吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)の弟で、長らく吉本興業のドンとして君臨した林正之助の立志伝です。
林正之助(はやし・しょうのすけ)は、明治32年(1899年)1月23日に大阪市天神橋5丁目で米穀商・金融業を営む林豊次郎の三男(12人兄弟)として生まれた。母は「林ちよ」である。
林家は兵庫県明石郡戎町の出身で、明石藩松平家の下級藩士の家系だが、明治維新を迎えて帰商した。
父・林豊次郎は兵庫県明石市東本町で太物屋「紀伊國屋」を営んでいたが、明治時代の中頃に大阪へと移り、大阪市天神橋5丁目で米穀商と金融業を営んでいた。
林正之助は小さい頃から悪ガキで、小さい頃から姉・吉本せい(林せい)に虐められたので、姉・吉本せい(林せい)は天敵のような存在だった。
さて、林正之助は大正3年(1914年)3月に第一盈進高等小学校を卒業して、北野中学校を受験したが、受験に失敗してしまう。
父・林豊次郎は子供を手元に置き、家業をさせようとしたが、林正之助は外で働く事を望み、長姉「林きく(白井きく)」夫婦が経営する兵庫県明石市の太物屋「紀伊國屋」に奉公へ出た。
しかし、長姉「林きく」は、林正之助を預かったが、身内にでは修行にならないと考え、夫の親戚が営む雑貨店「いかり屋」に林正之助を預けた。
その後、林正之助は「いやり屋」の奉公が明けると、長姉「林きく」夫婦が摂津紡績に出している売店で働いた。
しかし、摂津紡績の売店は客が女工さんばかりだったので、林正之助は男性の喜びに目覚め、女工さん相手に張り切り過ぎてしまった。
これが長姉「林きく」の知るところになり、長姉「林きく」の出店する「つるやモスリン店」へと転属となった。
ところが、「つるやモスリン店」の近くには、神戸遊郭のメッカ「福原」があり、今度は女郎さんを相手にモスリンを販売することになり、今度はもリンスを担いで自転車で走り回り、女郎さんを相手に張り切った。
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大正6年(1917年)、林正之助は奉公が開けて大阪の実家に戻ってブラブラしているとき、姉・吉本せい(林せい)に招かれて、吉本興行部(吉本興業)で働く事になる。
10歳上の姉・吉本せい(林せい)は、老舗の荒物問屋「箸吉(はしきち)」を営む吉本家に嫁いでいたが、荒物問屋「箸吉」が大阪市電鉄の計画が引っかかり、荒物問屋「箸吉」は移転を命ぜられた。
吉本せい(林せい)の夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、継母・吉本ユキとの不和から、店舗の移転を切っ掛けに、天満天神裏の三流の寄席「第二文芸館」の権利を取得し、明治45年(1912年)4月1日に寄席「文芸館」の経営に乗り出したのである。
そして、吉本泰三(吉本吉兵衛)は、「なんでも構わぬ、上手いも下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」という格安路線の「浪速落語反対派」の岡田興行部と提携し、低価格の入場料と様々な工夫で利益を上げていった。
そして、吉本泰三(吉本吉兵衛)は大正2年(1913年)1月に「吉本興行部(吉本興業)」を設立し、大正3年(1914年)には「芦辺館」「龍虎館」「松井館」「都座」を買収して複数の寄席を経営していた。
さらに、吉本泰三(吉本吉兵衛)は、大正4年(1915年)に大阪ミナミの一流寄席「金沢亭(南地花月)」を買収して、「花月」の名前で寄席をチェーン展開をし、大阪の演芸界で台頭していた。
さて、林正之助は、姉・吉本せい(林せい)が苦手だったので、気が進まなかったが、姉・吉本せい(林せい)に呼ばれて会いに行ってみると、2階の奥の部屋に通された。
そして、姉・吉本せい(林せい)は「ここがあんたの部屋だっせ」と言い、有無を言わさず、吉本興行部(吉本興業)で働く事を命じた。
林正之助は、子供の頃から姉・吉本せい(林せい)に頭が上がらなかったので、半ば強制的に吉本興行部(吉本興業)で働く事になり、下足番としてて吉本興行部(吉本興業)に入社した。
使用期間を終えた林正之助は、正式に採用されることになったが、適当な役職がなかったので、「総監督」という役職が与えられた。
公務員の初任給が70円だった頃に、吉本泰三(吉本吉兵衛)は200円の給料をくれるというので、林正之助は大喜びしたが、公務員の3倍も4倍も働かされた。
「総監督」とは言っても、実質的には雑用係であり、自転車に乗って寄席をまわって監視・監督するのである。
さらに、姉・吉本せい(林せい)から「ちょっと。アソコへ行って話を付けてきてんか」と頼まれて、行ってみると、なんと相手はヤクザの親分だった。
この頃の芸能界はヤクザと切って切れない縁があり、吉本興行部(吉本興業)は次々と寄席を買収して急成長していたので、ヤクザに目を付けられることが多かったのだ。
林正之助は腰を抜かしながらも、ヤケクソになり、気迫でヤクザの親分を引かせてトラブルを解決していった。
そうした一方で、夜な夜な、姉・吉本せい(林せい)に隠れて、2階の屋根から縄ばしごを垂らして部屋を抜けだし、夜の街へと消えていた。
やがて、林正之助は、芸人の出演計画表を作るコマ割にも加わるようになり、名実ともに「総監督」として吉本興行部(吉本興業)の経営に参加するようになる。
吉本興行部(吉本興業)は、「低価格の入場料」「様々な工夫」「寄席のチェーン展開」という手法で、勢力を拡大した。
一方、吉本興行部(吉本興業)と提携する「浪速落語反対派(岡田興行部)」も京都へと進出して京都征服を狙っていた。
さて、吉本興行部(吉本興業)は、わずかに専属の落語家が居たが、メーンは寄席の経営であり、提携している「浪速落語反対派(岡田興行部)」から芸人を派遣してもらっていた。
しかし、吉本興行部(吉本興業)は、浪速落語反対派が出演する寄席の過半数を取得しており、浪速落語反対派(岡田興行部)の興行主・岡田政太郎と立場が逆転し、浪速落語反対派の芸人に対して強い影響力を持つようになっていた。
そこで、芸人に不良な経費がかかっていると考えていた林正之助は、吉本興行部が「浪速落語反対派(岡田興行部)」を飲み込んで、芸人を直属にしようと考えた。
しかし、姉・吉本せい(林せい)は、吉本泰三(吉本吉兵衛)には吉本泰三(吉本吉兵衛)の考えがあるとして、林正之助の意見を却下した。
そのようななか、大正9年(1920年)12月に盟友・浪速落語反対派(岡田興行部)の興行主・岡田政太郎が急死する。
すると、今度は姉・吉本せい(林せい)も止めなかったので、林正之助は「浪速落語反対派(岡田興行部)」の乗っ取りにかかる。
吉本興行部(吉本興業)は、岡田政太郎の次男・岡田政雄に「浪速落語反対派(岡田興行部)」を継承しさせた後、1万円の手形を渡して「浪速落語反対派(岡田興行部)」を売却させたのである。
ところが、二代目の岡田政雄と一部の芸人が「岡田反対派」を発足して独立し、吉本興行部(吉本興行)と対立した。
そこで、吉本興行部(吉本興業)は、渡した手形1万円を不渡りにして、「浪速落語反対派(岡田興行部)」の権利をただで手に入れ、「吉本花月蓮」を発足した。
こうして、「浪速落語反対派(岡田興行部)」は、「吉本花月蓮」と「岡田反対派」に分裂したのだが、「岡田反対派」は3ヶ月で崩壊したので、「吉本花月蓮」が「岡田反対派」を吸収して一気に勢力を拡大したのである。
