原田キヨ(中井キヨ)の立志伝

皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」の創業メンバー村井ミヨ子(中井ミヨ子)の母・原田キヨ(中井キヨ)の生涯です。

原田キヨ(中井キヨ)の生涯

原田キヨは、原田定助(はらだ・さだすけ)の長女として大正23年(1934年)に生まれた。原田家は栃木県足利で綿糸商を営む裕福な家庭である。

原田キヨ(中井キヨ)の母・原田リン(田中リン)は、日本初の公害事件「足尾銅山鉱毒事件」の救済に奔走した田中正造の妹である。

一方、原田キヨ(中井キヨ)の父・原田定助は、田中正造の良き理解者で、田中正造を金銭的に支援し続けると共に、父・原田定助自身もキリスト教と連動して足尾銅山鉱毒事件の反対運動を行い、足利中学を建設するなどした人である。

原田キヨ(中井キヨ)は、足利高等女学校を卒業後、日綿実業(ニチメン→総合商社「双日」)の中井栄三郎と結婚し、大正6年に長男・中井茂を出産、大正8年に長女・中井久子を出産、大正10年に次女・中井タマ子を出産した。

そして、大正12年(1923年)に、後に子供服ブランド「ファミリア」の創業メンバーとなる3女・村井ミヨ子(結婚後は中井ミヨ子)を出産した。

3女・中井ミヨ子(村井ミヨ子)が1歳の時に、夫・中井栄三郎が海外勤務となったため、原田キヨは夫・中井栄三郎に伴ってビルマ(ミャンマー)→インドへと渡り、インドで次男・中井浩を出産した。

その後、中井ミヨ子(村井ミヨ子)が小学校へ進学する年齢になったため、原田キヨ(中井キヨ)は3女・中井ミヨ子と次男・中井浩を連れて帰国し、兵庫県神戸市の芦屋に居を構えた。

その後、夫・中井栄三郎は大阪勤務となって帰国し、原田キヨ(中井キヨ)は昭和3年(1928年)に4女・中井文子を出産した。

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