長谷川博己の家系図

俳優として活躍する長谷川博己(はせがわ・ひろき)の家系図や実家や家族を紹介します。

長谷川博己の家系図

長谷川博己の家系図

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長谷川家の由来

長谷川博己の実家・長谷川家は、島根県松江市玉造の温泉街で、代々、温泉旅館「保性館」を経営してきた家系である。

(注釈:現在はHMIホテルグループが「保性館」を運営しているようだ。)

今より1300年前、奈良時代に長谷川俊方とい猟師が、島根県松江市玉造で温泉を見つけた。これが玉造温泉の長谷川家の始まりという。

その後、長谷川俊方は、白い鹿を見つけて射止めたところ、鹿が地蔵に変わったので、殺生を辞めて仏門に入り、金連上人と名乗って山で修行をし、鳥取県の大山寺を開山した。

長谷川家は、島根県松江市玉造に土着し、玉造温泉のリーダー格として、玉造温泉の発展に尽力し、江戸時代初期の慶安3年(1650年)に松江藩主・堀尾忠晴より、「長谷川湯之助」という官職を賜り、玉造温泉を取り仕切る立場となり、温泉旅館の経営を始めた。

明治時代に入り、「長谷川湯之助」の官職を解かれると、長谷川家は本格的に温泉旅館「長楽園」の経営を始めた。

そして、長谷川博己の高祖父にあたる長谷川百三郎が、温泉旅館の将来性に着目し、明治30年(1897年)に玉造で最大となる温泉旅館「保性館」を建設した。

曾祖父・長谷川国太郎

長谷川博己の曾祖父・長谷川国太郎は、長女の嶋子、次女の菊江、三女の貞子と娘ばかりで、跡取り息子が居なかったので、優秀な跡取りを探し回り、丸三陶器商会の澤藤右衛門の紹介で、絵付け職人・中島忠夫を婿養子に迎え、大正7年に長女の嶋子と結婚させた。

この婿養子・中島忠夫が長谷川博己の祖父にあたる。

祖父・中島忠夫

中島家の初代・中島奥右衛門は、宝暦元年生まれで、松江藩の家老・大橋茂右衛門に使えた下級武士だった。その後、江戸時代の後期に本家から分家して、島根県出雲市で農業を始めた。

中島忠夫は、この分家の出身で、島根県出雲市出身で、農業・中島藤之助の3男として生まれた。子供の頃に奉公に出て、奉公先から、出雲の大社中学に通い、在学中に美術に興味を持ち、丸三陶器商会に就職して絵師となった。

そして、長谷川国太郎に認められて、長谷川家の長女・嶋子と結婚し、長谷川家に婿養子に入り、旅館経営に力を入れ、天皇が巡幸したときに泊まる温泉旅館が必要になると考え、昭和6年に「幽泉亭(幽泉閣)」を建設した。

戦後の昭和22年1月29日に昭和天皇は、山陰を行幸したとき、長谷川家の「幽泉亭(幽泉閣)」に宿泊した。

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父・長谷川暁

長谷川博己の父・長谷川暁は昭和12年に、玉造で温泉旅館「保性館」を経営する中島忠夫の5男として生まれた。子供の時に建築好きの父親の話を聞き、建築に興味を持つ。早稲田大学の第一文学部を卒業。建築について書いた卒論が注目を集め、建築雑誌に掲載された。

論文で注目を浴びた長谷川暁は就職せずに、評論家となる。大胆な批評が評価され、武蔵野美術大学から非常勤講師として招かれ、教え子の今田恵子(こんた・けいこ)と結婚した。

母方の今田家

母方の今田家は、今田巳吉(こんた・みきち)が山形県の農家にらから分家し、下駄屋を始めたのがその始まりという。

長谷川博己の義理の祖父・今田庄次郎は、自他共に認める美男子で、戦後は国鉄で働いていたが、映画俳優を目指し、国鉄を辞め、妻子を捨てて上京し、劇団「文化座」に入った。同じ時期に丹波哲郎が在籍しており、丹波哲郎は今田庄次郎の2期上だった。

しかし、今田庄次郎は、母・今田イシに連れ戻され、国鉄に復帰した。

今田恵子

長谷川博己の母・今田恵子は、油絵が好きで、高校を卒業後、武蔵野美術大学に進学し、3年生の時に講師としてやってきた長谷川暁と出会い、昭和47年に結婚した。

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長谷川博己

長谷川博己は、昭和52年(1977年)3月7日に長谷川暁と母・今田恵子の長男として生まれた。大河ドラマなどでも活躍し、鈴木京香との結婚が噂されている。

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