さらに、姉・吉本せい(林せい)が、絶大なる人気を誇った落語家の初代・桂春団治(皮田藤吉)を引き抜くと、「紅梅亭」で抵抗を続けていた落語の「三友派」も大正11年(1922年)8月に吉本興行部(吉本興業)の軍門に降った。
こうして、吉本興行部(吉本興業)は大正11年(1922年)に大阪の演芸界を統一し、大阪18館・神戸2館・京都5館・東京1館・神奈川1館・名古屋1館の計28館の寄席を手中に収め、吉本王国を築いたのである
ただし、三友派は吉本興行部(吉本興業)に下ったが、存続して同盟という形になっており、「吉本花月連・三友派連合」として三友派の名前は残った。
吉本興行部(吉本興業)は吉本王国を築いたが、演芸界の中心にあった落語の人気は低迷しており、「大正時代の落語不況」が訪れていた。
そこで、姉・吉本せい(林せい)が目を付けたのが、三流の寄席で流行っていた島根県の安来節である。
ただ、安来節は三流の寄席で人気になっており、既に寄席に出演している安来節は出演料が高騰していたので、姉・吉本せい(林せい)は、林正之助を島根県へ派遣し、新人を発掘させた。
林正之助は島根県へ行き、手見せ(オーディション)を行い、新人を発掘して大阪へと送り、吉本の寄席に上げた。
安来節の女芸人の赤い腰巻きや白い太ももを見て、何を想像するのかは知らないが、安来節の舞台をかぶりつくように見て、鼻血を出すオッサンも居り、大いに好評だった。
兎にも角にも、東京でも安来節ブームが起きており、安来節ブームは昭和の初めまで続き、島根県では娘を差し出して大金を得た安来節成金が大勢、誕生した。
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吉本泰三(吉本吉兵衛)は、「神田花月」を足がかりにして、東京進出を虎視眈々と狙っていた。
そのようななか、大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生し、東京の寄席は壊滅状態になる。詳しい状況は分からないが、ただ事ではことは大阪にも伝わってきた。
すると、吉本泰三(吉本吉兵衛)は林正之助に「すまんが、東京へ見舞いに行ってくれへんか」と頼んだ。
そこで、林正之助は、毛布130枚や慰問品を買い集め、青山督と滝野寿吉の両支配人を率いて、大阪湾から長崎丸に乗って東京へと向かい、東京・芝浦港へと上陸した。
東京の寄席も壊滅的な被害を受けて全滅しており、林正之助らは、野宿をしながら、芸人を探して歩き、毛布や物資を渡して慰問すると、東京の芸人は林正之助を大歓迎して吉本興行部(吉本興業)に感謝した。
東京の落語家はプライドが高かったので、大阪の寄席になど出演してくれなかったが、地震嫌いの大御所・3代目「柳家小さん」が林正之助に「大阪へ連れて行ってくれ」と頼んだ。
すると、他の芸人も、東京の寄席は壊滅していたことから、吉本興行部(吉本興業)を頼って大阪へと移り、吉本興行部の寄席にあがった。
物珍しさもあって東京の芸人があがる寄席は何時も満席だったので、東京の芸人は吉本興行部に感謝して地方巡業にも参加した。
こうして、関東大震災を切っ掛けに、吉本興行部(吉本興業)の名前は東京にも広まり、東西交流の動きが出始めた。
このようななか、大正13年(1924年)2月13日に、吉本興行部(吉本興業)の創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)が死去した。死因は脳溢血とも心臓病とも言われる。享年39という若さだった。
創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、大阪の演芸界を統一して吉本王国を築いたが、約30万円という莫大な借金を残した。
夫の突然の死に、流石の姉・吉本せい(林せい)も弱気となり、林正之助に「これからは、アンタが頼りやで」と頼むと、林正之助は身震いして、姉・吉本せい(林せい)のために死んでも働く事を決意した。
また、創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、関東大震災で一端中止になっていたが、「東京進出」という課題も残った。
演芸界の中心にあった落語は衰退しており、その演芸不況を支えていたのは島根県の安来節であったが、島根県の安来節は落語と落語の間に挟むような添え物的な役割であり、メーンになるような演芸ではなかった。
そこで、吉本興行部(吉本興業)を背負うことになった林正之助は、落語に変わる演芸として、三流の寄席で流行していた「万歳(まんざい)」に目を付けた。
万歳(萬歳)は、元々、正月を祝う芸だったが、明治時代の後半に江州音頭の玉子屋円辰が「萬歳」から祝い事という要素を排除した「万歳」を確立し、演芸としての「万歳」が始まった。
万歳は、太夫と才蔵の2人組が、歌や踊りや太鼓を披露し、その合間の繋ぎとして「喋る」というのが一般的なスタイルが主流で、メーンは歌や踊りであり、その間をつなぐ「喋り」は添え物的な役割だった。
この万歳が「漫才」へと発展するのだが、それは昭和5年に誕生する「エンタツ・アチャコ」を待たなければならない。
さて、兎にも角にも、万歳に目を付けた林正之助は、万歳のメッカとなっていた神戸の新開地を訪れ、万歳師をスカウトし、試験的に三流の寄席に万歳コンビを上げるようになる。
そのようななか、林正之助は、花菱アチャコと出会う。花菱アチャコは「大八会」という小さな団体に所属し、浮世亭夢丸とコンビを組んで「万歳」をしていた。
林正之助は花菱アチャコの才能に惚れ込み、大正15年(1926年)に吉本興行部(吉本興業)へ招き入れた。花菱アチャコは千歳家今男とコンビを組んで吉本興行部に入り、万歳コンビとして活躍した。
こうして、林正之助が万歳(漫才)を発掘したこともあり、姉・吉本せい(林せい)は漫才には口を出しておらず、漫才は林正之助、落語は姉・吉本せい(林せい)という分担が出来た。
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試行錯誤して漫才に自信を持った林正之助は、松竹の道頓堀の弁天座(定員1500人)を借りて、昭和2年(1927年)の夏に「諸芸名人大会」を開催した。
この成功を受けて、林正之助は昭和2年(1927年)12月にも、松竹の弁天座を借りて、「全国漫才座長大会」を開催して、これも大当たりさせた。
これに驚いたのが、弁天座を貸した松竹の創業者・白井松次郎である。
松竹の創業者・白井松次郎は、林正之助が開催した「全国万歳座長大会」の大当たりを見て、万歳が儲かる事に気づき、大金をばらまいて、吉本興行部(吉本興業)から漫才師を引き抜き始めたのである。
松竹は吉本興行部(吉本興業)よりも早く、京都の演劇界を制覇して大阪へ進出して道頓堀5座を押え、既に映画界にも進出していた。
吉本興行部(吉本興業)は吉本王国を築いたと言っても、あくまでも演芸界の話しであり、演劇界の松竹と比べれば、会社の規模は、蟻と象ほどの違いがある。
松竹が金にもを言わせて芸人を引き抜きにかかれば、吉本興行部(吉本興業)に勝ち目は無い。
そこで、林正之助は松竹に乗り込み、創業者・白井松次郎に「白井さん。松竹さんといえば、上に天下と名の付く会社やおまへんか。吹けば飛ぶような吉本風情と提携して、その興行の集計が出るか出んかという直ぐに、客がよう入ったから言うて、裏から大金の札束で芸人の面を叩いて、アイツらの気持ちを揺さぶり、それを引き抜くということは一体どういうことでんねん」と食いついた。
さらに、林正之助は、「それでもというのなら、私は命を賭けても吉本を守らななりまへん」「アンタのお返事いかんによっては、差し違えても吉本の盾になる覚悟で伺いましたんやが、ハッキリしたお返事いただけませんか」と迫った。
