カムカム英語 平川唯一の立志伝

NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」のモデルとなる平川唯一(ひらかわ・ただいち)の立志伝です。

平川唯一の生涯の目次

  1. 平川唯一の幼少期
  2. 平川唯一の渡米
  3. アメリカでの生活
  4. 小学校に入学
  5. 高校入学と弁論大会
  6. 大学で演劇科に転向
  7. 平川唯一の結婚と帰国
  8. 帰国後の動向
  9. 日本放送協会(NHK)に採用される
  10. 終戦と玉音放送
  11. 平川唯一が日本放送協会を退職
  12. 平川唯一の家系図
  13. 目次制作中

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平川唯一の立志伝

平川唯一平川唯一は明治35年(1902年)2月13日に岡山県上房郡津川村(岡山県高梁市津川町)で、農業を営む平川定二郎の次男(男3人兄弟)として生まれた。

生地の岡山県高梁市津川町は岡山市から北西へ35km、名城100選に選ばれた高梁市の備中松山城から北へ20kmの場所にある山奥の農村である。

今でこそJR木野山駅が開通しているが、当時の高梁市津川町は鉄道も通っておらず、高梁川の船に輸送を頼るような辺境の地で、小さな農家の平川家は貧しい生活をしていたようである。

平川唯一は、アメリカ時代に貯金が無くなり、2週間、ジャムを付けたブレッドと牛乳だけの生活をしていたのだが、子供時代に食べていた食事よりもずっと上等で栄養があったと述べている。

父・平川定二郎は、そのような貧しい生活を変えようと思い、米相場(先物相場)に手を出して失敗し、多額の借金を背負ったため、アメリカへ出稼ぎに出た。

さて、大正時代は小学校の卒業率は、ほぼ100%だったが、中学校へ進学出来るのは限られた者だけだった。

小学校時代の平川唯一は非常に優秀な成績だったが、貧しい農家だったがゆえに中学進学は諦め、14歳の時に津川尋常高等小学校高等科を卒業すると、実家の農業に従事した。

初めは母・平川タミノに手伝ってもらっていたが、直ぐに大人同然として働くようになり、休日も無く、朝早くから夜遅くまで働いた。休みは盆と正月と年に2回のお祭りだけだった。

遊びたい年頃だったが、周りの子供達も同じように、朝早くから夜遅くまで働いていたので、苦しいとも酷いとも思わなかったという。

平川唯一の渡米

父・平川定二平川唯一が2歳ごろに借金を作り、アメリカに出稼ぎに出た。平川唯一が5歳の時に1度帰国したのだが、それ以降は帰国していなかった。

そこで、平川唯一は、母親も寂しいだろうと思い、アメリカので働いている父親に「帰ってこなければ、こちらが行く」という脅しの手紙を書くと、父親から「交通費くらいは出してあげるので、アメリカに来なさい」という予想外の返事が来た。

そこで、平川唯一は兄・平川隆一と話し合い、兄・平川隆一と共にアメリカに渡った。16歳の事である。

平川唯一は、もし、このとき、アメリカに渡っていなければ、一生、岡山の山奥で農業をしていたかもしれないと語っている。

アメリカでの生活

アメリカに渡った平川唯一は、ポートランドで父親と一緒に鉄道の仕事をしていたが、肉体労働なので英語は必要無かった。

平川唯一は、半年ほどして鉄道の仕事を辞め、シアトルで古屋政次郎が経営する古屋商店で働き始めたが、仕事は地下の倉庫だったので、古屋商店でも英語は必要なかった。

しかし、平川唯一は接客の仕事がしたいと考え、仕事が終わると、夜学に行ったり、日本語で書いてある英語の手引きを読んで英語を勉強した。

夜学の行き帰りに、刑務所の横を通るのだが、刑務所の横を通る度に、中の囚人が英語で話しかけてくる。

平川唯一は、これは生きた英語を練習するにはちょうど良いと思い、夜学の行き帰りに、囚人を相手に、学んだばかりの英語を使って英会話の練習をするようになった。

しかし、しばらくすると、看守に見つかってしまい、平川唯一は厳重に注意され、英語の練習相手を失ってしまった。

やがて、平川唯一は念願の接客の仕事に就くことが出来たが、英語が話せなかったので、客を怒らせてしまい、再び地下の倉庫へと戻されてしまう。

このため、アメリカで生活するには英語を学ばなければならないと考えた平川唯一は、古屋商店を辞めると、アメリカ人のハモンドさんという家に、住み込みのスクールボーイ(書生)として置いてもらいながら、スーウェド小学校でアメリカの小学生と一緒に英語を学ぶことになる。

