旗揚げした。

ライバルの成功を見た相方・千歳家今男は、花菱アチャコに、エンタツ劇団に対抗して「アチャコ劇団」を作ろうではないかと言い、吉本興業に掛け合った。

すると、吉本興業は2つ返事で引き受け、わずか10日間のうちに20人の一座「アチャコ劇団」が旗揚げした。

アチャコ劇団がエンタツ劇団に負けじと頑張ると、エンタツ劇団もアチャコ劇団に負けじと奮起した。

吉本興業はこれに目を付けて、アチャコ劇団とエンタツ劇団のライバル心を煽るように、京都と大阪の劇場に1ヶ月交代で舞台に出演させた。

吉本興業の目論見は当たり、客はアチャコ劇団とエンタツ劇団の両方を見比べて批判するようになった。

初めのうちは劇場の従業員も、アチャコ劇団とエンタツ劇団のどちらの方が客が多く入るか賭けて、熱気に包まれていた。

しかし、漫才の方は横山エンタツの方が1枚上でも、喜劇役者となると、花菱アチャコの方が1枚も2枚も上だった。

アチャコ劇団とエンタツ劇団の戦いは、次第にアチャコ劇団の方がリードするようになったため、従業員の賭けも成立しなくなった。

花菱アチャコの中国のスパイ疑惑

やがて、戦況が悪化すると、カタカナが敵性語とされ、カタカナの追放が始まった。

このカタカナの追放は芸能界にも及び、カタカナの芸人は次々に改名していき、横山エンタツも「横山円辰」へと改名を余儀なくされた。

花菱アチャコも憲兵から「アチャコなんて、お前は本当は支那人(中国人)じゃないのか」「支那人のスパイじゃないのか」「阿茶児とでも改名したらどうか」などと迫られたが、なんとか改名を逃れ、「花菱アチャコ」を名乗り続けた。

花菱アチャコの戦後

吉本興業は戦争で全てを失い、終戦後、芸人との契約を全て解除して演芸を捨てた。

しかし、花菱アチャコは、松竹の新興シネマ引き抜き事件の時に、吉本興業の林正之助から「一生面倒をみる」という一筆を取っていたため、「行く所もおまへん、残しとんなはれ」と懇願し、芸人で唯一、吉本興業に残り、吉本興業との契約が継続された。

なお、花菱アチャコは吉本興業への忠誠心で残ったのでは無く、吉本興業の芸人が自分1人なら、仕事が来たときに仕事を独占できるという計算が働いていたという。

一方、横山エンタツは、吉本興業から契約を解除され、エンタツ劇団で全国を巡った。

こうして、演芸を捨てた吉本興業は、映画館の経営とキャバレー「京都グランド花月」の経営で戦後の復興を成し遂げていき、花菱アチャコは映画方面で活躍していく。

そして、演芸を捨てた吉本興業が、本格的に演芸界に復帰するのは、毎日放送が放送を開始する昭和34年(1959年)3月1日のことである。

アチャコ青春手帖

NHKは「エンタツ・アチャコ」の復活させようと試みたが実現せず、昭和25年(1950年)に横山エンタツのラジオ番組「ショウボート」を開始した。脚本を手がけるのは秋田實(秋田実)と長沖一である。

花菱アチャコは映画界で役者として活躍していたが、先に横山エンタツがラジオ番組「ショウボート」で人気を博していたことから、頑なにラジオ出演を避けていた。

花菱アチャコは、中耳炎で入院している間に「エンタツ・アチャコ」が解散しており、横山エンタツは杉浦エノスケと漫才コンビを組んで既に漫才をしていた。

このとき、先行していた横山エンタツが「エンタツ・アチャコ」のネタをやっていたので、後発組となった花菱アチャコは散々な目に遭ったのだ。

この苦い経験から、花菱アチャコは、先にラジオ出演している横山エンタツの二番煎じになる事を強く懸念して、ラジオ出演を拒んでいたのである。

しかし、昭和27年(1952年)にNHKの佐々木英之助が花菱アチャコを口説き落としてラジオ出演の話しを取り付けたので、脚本家の秋田實(秋田実)が横山エンタツを担当し、長沖一が花菱アチャコの担当になった。

花菱アチャコが「ショウボート」の二番煎じになる事を懸念して、番組の内容を聞いてみると、NHKのプロデューサー富久進治郎は「内容はまだ分からないが、本は長沖一さんが書く」と答えた。

花菱アチャコは、長沖一が本を書いた「ぼたん雪」という舞台に出た事があり、長沖一を尊敬していたので、承諾しようと思ったが、我慢して、本を見てから決めるとこにした。

やがて、本ができあがり、本を読んだ花菱アチャコは、これでは自分の持ち味が活かせないと思い、ラジオ出演を断った。

プロデューサー富久進治郎は「どのような本がいいのか?」と尋ねると、花菱アチャコは「笑いあり、涙ありという一貫したもの。それがワテの芸に合うてる。それがやりとうおます」「泣かせるような物を書いておくんなはれ、笑いの方はワテが引き受けます」と頼んだ。

こうして、次ぎに書き上がったのが「アチャコ青春手帖」である。

花菱アチャコは「アチャコ青春手帖」の脚本を読んだ瞬間に大ヒット間違いなしと確信した。

花菱アチャコの予想は的中し、NHKのラジオ番組「アチャコ青春手帖」は大ヒットして、5度も映画化された。

これの成功によって、花菱アチャコは横山エンタツを凌いで、超一流のスターへとのし上がったのである。

浪花千栄子とチョメチョメ問題

ラジオ番組「アチャコ青春手帖」のとき、母親役は最初、月宮乙女だったが、何かの事情で2回ほどで降板し、母親役は浪花千栄子になった。

浪花千栄子は渋谷天外と離婚して、世間から離れ、京都府四条河原町の仏光寺に閉じこもっていたのだが、出演を依頼すると、花菱アチャコなら出させてもらうということで、出演を引き受けてくれたのである。