すると、天下の白井松次郎も林正之助の気迫に押されて、引き抜きの中止を約束した。
さらに、林正之助は「今後、うちの芸人にを触れれるものなら、触って貰いましょ。その代わり、そうなされることは、白井さんの命と引き替えになりますが、それでもよろしければどうぞ」と脅した。
すると、天下の白井松次郎は「今後、吉本さんの手持ち(芸人)には一切、手を付けない」と約束したので、林正之助は白井松次郎に誓約書を書かせて吉本興行部(吉本興業)へと引きあげ、吉本興業の危機を救ったのである。
林正之助は、昭和5年(1930年)3月に千日前の三友倶楽部で、「万歳舌戦大会」を開催し、万歳の人気投票を行った。
この投票で、万歳コンビ「花菱アチャコ・千歳家今男」が3947票を取得して、2位を1000票も引き離しすという快挙で優勝した。
ただし、この優勝には裏がある。「花菱アチャコ・千歳家今男」を贔屓にしている中島清祐が家族や従業員などを毎日、何度も寄席に通わせて投票していたのである。
しかし、林正之助は、惚れ込んでいた花菱アチャコが断然トップで優勝したことから気をよくして、花菱アチャコを猫かわいがりするようになる。
林正之助の花菱アチャコに対する可愛がりようは異常で、姉・吉本せい(林せい)が「他の芸人に示しが付かない」と注意するほどだった。
このようななか、花菱アチャコと千歳家今男が喧嘩したとき、林正之助は千歳家今男が悪いと言って千歳家今男を殴り、金をやって吉本興行部追い出した。
このため、千歳家今男は、吉本興行部を辞めて千日前の愛進館の大八会へと入った。
その一方で、林正之助は、何か新しいことをしようと考え、横山エンタツに目を付ける。林正之助は、その昔、神戸の舞台に出ていた横山エンタツを見て強烈な印象を受けていたのである。
横山エンタツは、東京時代に「全てのスタイルの万歳をやり尽くした」という万歳の天才で、昭和4年(1929年)に総勢9人の喜劇一座「瓢々会」を立ち上げ、アメリカ興行を行ったが、アメリカ興行に失敗した。
芸能界に絶望した横山エンタツは、芸能界から引退し、ヘアピン(パーマの機械)の製造やハトロン紙の製造に手を出していたが、これもまた運気に見放されて、大阪の玉造で落ちぶれているところだった。
吉本興業の支配人が2度ほど、横山エンタツをスカウトしたが、横山エンタツは演芸界に失望しており、スカウトを断った。
しかし、林正之助は、暴風雨のような雨の日に、ナイフで切り裂いて指の出る長靴をはき、ボロボロのカッパを来て、横山エンタツの自宅を訪れ、吉本興行部(吉本興業)は長靴を買う金も無いので吉本に来て助けて欲しいと頼んだ。
すると、横山エンタツは、面白いおっさんやと思い、「花菱アチャコとコンビを組むこと」を条件に吉本興行部(吉本興業)に入る事を承諾した。
実は、横山エンタツと花菱アチャコの2人は、過去に「堀越一蝶一座」に喜劇俳優として在籍していたことがあり、1度だけ、万歳から歌や踊りを排除した「喋くり万歳」をやったことがあるのだ。
しかし、客が「万歳」に求めているのは、歌や踊りだったので、「喋くり漫才」は全く受け入れられず、客席から罵声やミカンが飛んでくるという大不評に終わっていたのだった。
そこで、横山エンタツは、今一度、芸能界に復帰するのであれば、花菱アチャコとやった「喋くり漫才」に賭けたいと思ったのである。
さて、花菱アチャコは千歳家今男とコンビ別れした後、何人かとコンビを結成したが長続きせず、1人で居た。
そこで、林正之助は、手見せとして、横山エンタツと花菱アチャコのコンビを寄席に上げた後、正式にコンビを組ませ、昭和5年(1930年)5月に万歳コンビ「エンタツ・アチャコ」が誕生した。
漫才の天才・横山エンタツによって、徹底的に「喋くり漫才」の特訓がなされ、ネタに時事問題を取り入れたり、スーツを来て舞台に上がり、「キミ」「ボク」と標準語を取り入れたりた。
こうして、「エンタツ・アチャコ」は、万歳のメーンだった歌や踊りを排除して、添え物だった「喋り」だけで構成した「喋くり万歳」を「二人漫談」と称して寄席にあがったのである。
しかし、客が「万歳」に求めているのは歌や踊りなどであり、「エンタツ・アチャコ」の「二人漫談」は全く受け入れられず、客席から罵声とミカンの皮が飛んできた。
昭和4年(1929年)10月にアメリカの株式相場が暴落したことに端を発し、世界恐慌が訪れていた。日本もその余波を受け、昭和恐慌という不景気に陥っていた。
そこで、林正之助は、入場料10銭で万歳が見られる「10銭万歳」を計画する。
ラムネが1本6銭、狐うどん1杯が10銭程度だった頃で、入場料が10銭では赤字は目に見えており、姉・吉本せい(林せい)や他の社員の反対した。
しかし、林正之助は姉・吉本せい(林せい)の反対を押し切り、損を覚悟で、昭和5年(1930年)5月11日から、千日前の南陽館で「10銭万歳」を始めたのである。
この「10銭万歳」の大当たりして、労働・学生や台頭し始めていたサラリーマンからインテリ層にまで万歳が普及していく。
こうした若い世代は、古い格式などに拘らないので、「エンタツ・アチャコ」の「二人漫談」はサラリーマンやインテリ層という若者に受け入れられていった。
「エンタツ・アチャコ」は時事問題を取り込んだネタを作っており、「インテリ万歳」として人気を博し、結成からは半年後には一流の寄席「南地花月」へと進出したのであった。
また、この「10銭万歳」のヒットにより、世間がマネをして、10銭で買える「10銭○○」が次々と登場し、「テン銭」という言葉が流行した。
林正之助は、現在で言う「100円均一(通称『ヒャッキン』)」のようなものを流行らせたのである。
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ラジオが普及し始めると、姉・吉本せい(林せい)は「タダで落語が聞けるようになれば、誰も寄席に来なくなる」と考えてラジオを恐れ、吉本興行部(吉本興業)に所属する芸人に「ラジオ無断出演の禁止」を厳命し、芸人から公正証書を取っていた。
こうした対応に激怒した大阪放送局(NHK大阪/JOBK)は、吉本興行部(吉本興業)の初代・桂春団治(皮田藤吉)を吉本興行部に無断でラジオ出演させたのである。しかも、プログラムに載せないで放送するというゲリラ放送だった。
当日の新聞を見て驚いた林正之助は、手勢を率いて大阪放送局(NHK大阪/JOBK)を包囲し、初代・桂春団治を捕まえようとしたが、敵は一枚上手で、大阪放送局は妨害を予想して京都の放送局から初代・桂春団治の落語を放送したのである。
初代・桂春団治を捕まえることに失敗した吉本興行部(吉本興業)は、出社を命じて釈明させようとしたが、初代・桂春団治が出社に応じなかったので、初代・桂春団治に差し押さえを執行した。
他の芸人なら差し押さえを恐れるとろだろうが、初代・桂春団治は数々のスキャンダルを起こして話題を作り、人気の落語家へとのし上がった落語家でである。
初代・桂春団治は、返せる借金も返さず、わざと差し押さえを受けて面白がるような芸人で、これまでに何度も差し押さえを受けており、差し押さえごときではビクともしない。
初代・桂春団治は、吉本興行部(吉本興業)から差し押さえを受けたとき、「一番、金になるのに、これを差し押さえなくてもよろしいんですか?」と言い、差し押さえの紙を1枚剥がして自分の口にぺたんと貼って、新聞記者に写真を撮らせた。
これには林正之助も参ってしまい、流石は一流の噺家やと感心した。
