足尾銅山鉱毒事件の反対運動を展開した田中正造を金銭的に支え続けた原田定助(はらだ・さだすけ)の生涯を紹介します。
原田定助(はらだ・さだすけ)は、江戸時代の慶応3年(1867年)4月、栃木県の足利本町で原田進三郎の長男として生まれた。
母親は足尾銅山鉱毒事件の救済に奔走した田中正造の妹の田中リン(原田リン)である。
原田家は、栃木県の足利本町で綿糸商を営む豪商で、裕福な家庭であった。
原田定助は東京高等商業学校を卒業後、三井物産に入社したが、母・田中リンの死去や父・原田進三郎の病気により、明治23年(1890年)に実家へ戻り、綿商を継いだ。
一方、叔父(母の兄)の田中正造も明治23年(1890年)、に衆議院議員に当選。また同年、渡良瀬川で大洪水があり、洪水によって足尾銅山から流れ出た鉱毒による公害が確認された。
叔父の田中正造は議員報酬を公共のために使い、自身は質素な暮しをしており、足尾銅山鉱毒事件の発生を受けて、議員として足尾銅山鉱毒事件を追求するようになる。
叔父の田中正造は明治34年(1901年)に衆議院議員を辞職して以降も、私財をなげうって足尾銅山の反対運動を展開した。
原田定助は田中正造の良き理解者で、田中正造を金銭的に支援し続け、足尾銅山鉱毒事件の反対運動を資金面で支え続けた。
また、原田定助も、島田三郎・三宅雄二郎・松村介石・木下尚江・内村鑑三らと共にキリスト教と連動して足尾銅山鉱毒事件の反対運動を展開し、足利基督教会の設立にも貢献した。
原田定助は明治35年(1902年)に足利友愛幼稚園を開園し、初代園長に就任するなどしていたが、明治末期に生糸相場で失敗し、本業の資金繰りが行き詰まるようになる。
それでも、叔父・田中正造は、原田定助に資金を求め続けた。
叔父・田中正造の死後、今度は原田定助自身が政治家を目指し、大正4年(1915年)9月に県会議員にとなり、大正8年(1919年)に再選して県会議長も務めた。
そして、原田定助は晩年、社会奉仕団体の足利友愛義団を発足し、足利中学校も建設したほか、足利銀行設立にも尽力した。また、足利織物同業組合の組合長も務めるなどして、足利の発展のために貢献し、大正14年(1925年)10月3日に死去した。
原田家は、栃木県の足利で有数の富豪であったが、叔父・田中正造も原田定助も死んだとき、ほぼ無一文になっており、原田定助の子が借金を背負ったので子孫は迷惑したという。
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原田定助の長女・原田キヨ(中井キヨ)が、日綿実業(ニチメン→総合商社「双日」)の中井栄三郎と結婚した。
そして、原田キヨ(中井キヨ)と中井栄三郎の間に生まれた4女・村井ミヨ子(中井ミヨ子)が、皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」の創業メンバーファミリアとなっている。
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