このとき、ハモンドの奥さんが、アメリカの名前を付けた方が呼びやすいということで、「ハリー」「ジェームス」「デット」などの名前を並べ、平川唯一に好きな選びなさいと言った。

どの名前もピンと来なかったのだが、奥さんが最後に「ジョー」という名前を言ったので、平川唯一は新島襄を連想し、アメリカ名を「ジョー」に決めた。

平川唯一は、新渡戸稲造などの国際的に活躍した人の伝記を読むのが大好きで、脱国してアメリカに渡り、後に帰国して同志社大学を創立した新島襄を尊敬していたのである。

(注釈:新島襄の妻・山本八重は、「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれ、NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなっている。)

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小学校に入学

平川唯一がアメリカに来たのは父親を帰国させるためで、アメリカに来て1年ほどして父親を説き伏せ、母親が待つ岡山県へと帰国させることに成功した。

しかし、平川唯一は、せっかくアメリカへ来たのだから、1年で帰るのは勿体ないと考え、アメリカに残り、英語を学ぶため、17歳でスーウェド小学校に入学する。

日本人は勤勉で低賃金でも真面目に働くことから、アメリカでは排日運動が起きていたが、さいわい、平川唯一は差別されることなく、みんなに受け入れられ、同級生からも先生からも親切にしてもらえ、6歳の子供達と遊びながら生きた英語を学んでいった。

(ただし、上級生から宿題を押し付けられ、休み時間に上級生の宿題をしていると、小学校の校長から注意されたというエピソードが残っている。)

平川唯一は日本の尋常小学校を優秀な成績で卒業しているので、英語以外は問題が無く、その学年の英語が話せるようになると、飛び級で進級していき、8年通う小学校を3年で卒業して、ブロードウェイ高校(ブロードウェイ・ハイスクール)へと進学した。

ただし、小学校を半年ほどで卒業する日本人も居るので、3年で小学校を卒業するというのは早いとは言えない。

高校入学と雄弁大会

ブロードウェイ・ハイスクールへと進学した平川唯一は、驚いた。同級生はみんな年下なのだが、堂々と意見を言い合っており、あたかも自分よりも年上のようだったのである。

さらに、平川唯一は高校の恒例行事である雄弁大会を観て感心し、自分も卒業までに雄弁大会に出場するという目標を立て、英語の勉強に励んだ。

その雄弁大会は、歴史的な演説や小説の一節を選んで、効果的に力強く表現するかを競う大会で、毎年、100人以上が大会に申し込み、3回の予選を経て5名が決勝戦に出場できるというものだった。

平川唯一は、雄弁大会の決勝を目指すため、英語の勉強に励み、4年生の時に弁論大会にエントリーした。

そして、平川唯一は毎晩9時になると、民家も人気も無い荒野の丘の上へ行き、大声で演説の練習をしていた。

すると、ある日の夜、パトカーがサイレンを鳴らして近づいてきて、パトカーから下りてきた大男の警察官が、「そこで何をしているんだ」と質問してきた。

平川唯一が「何もしていませんよ」と答えると、警察官は「嘘をつくな。毎晩、警察に電話がかかってきて、丘の上でキチガイが叫んでいるので、なんとかして欲しいというので、捕まえに来たんだ」と告げた。

すると、平川唯一は高校の雄弁大会に出場するので、スピーチの練習をしていたのだと説明すると、偶然にも警察官は同じ高校の卒業生だったので、「しっかり頑張りなさい。健闘を祈っている」と言い、帰って行った。