林正之助が生涯で芸人に感心させられたのは、初代・桂春団治と横山やすしだけだった。
さて、初代・桂春団治の差し押さえ事件が新聞に取り上げられて世間を賑わし、ラジオを聞いた人間が寄席に押しかけ、初代・桂春団治を出さないと客が暴動を起こす勢いとなった。
吉本興行部(吉本興業)は初代・桂春団治を追放処分にしようとしており、対応に困ったのだが、落語家の幹部連中が初代・桂春団治の嘆願を求めたので、吉本興行部(吉本興業)を渡りに船として、初代・桂春団治の処分を撤回した。
こうして、低迷する落語界でも、初代・桂春団治は絶大なる人気を誇ったのだが、「ラジオ事件」の翌年以降は病気で寄席に出る回数が激減してしまうのであった。
一方、吉本興行部(吉本興業)は大阪放送局(NHK大阪/JOBK)に対しても厳しい態度を取ったため、大阪放送局は吉本興行部(吉本興業)のギャラ搾取などを暴露して応戦した。両社はしばらく、険悪な関係になる。
昭和6年(1931年)9月、満州事変が勃発すると、吉本興行部(吉本興業)の林正之助は朝日新聞と手を組み、昭和6年12月に満州駐留軍の慰問団「皇軍慰問隊」を派遣した。
メンバーは、漫才のエンタツ・アチャコ、講談の神田山陽、漫談の花月亭九里丸で、これに吉本興行部の支配人・滝野寿吉が同行した。
慰問団「皇軍慰問隊」は小規模だったが、朝日新聞が大々的に報じてくれたので、三流の扱いを受けていた万歳は格が上がり、万歳コンビ「エンタツ・アチャコ」の売名に貢献した。
なお、この戦地慰問団が後に「笑わし隊」へと繋がる。
吉本興行部は、昭和7年(1932年)3月に「吉本興業合名会社」へと改組すると、姉・吉本せい(林せい)は主宰者に就任した。
そして、姉・吉本せい(林せい)は、林正之助に吉本興業の経営を任せ、林正之助を「総支配人・代表社員」とした。
また、姉・吉本せい(林せい)は昭和3年(1928年)に弟・林弘高を吉本興業に招き入れており、「吉本興業」へと改組したのを機に、弟・林弘高には吉本興業の東京支社長を任せた。
そのようななか、昭和7年(1932年)10月、林正之助は、吉本東京支社に居た橋本鐡彦(橋本鉄彦)を大阪吉本へと呼び寄せ、昭和8年(1933年)1月に「文藝部」「宣伝部」「映画部」を発足し、橋本鐡彦(橋本鉄彦)に3部門の統括を任せた。
「文藝部」「宣伝部」「映画部」は、橋本鐡彦(橋本鉄彦)が提案し、林正之助がそれを受け入れて設立したもので、寄席の経営が中心だった吉本興業が多角経営を開始する基盤となる。
また、橋本鐡彦(橋本鉄彦)は、「エンタツ・アチャコ」の「二人漫談(しゃべくり漫才)」を見て、もはや「万歳」ではないと考え、文藝部から発行する「吉本演芸通信」で「万歳」から「漫才」へと表記を変更する事を発表した。
これは「万歳」を発掘して育てた林正之助も知らず、橋本鐡彦(橋本鉄彦)が独断で「漫才」へと表記の変更を発表し、林正之助に事後承諾させる形だった。
これには万歳師も反発したが、橋本鐡彦(橋本鉄彦)は既に万歳に祝い事的な要素は無く、下品で低俗な扱いを受けている実情を理由に万歳師を説得し、名実ともに「漫才」時代が到来した。
さらに、橋本鐡彦(橋本鉄彦)は、秋田實(秋田実)や長沖一など台本作家を吉本興業に招き入れ、吉本興業の頭脳陣を作り上げた。
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吉本興業は、昭和9年(1934年)3月に東京・有楽町の日本劇場でアメリカのレビュー団「マーカス・ショー」が開催する。
元々、マーカス・ショーは、東京の日本劇場と交渉していたのだが、日本は軍国主義の影響が強くなっていたので、マーカス・ショーに対して右翼や当局が横槍を入れ、開催が危ぶまれており、日本劇場が前金1万円を出さないので、マーカス・ショーは困っていた。
そこで、マーカス・ショーのマネージャを務めるチャールズ・ヒューゴは、帝国ホテルのマネージャー榊原洲に泣きついた。
そして、この話しが巡り巡って、吉本興業の東京支社長・林弘高の元に回ってきた。右翼団体「大化会」の会長・岩田富美夫が林弘高にパンフレットを持ち込んだという説もある。
林正之助は、東京の林弘高から電話で、裸の踊りを買うという話しがあるという報告を受けると、安来節で儲かったことを思いだし、裸の踊りなら相当な儲けになると思い賛成した。
姉・吉本せい(林せい)は反対したが、林正之助が姉・吉本せい(林せい)を説得して、マーカス・ショーの招聘を決めた。
マーカス・ショーは、船賃1万円があれば、直ぐにでも来日するというのだが、日本劇場といえども1万円は大金だったので、「船が沈んだらどうする」と言って尻込みしており、この前金1万円がネックになっていた。
林正之助が日本劇場を説得したが、日本劇場は前金1万円を出さないというので、吉本興業が前金1万円を用意してマーカス・ショーを招聘した。
さらに、吉本興業は、関係各所への根回しに奔走し、右翼団体「大化会」の会長・岩田富美夫の協力を得て、マーカス・ショーの通過査証(ビザ)の取得に成功し、昭和9年(1934年)3月に日本劇場でマーカス・ショーを開催したのである。
当時は厳しい時代だったので、裸は禁止され、部分的に隠していたが、ダンサーのミス・ハッチャが全身を銀色のドロで塗った「ブロンド・ビーナス」は女性の体のラインがハッキリと分かり、男性を熱くさせて大いに受けた。
林正之助は、弟・林弘高にお金の事はちゃんと契約するように助言していたが、マーカス・ショーに出し抜かれてしまった。
それもで、吉本興業は日本劇場とマーカス・ショーから5%の手数料を得て、9万円という莫大な利益を手に入れた。(注釈:大卒初任給が50円程度)
さらに、吉本興業は、マーカス・ショーの成功で会社の格を一段も二段も上げた。そして、これ以降、日本で「ショー」という言葉が使われるようになった。
林正之助は、マーカスショーの成功の勢いに乗って、昭和9年(1934年)4月に新橋演舞場で「特選漫才大会」を開催して成功させた。このとき、関東で始めて「漫才」という言葉を使った。
一方、初代・桂春団治のラジオ事件を切っ掛けに、関係が悪化していた大阪放送局(NHK大阪/JOBK)は、ネタ「早慶戦」で大人気となっている「エンタツ・アチャコ」に目を付け、吉本興業に和解を持ちかけた。
吉本興業側は、橋本鐡彦(橋本鉄彦)が「今後の経営を考えるのなら、ラジオの力を認めないわけには行かない」と林正之助を説得し、林正之助はラジオ解禁を認めた。
このため、吉本興業の社員は「御大(林正之助)は東京から連れて来た奴(橋本鉄彦)の言うことやったら聞くんやな」と愚痴を言った。
こうして、吉本興業と大阪放送局(NHK大阪/JOBK)の和解が成り、大阪放送局が昭和9年(1934年)6月10日に「法善寺花月」の寄席を中継放送した。
ただし、「漫才」という表記が大阪放送局(NHK大阪/JOBK)に拒否されたため、「エンタツ・アチャコ」は「2人漫談」として出演している。
「エンタツ・アチャコ」は、大阪でのラジオ放送の勢いに乗って昭和9年8月21日に東京・新橋演舞場で開催された第2回・特選漫才大会に出場し、10日間、満員大入りという快挙を成し遂げて大阪へと凱旋した。
このとき、「エンタツ・アチャコ」の花菱アチャコは、中耳炎にかかっており、昭和9年9月10日の大阪放送局(NHK大阪/JOBK)が中継放送する「南地花月」の出演が終わると、中耳炎の治療で入院した。
この頃は、良い薬がなかったため、中耳炎は死ぬ人も居り、花菱アチャコは直ぐにでも入院したかったが、東京進出は「エンタツ・アチャコ」の運命を決めるチャンスだったので、病気を押して出演していたのである。
