岡山県高梁市から朝ドラになった平川唯一の実家

NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」のモデル平川唯一(ひらかわ・ただいち)が生まれた実家と岡山県高梁市津川町について紹介します。

平川唯一の実家

平川唯一は、明治35年(1902年)2月13日に、岡山県高梁市津川町で、農業を営む平川定二郎の次男として生まれている。

岡山県高梁市津川町は、岡山市から北西約30kmの場所にある。Googleマップで観てみると、山奥の農村である。

下記はGoogleマップで岡山県高梁市津川町を示したものである。右下のプラスやマイナスのボタンを押せば縮小したり拡大したりできるので、参考にして欲しい。

高梁市には、名城100選に選ばれている備中松山城があり、かなり自然豊かな町である。

平川唯一が生まれ育った津川町は、備中松山城から北へ約2kmに位置している。

現在は、JR木野山駅が開通しており、道路も舗装されて、車もあるが、当時は電車も通っておらず、梁市津川を使った船が主な輸送手段だったようである。

このような山村にあった平川家は、全く儲からない弱小農家だったので、父・平川定二郎はこのままでは先が無いと考え、商売に手を出したらしい。

しかし、この商売が失敗して莫大な借金を背負ったため、父・平川定二郎はアメリカへ出稼ぎに出た。

スポンサードリンク

高梁市津川町時代の平川唯一

平川唯一は控えめな性格なので、子供時代の事を「大人しいだけが取り柄で、なんのひらめきも無い平凡な子供」だったと言っているが、実際は成績が良く、優秀な成績だった。

成績だけを判断すれば、中学校へ進学できるのだろうが、貧乏な農家では中学校へ進学する事は出来なかった。

朝ドラ「おちょやん」のモデル浪花千栄子は、小学校さえ2ヶ月しか通えなかったが、浪花千栄子は特殊なケースで、大正時代の小学校進学率は高く、小学校の卒業率もほぼ100%だった。

しかし、中学進学率は格段に落ち、大正時代の中学校は高嶺の花だったのである。

さて、中学校へ進学出来なかった平川唯一は、津川尋常高等小学校高等科を卒業すると、家業の農業に従事するのだが、非常に厳しい仕事だった。

平川唯一は朝早くから夜遅くまで働き、休みはお盆と正月、そして年2回のお祭りの日だけだったうえ、食べものも質素だったようである。

平川唯一はアメリカ時代に貯金が無くなり、2週間、ジャムを付けたブレッドと牛乳だけでしのいだのだが、子供時代に食べていた食事よりもずっと上等で栄養があったと述べている。

ただ、大正時代の農村に生まれ育った女性の手記には、農家の食事よりも、刑務所の食事の方が豪華だったと書いてあったので、平川家が特別に貧しいというわけではなく、これが一般的な弱小農家の生活だったのだと考えられる。

父親の出稼ぎ

父・平川定二郎は、こうした貧しい生活から抜け出そうとして商売に出手を出して失敗し、莫大な借金を背負ったのだろう。

父・平川定二郎は借金を返済するために、アメリカへ出稼ぎに行くのだが、1度戻って以来、戻って来なかった。

そこで、平川唯一は、父親が帰ってこないので、母親も寂しがっているだろうと思い、アメリカの父親に「帰ってこないなら、こちらから迎えに行く」と脅しの手紙を書いた。

すると、「交通費くらいは出してあげるから、アメリカへ来なさい」という返事が来たので、平川唯一は英語など全く話せなかったが、16歳の時に兄とともにアメリカへと渡ったのである。

参考資料:平川唯一の立志伝

スポンサードリンク