さて、大人気番組「アチャコ青春手帖」が終わると、メンバーはそのままで、新番組「アチャコほろにが物語・波を枕に」が始まった。

浪花千栄子は、「アチャコ青春手帖」の時は花菱アチャコの母親役だったのだが、「アチャコほろにが物語・波を枕に」では、花菱アチャコと肉体関係のある妻役になった。

すると、NHKに「なんで親子が夫婦になれるのだ」「そんなことは出来ないはずだ」と苦情が殺到したのであった。

その後、ラジオ番組「アチャコほろにが物語・波を枕に」が終わると、新番組「お父さんはお人好し」が始まった。

新番組「お父さんはお人好し」でも、花菱アチャコと浪花千栄子は夫婦役だった。この頃になると、世間の人は2人を本物の夫婦だと思い込んでおり、行く先々で夫婦に間違われて苦労をした。

放送禁止用語事件

朝日放送のテレビ劇「どっこい御用」に出演していたときのことである。九州の視聴者から「あんなふざけた番組なんか止めてしまえ。子供の教育に悪い」という苦情の葉書が届いた。

葉書を読んだ番組スタッフは、花菱アチャコに「本には別に変なカ所があらへん。あんたアドリブでなんか言ったんかいな?」と尋ねた。

しかし、花菱アチャコは身に覚えは無く、「そんなことおまへんで。全部、本の通りや」と答えたので、何かのイタズラだろうと言う事になった。

ところが、翌日、テレビ劇「どっこい御用」に対する苦情の葉書が山のように届き、ようやく理由が判明したのである。

テレビ劇「どっこい御用」の主人公は「長兵衛(ちょんべい)」という名前で、主題歌で「ちょん、ちょん、ちょんべい」と歌っていた。

ところが、この「ちょんべい」は、九州地方の一部の方言で、卑猥な言葉として使われていたのである。

苦情の原因は分かったが、今更、主人公の名前を変えるわけにもいかないので、ディレクター沢田隆二は投稿者全員に返事を書くしかないと言い、文面はガリ版刷りで、宛名書きにアルバイト1人を雇い、投稿者に「『ちょんべい』は長兵衛が訛ったもの」という事情を説明の葉書を返した。

その後、次第に苦情の葉書も減っていき、1ヶ月後には完全に苦情の葉書は無くなった。

横山エンタツと花菱アチャコの立場が逆転

漫才時代は横山エンタツの方が売れていたが、舞台・テレビ・ラジオが主戦場になると、立場が逆転し、完全に花菱アチャコの方が上になった。

戦後、横山エンタツも成功しており、ギャラも高額だったのだが、映画の撮影で腰を痛めて以降は、漫才時代の精彩を欠いており、花菱アチャコの大活躍と比べるとパッとぜず、横山エンタツは「藤木(花菱アチャコの本名)は得しよった」と本音を漏らした。

花菱アチャコのドケチ伝説

花菱アチャコはドケチとして有名で、吉本興業で1番ギャラが高いのに、自分では1円も出そうとせず、10億の資産を築いたと言われる。

兎にも角にも花菱アチャコはドケチだったので、数億円の資産があっても、花菱アチャコにご馳走してもらったという人は誰も居ない。弟子ですら、小遣いももらった事が無い。

お金を持つと、そのお金を目当てに人が集まってくるのだが、花菱アチャコは絶対に飲み代すらも出さないため、花菱アチャコの金を目当てに飲みに行こうという人も居なくなった。

しかし、吉本興業の林正之助もドケチとして有名で、「アチャコは絶対に誘わん。アイツは絶対に飲み代を出さん」と言って、花菱アチャコとは飲みに行かなかったという。

なお、花菱アチャコは数々のドケチ伝説を残してきたが、女性には気前が良く山を買ってプレゼントしたりして、女性に恵まれた。

横山エンタツと花菱アチャコの死去

花菱アチャコと横山エンタツは、漫才コンビ「エンタツ・チャコ」を解散して以降、漫才コンビとしての「エンタツ・アチャコ」は再結成しなかったが、戦後もイベントなどでは「エンタツ・アチャコ」として漫才を披露していた。

晩年も、花菱アチャコと横山エンタツは「エンタツ・アチャコ」として、毎年、元旦の番組「新春放談」に出演して、全盛期を彷彿とさせる漫才を披露ていた。

しかし、横山エンタツは柿の木を切ろうとして転落して以降、背骨の骨がずれて手足がしびれるようになり、元旦の番組「新春放談」も昭和45年(1970年)で最後になった。

そして、横山エンタツは、最後の方は寝たきりになっており、昭和46年(1971年)3月21日に死去した。脳梗塞だった。

花菱アチャコは、横山エンタツが死去した翌年の昭和47年の暮れに体調不良を訴えて入院し、直腸癌と診断された。入院中に妻が死去するという不幸もあったが、その後は愛人が面倒を見てくれた。

大勢の芸子が絶えず、見舞いに来ており、華やかな入院生活だったが、花菱アチャコは、昭和49年(1974年)7月25日に死去した。死因は直腸癌、享年78。戒名は「阿茶好院花徳朗法大居士」である。

入院中に出した暑中見舞いの「負けはせぬ、夢は舞台で見得をきり」が辞世の句となった。

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