ところで、林正之助は、花菱アチャコのボケに惚れ込んで吉本興業にスカウトしていたが、花菱アチャコは「エンタツ・アチャコ」でツッコミに回っていた。
そこで、林正之助は、横山エンタツが居なくても花菱アチャコは大丈夫だろうと考え、花菱アチャコが入院している間に、横山エンタツに花菱アチャコとギャラは同額だと教えた。
すると、「エンタツ・アチャコ」で漫才を主導していた横山エンタツは、ギャラの折半を不満に思い、自分の取り分が多くなる杉浦エノスケとコンビを組むことにして、吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)にコンビ変更を申し出た。
吉本せい(林せい)は休んでいる間も給料を払うと言って解散を止めたが、横山エンタツは「休んでいるのに給料は貰えない」と言って、「エンタツ・アチャコ」を解散させた。
こうして、林正之助と横山エンタツの思惑により、伝説に残る「エンタツ・アチャコ」は4年4ヶ月で解散に至ったのである。
花菱アチャコが退院すると、知らない間に「エンタツ・アチャコ」が解散しており、絶望したが、林正之助は千歳家今男を呼び戻し、花菱アチャコとコンビを組ませた。
ところで、映画界は昭和6年ごろから、無声映画からトーキ映画(有声映画)へと切り割り始め、大衆娯楽として大きく台頭しており、林正之助は一部の寄席を映画館へと変更していた。
さらに、林正之助は、昭和8年に吉本興業に「文藝部」「宣伝部」「映画部」の3部門を設立しており、吉本興業の映画部門が日活と提携して昭和9年10月に吉本興業で初となる映画「佐渡情話」を制作し、ヒットさせた。
このようななか、解散した「エンタツ・アチャコ」の復活を望む声が高まっていたこともあり、林正之助は舞台では別々のコンビで活動させたまま、映画や放送限定で「エンタツ・アチャコ」を復活させた。
林正之助は、「エンタツ・アチャコ」の主演映画を松竹系の「大秦発声」と進めていたのだが、最終的にPCL(東宝)と提携し、昭和11年(1936年)1月に「エンタツ・アチャコ」の主演映画「あきれた連中」を公開した。
映画「あきれた連中」は大ヒットして、続編が作られたが、いつまでたっても「エンタツ・アチャコ」の映画出演料は100円と安かった。
吉本興行部(吉本興業)は大正11年(1922年)8月に落語の「三友派」を傘下に収めて大阪の演芸界を統一したが、三友派は残っており、名目上は「吉本花月連・三友派連合」という形になっていた。
しかし、三友派の拠点だった「紅梅邸」の席亭・原田政吉が、昭和2年(1927年)に紅梅邸の権利を吉本興行部(吉本興業)に売却して、三友派は完全に降伏した。
それでも、落語家を大事にする姉・吉本せい(林せい)は、「三友派」の名前を残そうとしたが、落語を嫌う林正之助は紅梅邸の権利を手に入れたのを機に、「吉本花月連・三友派連合」から「三友派」の名前を消した。
こうして、名実ともに吉本興行部(吉本興業)が単独で、大阪の興行界を制覇したのである。
さて、吉本興行部(吉本興業)は一流の寄席「紅梅邸」を取得したが、「紅梅邸」の道を挟んで東側に吉本の「南地花月」がある。
初めはプログラムを工夫していたのだが、近距離に吉本の寄席が2つあっても客を食い合うだけなので、林正之助は昭和10年(1935年)に由緒ある「紅梅邸」を料亭「花月」へと変えてしまった。
この頃の吉本興業は「10銭漫才」の影響で大繁盛していたので、料亭「花月」も10銭を基本にした低価格にしたのだが、経費だけがかさんでいき、料亭「花月」は、みるみるうちに赤字が膨らんで失敗した。
吉本興業が映画界にも進出して勢いを増すなか、昭和10年(1935年)11月に吉本興業を揺るがす大事件が起きた。
大阪府議会議長・辻阪信次郎が、昭和10年11月16日に、汚職脱税事件で召喚され、それに連座して、同日、吉本興行の創業者・吉本せい(林せい)と吉本興業の税金係主任・吉崎競も召喚されたのである。
辻阪信次郎は、吉本興業の顧問格とも言われ、吉本興業が「マーカスショー」を招聘したときに、ビザの申請などで尽力してくれた人である。
辻阪信次郎と吉本せい(林せい)は個人的に親しい関係にあったとされ、吉本興業は辻阪信次郎と癒着して、興行税や所得税の査定に温情をかけてもらっていたという容疑だった。
辻阪信次郎と吉本せい(林せい)は愛人関係にあったという説もあるが、林正之助も男女の関係だったまでは知らない。
辻阪信次郎は18日に刑務所に収容され、吉本せい(林せい)も11月19日に刑務所に収容された。
さて、林正之助は東京で浅草花月劇場の落成式に出席するため、東京に滞在していたが、林正之助も召喚を受けて帰阪し、昭和10年11月19日に出頭した。
この事件はかなり広域にまで及んでおり、松竹の創業者・白井松次郎や新興キネマの取締役・福井福三郎や南地五花街を代表する料亭「大和屋」の主人・坂口祐三郎などが逮捕され、41人が起訴された。
吉本せい(林せい)は、昭和10年11月28日に贈収賄容疑で起訴されたが、病気を理由に釈放され、大阪赤十字病院に入院した。
吉本興業は辻阪信次郎に最も近い存在だったが、辻阪信次郎は吉本興業につていは何も喋らないまま、昭和11年1月23日に獄中でハンカチ2枚をつなぎ合わせて首を吊って死んだため、吉本せい(林せい)は僅かな罪で起訴されただけに終わった。
辻阪信次郎に一番近い吉本興業がほぼ無傷だったことから、
その後、吉本せい(林せい)は、6女・吉本邦子と獄中死した辻阪信次郎の長男・辻阪昌一を結婚させ、辻阪昌一は長らく、吉本興業の重役を務めた。
昭和12年(1937年)、林正之助のスカウトにより、「ミスワカナ・玉松一郎」が吉本興行に入った。ミスワカナは林正之助のお気に入りである。
また、昭和12年12月に、秋田實を校長とする「漫才学校」を開校し、漫才師の育成に力を入れた。
ところで、林正之助は、昭和6年(1931年)12月に派遣した戦地慰問団「皇軍慰問隊」の事を思いだし、もう一度、戦地慰問団が出来ないか、朝日新聞に打診していた。
そのようななか、昭和12年(1937年)7月7日に中国・北京で起きた盧溝橋事件がきっかけとなり、日中戦争へと発展する。
このため、以前から打診を受けていた朝日新聞が、吉本興業に協力を要請する形で、昭和13年1月に爆笑慰問突撃隊「わらわし隊」が誕生した。
「わらわし隊」という名前は、吉本興業・文芸部の長沖一が日本航空隊の愛称「荒鷲隊(あらわしたい)」と「笑わしたい」をかけて命名したものである。
爆笑慰問突撃隊「わらわし隊」は、落語家の柳家金語楼を団長に、北支那慰問班は「柳家金語楼」「花菱アチャコ・千歳家今男」「柳家三亀松」「京山若丸」で編成され、中支那慰問班は「石田一松」「横山エンタツ・杉浦エノスケ」「神田盧山」「ミスワカナ・玉松一郎」で編成された。
林正之助は、わらわし隊の中支那慰問班に付き添って、上海を経て中国大陸へと渡ったが、仕事の関係か、途中で「わらわし隊」から離れて昭和13年1月30日に大阪へ帰国している。
一方、わらわし隊は、北支那慰問班・中支那慰問班ともに1ヶ月ほど駐屯地や病院を慰問し、昭和13年(1938年)2月中旬に帰国した。
昭和13年9月には、吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)が31万円で通天閣を購入した。
さて、「わらわし隊」が好評だったことから、昭和13年(1938年)11月14日に規模を拡大して第2回「わらわし隊」(北支那慰問班・中支那慰問班)が結成され、中国へ派遣された。
さらに、昭和13年12月22には、第3回「わらわし隊」(南支那慰問班)が結成され、中国南部へと派遣された。
「わらわし隊」は大好評だったが、戦況が悪化すると、「わらわし隊」という名前は不謹慎とされるようになり、第5回「わらわし隊」を最後に、「わらわし隊」という名称はほとんど使われなくなっていった。
ただし、戦況が悪化しても、小規模な慰問隊が複数、派遣されており、その中には「わらわし隊」を名乗る慰問隊もあったようである。
また、林正之助がお気に入りの「ミスワカナ・玉松一郎」は、「わらわし隊」で成功し、全盛期の漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」を凌駕する人気を誇った。
このころ、映画業界は、戦時下の影響で、映画の上映時間が1日3時間に削減されたり、外国映画の輸入が制限されたりしたため、その穴埋めとしてアトラクションが重要となっており、演芸の重要性が増してきた。
このようななか、吉本興業の林正之助が、阪急グループの総帥・小林一三に請われて、昭和14年(1939年)2月に東京宝塚劇場(東宝)の取締役を兼任し、吉本興業と東宝は関係を強めた。
これが松竹を刺激した。松竹は、東京で東宝と激しく対立しており、吉本興業とも過去に遺恨があった。
さらに、松竹は演芸部門が貧弱であり、吉本興業と東宝が関係を強化することは、松竹にとって驚異だったのである。
そこで、松竹は、松竹系の「新興キネマ」に「新興演芸部」を設立し、昭和14年(1939年)3月24日の旗揚げに際して、吉本興業の芸人を引き抜きにかかったのである。
新興キネマの永田雅一は、松竹の莫大な資本を背景に、吉本興業の3倍から10倍の給料を提示し、吉本興業から「香島ラッキー・御園セブン」「ミスワカナ・玉松一郎」「平和ラッパ・日佐丸」「松葉家奴・松葉家喜久奴」「あきれたほういず(川田晴久を除く)」を引き抜いた。
このとき、新興キネマ側は伴淳三郎がスカウトに暗躍し、吉本興業側では横山エンタツが吉本芸人に新興キネマへの移籍をそそのかした。
このとき、「ミスワカナ・玉松一郎」は、全盛期の「エンタツ・アチャコ」を越える人気があり、横山エンタツは「ミスワカナ・玉松一郎」が居なくなれば、自分がトップに返り咲けると考えたのである。
さて、新興キネマの永田雅一は、林正之助が溺愛している花菱アチャコにも触手を伸ばした。
花菱アチャコは、吉本興業の給料は映画1本100円に月給130円だったが、新興キネマは契約金3万円に月給1500円を提示し、3万1500円の入った通帳と印鑑を花菱アチャに渡したのである(大卒初任給は45円)。
ドケチの花菱アチャコは、大金が入った通帳を受け取って舞い上がり、松竹への移籍を決めた。
このようななか、電話の交換手が電話を盗聴して、花菱アチャコの移籍話が発覚する。
報告を受けた林正之助は、驚いて、名古屋の寄席から出て来た花菱アチャコをホテルに監禁して、吉本興業への残留を説得した。
花菱アチャコは筋金入りのドケチなので、林正之助の脅しには屈しなかったが、吉本せい(林せい)が花菱アチャコの父親を説得し、父親が花菱アチャコから通帳を取り上げたので、花菱アチャコは松竹への移籍を断念した。
さて、林正之助は花菱アチャコの流出を食い止めたが、松竹(新興演芸部)が演芸会に進出したことにより、吉本興業の演芸会独占は崩れたため、吉本興業は芸人の給料を上げざるを得なかった。
そこで、林正之助が花菱アチャコの給料を600円に上げてやると、新興キネマのギャラの半分にも満たなかったが、花菱アチャコは「おおきに、ぎょうさん、給料を上げてもうて」と喜んだ。
さて、吉本興業は移籍した芸人に対して法的な手段をとった。これに対して、移籍した芸人は吉本興業の内情を暴露して反論した。
さらに、吉本興業は出演映画のフィルム上映を差し止めるなどして、吉本興行と松竹の抗争は世間を大いに賑わせた。
しかし、日本は日中戦争に突入していたこともあり、大阪府警と京都府警が大衆演芸に悪影響を及ぼすとして、吉本興行と松竹の抗争の仲裁に乗り出し、吉本興行と新興演芸部は調停に及び、2ヶ月にわたる抗争に終止符が打たれた。
吉本興業は1番人気の「ミスワカナ・玉松一郎」を失ったが、騒動の割には被害は少なく、新興キネマの新興演芸部の芸人は大半が寄せ集めで吉本興業に敵うはずはなかった。
新興キネマの新興演芸部は、神戸や東京にも進出し、さらには吉本興業に居た秋田實(秋田実)ら頭脳陣も引き抜いて、吉本興業に勝負を挑んだ。
しかし、林正之助は、新興演芸部の興行に対抗して、吉本の精鋭を集めた寄席を開いて、新興キネマから客を奪ったので、新興キネマは負け、2年間続いた吉本興業と新興キネマの戦いは終わった。
ミスワカナは吉本興業に戻りたいと謝ってきたが、林正之助は「いっぺん、出て行った者が戻るのは、他の芸人に都合が悪い」と言って相手にしなかった。
そうした一方で、林正之助は新興キネマに奪われた芸人の穴を埋まるため、新人の発掘に力を入れ、この時にミヤコ蝶々などがスカウトした。
吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)は、浪花節(浪曲)を出演させようと思い、昭和9年(1934年)9月、山口組2代目・山口登に仲介を依頼し、浪花節(浪曲)の広沢虎造と専属契約した。
広沢虎造は、東京・浅草の「浪曲家興行社」に所属しており、マージメントは引き続き、「浪曲家興行社」が担当していた。
さて、山口県下関のヤクザ「籠寅組」は「籠寅興行部」を設立していた。この籠寅興行部は、女剣劇の初代・大江美智子を擁して東京にも事務所を構えており、興行界で精力的に活動していた。
昭和15年(1940年)、広沢虎造が九州巡業の帰りに下関を訪れ、籠寅興行部に挨拶した。このとき、籠寅興行部の興行主・保良菊之助から映画出演を依頼され、広沢虎造は安請け合いした。
しかし、広沢虎造の映画に関する権利は吉本興業が持っており、吉本興業のバックには山口組2代目・山口登が控えていた。
籠寅興行部の興行主・保良菊之助は、そのことを知らずに、日活と映画制作の話を進めた。
しかし、広沢虎造の映画出演権を持つ吉本興業は、東宝と提携しているので、日活の映画に広沢虎造を出演させるはずがない。
山口組2代目・山口登は広沢虎造と兄弟分の盃を交わしていたこともあり、吉本興業は山口組2代目・山口登に問題の解決を依頼した。
しかし、この問題は解決せず、籠寅興行部の鉄砲玉4人が山口組2代目・山口登を襲撃し、双方に1人ずつ死人が出るという事態に発展した。
山口組と籠寅組の抗争へ発展する事々が危惧され、ヤクザの親分衆が山口組2代目・山口登に調停役を申し出たが、山口組2代目・山口登の方は気が収まらず、即答を避けた。
最終的に警視庁が仲介に乗りだし、山口組と籠寅組は和睦したが、山口組2代目・山口登は、襲撃された時の傷が元で1年後に死去した。
日本は昭和16年(1941年)12月8日に真珠湾攻撃を行い、日本は第二次世界大戦へと突入した。芸能界は戦況の悪化と共に、活動の縮小を余儀なくされていく。
吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)は、昭和13年(1938年)9月に31万円で通天閣を購入していたが、昭和18年(1943年)1月16日夜に発生した火事で通天閣を焼失してしまう。
通天閣は地元住人にとってシンボルだったので、地元は通天閣を残して欲しいと懇願したが、警察部長・坂信弥から「戦争の役に立たない。空襲の目印になるから、どうぞ通天閣を壊してくれ」と要請されていたので、吉本せい(林せい)は通天閣は補修せず、解体式を行い、通天閣を鉄として大阪府に献納した。
解体された通天閣は300トンの鉄くずとなって、大阪府大阪市の大阪砲兵工廠に運び込まれたが、そのまま終戦を迎えたため、手つかずのまま赤サビとなった。
吉本せい(林せい)は、「赤サビで良かった。あの鉄が軍需工場で溶かされていたら、弾や鉄砲なんか、色んな兵器に変わって何人の人がなくなっていたことやら」と安堵した。
昭和20年(1945年)3月13日深夜に大阪大空襲があり、吉本興業は全ての寄席を焼失した。わずかに、鉄筋ビルだった千日前の常磐座が焼け残った。
吉本興業の芸人や社員が復員して続々と集まってくるが、みんな食うに困る状況で演芸どころでは無い。
そこで、林正之助は、退職金代わりに芸人の借金を帳消しにして、約400人の所属芸人を全員、解雇した。
しかし、花菱アチャコだけは頑として首を縦に振らず、吉本興業に残りたいと訴えた。
ドケチの花菱アチャコは、必ず演芸は復興したとき、吉本興業の芸人が自分だけなら、仕事を全部、独り占めできると考えたのである。
林正之助は、花菱アチャコの思惑は知らないが、花菱アチャコだけが残して欲しいと懇願するので、芸人で唯一、花菱アチャコだけは契約を続けた。
そして、林正之助は、千日前の大阪花月劇場と常磐座を修復し、解雇した芸人たちも呼んで、興行を打ったものの、演芸を捨てて、映画館として戦後の復興を始めた。
進駐軍の上陸に際し、GHQは京都府に米軍将校のための遊楽施設の設置を命じた。
そこで、京都府は松竹に米軍将校用の遊楽施設の設置を求めたのだが、松竹が外国人に不慣れなことなどを理由に断ったため、吉本興業に相談が来たのである。
林正之助は、マーカス・ショーの経験もあり、映画とキャバレーに着目していたので、ギャバレーの開設をGHQに申請し、これを許可された。
しかし、吉本興業はギャバレーを開けるような小屋を持って居らず、話し合いの結果、祇園の甲部歌舞練場が候補に挙がった。
甲部歌舞練場は格式が高いので、ギャバレーの為に貸してくれるとは思えず、相当な難航を予想していたのだが、吉本せい(林せい)の元番頭・一田進が甲部歌舞練場の前の小料理屋の女将と知り合いなので任せて欲しいと言うので、交渉を一田進に任せた。
すると、翌日には甲部歌舞練場の使用許可が出たので、林正之助は10年の賃貸契約を結び、早々に改装工事に取りかかり、昭和21年(1946年)12月28日に進駐軍専用の「キャバレー・グランド京都」をオープンした。
さらに、「キャバレー・グランド京都」の隣の彌栄館を借りて映画館「ヤサカ・グランド会館」として、洋画を上映した。
こうして、演芸を捨てた吉本興業は、キャバレーと映画館の経営で復興していくのであった。
大阪の演芸は落語から始まった。落語家の5代目・笑福亭松鶴らが中心となり、昭和20年(1945年)11月から毎月、落語会の開催を始めた。
松竹の白井松次郎は、この落語会に注目していたが、演芸に手を出して吉本興業の林正之助に2度も痛い目に遭っていたため、吉本興業の動向を1年近く見守った。
しかし、林正之助は、落語が嫌いだったので、5代目・笑福亭松鶴らの落語会には見向きせず、一向に手を出そうとしなかった。
そこで、松竹の白井松次郎は、昭和22年(1947年)3月に「上方趣味落語の会」を開催し、これが大当たりしたので、松竹は本格的に演芸界へと進出した。
こうして、吉本興行は松竹が捨てたキャバレーで戦後の復興を果たし、松竹は映画と吉本興行が捨てた演芸で復興を果たした。
また、吉本興行から解雇された漫才師は、秋田實(秋田実)を党首とした「NZ研究会」(後の宝塚新芸座)を主宰し、戦後の復興を果たした。
一方、吉本興業の東京支社の林弘高は、昭和21年(1946年)10月に「吉本株式会社」を設立して吉本興業から独立した。
姉・吉本せい(林せい)には次男・吉本穎右(吉本泰典)という跡取り息子がおり、吉本穎右(吉本泰典)が吉本興業の後継者である。
林正之助は、吉本興業を任されていたが、吉本穎右(吉本泰典)が吉本興業の後継者であることを約束しており、吉本穎右(吉本泰典)に吉本の帝王学を指導していた。
しかし、吉本穎右(吉本泰典)は、吉本せい(林せい)の意に反してジャズ歌手・笠置シヅ子(亀井静子)と恋に落ちた末、昭和22年(1947年)5月19日に結核で死去した。享年25という若さだった。
そして、姉・吉本せい(林せい)も結核に感染しており、吉本穎右(吉本泰典)の死後、急速に衰退していった。
林正之助は、キャバレー「グランド京都」と映画館の経営で大きな利益を上げ、昭和23年(1948年)1月に吉本興行株式会社を設立し、合名会社から株式会社へと改組した。
そして、吉本興行の創業者である姉・吉本せい(林せい)が代表権の無い会長へと退き、林正之助が社長に就任し、名実ともに吉本興行の経営権は林正之助に譲渡された。
さらに、吉本興行は、昭和24年(1949年)に、証券取引所の再開にともない、大阪証券取引所に株式を上場した。
さて、結核を患っていた姉・吉本せい(林せい)は、1人息子・吉本穎右(吉本泰典)の死で相当なショックを受け、急激に衰えており、日本赤十字病院に入院していたが、昭和25年(1950年)3月14日に甲子園の吉本邸で死去した。享年61だった。
姉・吉本せい(林せい)の男系は吉本穎右(吉本泰典)の死によって途絶えており、姉・吉本せい(林せい)の株式は長姉となる三女・吉本峰子(吉本恵津子)が受け継いだ。
昭和24年(1949年)、林正之助は、芸人・川田晴久(「あきれたぼういず」の川田義雄から改名)を映画の合間のアトラクションに出演させようとした。
しかし、山口組の三代目・田岡一雄が川田晴久の出演委任状を持っている事を理由に、出演を拒否した。
林正之助は正当な権利を持っていたので、抗議したが、山口組の三代目・田岡一雄は引くに引けず、訴訟に発展する。
林正之助は裁判で理路整然と主張して勝訴し、山口組の三代目・田岡一雄は裁判で負けたが、林正之助の事を認めた。
吉本協業は、京都の京都の進駐軍専用「キャバレー・グランド京都」で莫大な利益をあげていたが、昭和25年(1950年)6月に朝鮮戦争が勃発して、日本に居た米兵が去ってしまう。
このため、林正之助は京都の進駐軍専用「キャバレー・グランド京都」を日本人に解放し、昭和27年(1952年)1月に営業を終え、「キャバレー・グランド京都」と隣の映画館「ヤサカ・グランド会館」を祇園新地甲部座敷組合へ返還した。
そうした一方で、東京の弟・林弘高が、相撲からプロレスへと転向した力道山の海外修行を支援しており、力道山が昭和28年(1953年)3月に帰国すると、林正之助と弟・林弘高の兄弟は昭和28年7月の「日本プロレス協会」の発足に加わった。
昭和28年2月には東京でNHKのテレビ放送が始まっており、力道山の空手チョップはテレビによって絶大なる人気を得たが、様々な問題あって昭和31年(1956年)ごろから、プロレスの人気が低下し始めた。
そこで、力道山は、起死回生の一手として、アメリカからルー・テーズを呼び寄せ、NWA世界タイトルマッチを行う。
第1戦は昭和32年(1957年)10月7日に東京の後楽園球場で開催され、結果は引き分け。第2戦は昭和32年(1957年)10月13日に大阪・扇町プールの特設リングで開催され、結果は引き分けた。
林正之助は既に力道山に見切りを付けており、「力道山VSルー・テーズ」の試合を最後に、力道山から手を引いた。
林正之助が演芸を捨てて「キャバレー・グランド京都」と映画館の経営で儲けている間に、大阪の演芸界は目まぐるしく動いていた。
秋田實(秋田実)の漫才団体「NZ研究会」は「上方演芸」へと発展した後、勝忠男の「新生プロダクション」と合併し、「松竹演芸」(後の松竹芸能)が発足していた。
一方、東宝も「大宝芸能」を設立して演芸界に進出していた。
このようななか、昭和32年(1957年)に松竹が道頓堀の角座を再開するというニュースが飛び込んで来た。
それを知った吉本興行の事業部長・八田竹男は、映画産業が傾き始めていたこともあり、林正之助に、映画館の梅田花月を演芸場にして演芸を再開させることを主張した。
しかし、林正之助は、まだ映画が終わったわけではないと言い、演芸部門の再開を拒否した。
吉本興行の芸人は花菱アチャコだけであり、既に他の芸能事務所で飯を食べている芸人が、わざわざ吉本興行に来て臭い飯を食べるはずが無いと考えたのである。
しかし、八田竹男は、演芸賛成派の常務・橋本鐡彦(橋本鉄彦)や中邨秀雄らと語らって、秘策を考えていた。
朝日と毎日は、許認可の関係で仕方なく手を組み、西日本初となる民放テレビ局「大阪テレビ」を設立し、昭和31年(1956年)12月に放送を開始していた。
しかし、朝日と毎日の険悪な関係はいかんともしがたく、許認可の問題が解決すると、大阪テレビは朝日放送と毎日放送に別れる事になった。
そこで、吉本興行は後発組の毎日放送と専属契約を結び、吉本興行の小屋を毎日放送に中継放送させるという作戦である。
八田竹男は、勝算があると言い、林正之助の説得に成功して、吉本興業は演芸に復帰したのである。
こうして、毎日放送の放送初日(昭和34年3月1日)に「うめだ花月劇場」で、「吉本ヴァラエティ(後の吉本新喜劇)」の第1回として花菱アチャコの「アチャコの迷月赤城山」をやった。
しかし、600人が入る「うめだ花月劇場」に、初日の客は17人だったので、林正之助は「お前ら吉本を潰す気か。腹を切れ」と激怒し、八田竹男・橋本鐡彦(橋本鉄彦)・中邨秀雄に切腹させて千日前で晒し首にしようとした。
そこで、テレビ放送中に「うめだ花月劇場より中継」というテロップを流した。
すると、テレビを観た人が、生で観たいと思い、警察に「うめだ花月劇場の場所を教えて欲しい」という電話をかけるようになった。
放送の度に警察の電話が鳴るようになり、終いに曾根崎署の電話回線がパンクして、曾根崎署の署員が吉本興業に「地図を入れろ」と怒鳴り込んできたが、「吉本ヴァラエティ」は立ち見が出るほどの人気で、嬉しい苦情だった。
そして、昭和35年1月2日には、定員600人の「うめだ花月劇場」に3500人を動員するという記録を樹立した。
すると、林正之助は、「それみい。演芸場にしといて良かっただろ」と言った。
その後、吉本興業は朝日放送にも接近して、演芸界での活動を積極的に展開していくが、芸人のギャラの高騰に苦しみ、新人育成の力を入れた。このとき、岡八朗などが吉本興行に入った。
吉本興業は昭和36年(1961年)に東証一部に上場を果たしたが、林正之助は糖尿と膀胱炎で入院することを余儀なくされ、昭和38年(1963年)に別会社になっていた東京の「吉本株式会社」の弟・林弘高を招いて吉本興行の社長を託した。
このころ、テレビの普及によって、映画産業が衰退しており、映画館を経営していた吉本興行は非常に苦しい時期だった。再開した演芸部門も利益は上がっていなかった。
そこで、吉本興業の社長に就任した弟・林弘高は本社を移転し、旧本社をボーリング場へと改装し、昭和39年(1964年)4月にレジャー施設「ボウル吉本」を開業した。これがボーリングブームを呼び、吉本興行の収入の柱へと成長する。
その一方で、弟・林弘高は利益の上がらない演芸部門を軽視したため、吉本興行の内部で「大阪と東京」という対立を招き、引いては林正之助と弟・林弘高の対立を招いた。
そのようななか、昭和41年(1966年)に弟・林弘高が脳軟化症で倒れ、昭和44年(1969年)に社長を辞任する。弟・林弘高は昭和46年に咽頭癌で死去した。
しかし、林正之助は、昭和43年(1968年)1月にマーキュリーレコード乗っ取りに関連する恐喝罪で兵庫県警に逮捕されおり、直ぐには社長復帰とはいかず、昭和45年(1970年)になって、ようやく吉本興行の社長に返り咲いた。
林弘高が社長を降任した昭和44年(1969年)からラジオの深夜番組ブームが沸き起こり、深夜ラジオから「笑福亭仁鶴」「桂三枝」が台頭した。さらに漫才師「やすき・きよし」も台頭する。
この「笑福亭仁鶴」「桂三枝」「やすき・きよし」が「吉本御三家」として活躍し、吉本興行の演芸部門が一気に盛り返した。
吉本御三家の中でも、林正之助は、特に笑福亭仁鶴に感謝しており、笑福亭仁鶴だけは「仁鶴さん」と呼んだ。林正之助が芸人を「さん」付けで呼ぶのは、笑福亭仁鶴だけだった。
昭和50年代に入ると、再び吉本興業の演芸部門は衰退し始めたが、昭和55年(1980年)に突如として漫才ブームが起り、「島田紳助・松本竜介」「中田カウス・田中ボタン」など数多くのタレントが誕生した。
この漫才ブームにより、吉本興業は、戦後の演芸界で先行していた松竹芸能を抜いて、演芸界で復権を果たした。
この漫才ブームは2年で終わったが、昭和56年(1981年)からビートたけしのバラエティー番組「オレたちひょうきん族」などが始まり、テレビのバラエティー番組時代が到来する。
そして、関西で成功した吉本興業の明石家さんまが東京へ進出して成功し、吉本興行の中心はテレビ事業へとシフトしていくのであった。
その一方で、吉本興業は昭和57年(1982年)にタレント養成学校「吉本総合芸能学院(NSC)」を開校し、1期生として、「ダウンタウン」「ハイヒール」「トミーズ」が入った。
ある日、林正之助は芸人を集め、「ヤクザとは一切、関わってはいかん」と厳命した。
その後、夕刊に山口組の三代目組長・田岡一雄の葬儀の写真が掲載されたのだが、この写真に林正之助が写っていた。
そこで、中田カウスは林正之助に「この前の話しでは、ヤクザとは一切関わってはいけないということでしたが、ここに写っているのは会長ではないでしょうか?」と尋ねた。
すると、林正之助は「カウス君、僕が双子やというのを知らんかったのか?これは僕やない。双子の弟ですよ」と答えた。もちろん、双子の弟など居ない。
この間、林正之助は昭和48年(1973年)に社長を退き、創業一族以外で初の社長となる橋本鐵彦(橋本鉄彦)がに社長に就任する。
その後、昭和52年(1977年)に八田竹男が社長に就任したが、昭和61年(1986年)に林正之助が3度目の社長に復帰した。
林正之助は、問題を起こす横山やすしにも給料を払い続けたが、ついに解雇を決めた。
また、「今いくよ・くるよ」を愛したほか、「オール阪神・巨人」に「エンタツ・アチャコ」を襲名させようとしたが、これには失敗した。
林正之助は、吉本興業のドンとして長期に亘って君臨し、芸人から「ライオン」と恐れられ、晩年まで現場に立っていたが、平成3年(1991年)4月24日に心不全で死去した。享年93だった。
林正之助は、妻・林勢との間に長女・林マサを儲けており、その後は長女・林マサが株主として吉本興業に大きな影響力を持った。
林正之助の死後は、中邨秀雄が吉本興業の8代目社長に就任したが、中邨秀雄が病気により退任すると、1999年に長女・林マサの夫・林裕章が9代目社長に就任した。
そして、夫・林裕章が2005年に病気で社長を退任するさい、長女・林マサは、長男・林正樹を社長に就任させようとしたが、吉本興業の経営陣と対立して、長男・林正樹の社長就任に失敗した。
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