こうして、平川唯一は無事に練習を続けることが出来たのだが、翌日、丘の上での一件が新聞に載ったので、学校で冷やかされ、恥ずかしい思いをしたのだった。

さて、弁論大会にエントリーした平川唯一は、英語を母国語とする同級生たちを押しのけて、3回の予選を勝ち抜き、決勝戦に進出した。

流石に優勝する事はできなかったが、審査員3人のうち1人が1位に投票してくれたので、平川唯一は結果に満足し、ハイスクールを卒業すると、ワシントン大学へと進学した。

大学で演劇科に転向

平川唯一は戦後、ラジオ番組「カムカム英語」で有名になるので、子供の頃から喋る事が得意だったと思われがちだが、子供の頃から喋るのが苦手だった。

平川唯一は、1人で黙々と作業する事が好きだったことから、トーマス・エジソンのような発明家になろうと思い、ワシトン大学では物理学を専攻する。

しかし、1年の1学期の物理学の成績はAだったものの、2学期はBに落ち、3学期にはCに落ちてしまった。

このため、一番得意な物理学がこれではお先真っ暗だと思い、色々と思案した末に、2年生の1学期からは演劇科へと鞍替えした。

そして、演劇科の発生学で正しい発音を学んだり、脚本を書く技術などを学んだりして、大学の近くの小劇場で舞台「ペール・ギュント」に初出演し、「ツロール・キング」という役を演じた。

この舞台「ペール・ギュント」が小劇場始まって以来の大ヒットとなり、平川唯一も2ヶ月以上、舞台に出演している。

そして、平川唯一がワシントン大学在学中の昭和2年に父・平川定二郎が死去し、アメリカに滞在していた兄・平川隆一が父親の死を機に帰国する。

平川唯一は父親が死んだときに帰国しなかったが、昭和4年に一時帰国して4ヶ月ほど日本に滞在した後、アメリカへ戻り、昭和6年にワシントン大学を首席で卒業した。

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結婚と帰国

平川唯一はワシントン大学を卒業すると、ロサンゼルスへと移り、ハリウッドで劇団の監督を務めたり、大部屋俳優としてハリウッド映画「マダム・バタフライ」にも出演したりしていた。

その一方で、平川唯一はセントメリーズ・チャーチ教会の副牧師となり、日本文化の普及に務めており、教会の活動に参加していた日本人留学生・瀧田ヨネと出会い、昭和10年に瀧田ヨネと結婚し、昭和11年4月に長男・平川壽美雄が生まれた。

しかし、留学生としてアメリカに来ていた妻・瀧田ヨネはビザの期限切れという問題が発生する。

日本人は従順に働くことから、周囲から敵視され、アメリカで排日運動が起きており、大正13年に「排日移民法」が設立していた。

平川唯一は大正7年に移民としてアメリカに渡っていたので、アメリカの永住権を取得していたが、留学生としてアメリカに来ていた妻・瀧田ヨネはビザに期限があった。

妻・瀧田ヨネはビザの延長を申請したが、ビザの申請が認められなかったのである。

このため、平川唯一は、昭和12年に家族そろって帰国する。16歳の時にアメリカに渡ってから、19年ぶりの帰国である(ただし、昭和4年に一時帰国している)。

帰国後の動向

妻・瀧田ヨネの実家は東京の神田川で瀧田洋服店(仕立屋)を営んでおり、昭和12年10月に帰国した平川唯一は妻の実家「瀧田洋服店」で働く事も考えていたようだ。

アメリカでは、洋服を仕立てる時代から、既製品を大量に製造して安価で販売する時代へシフトしていたので、平川唯一は義父(妻の父)に既製服の販売を提案したが、受け入れられなかったようだ。

そこで、平川唯一は日本電報通信社(電通)で勤務した後、日本放送協会(NHK)で働く事になる。

日本放送協会(NHK)に採用される

帰国した平川唯一は、1ヶ月ほど日本電報通信社(電通)に勤務していたのだが、日本放送協会(NHK)の外国放送の職員募集に応募する。

しかし、平川唯一は、英語のニュースについては注意して見たことが無く、ニュース原稿も書いたことがなかった。

そこで、困った平川唯一は試験当日の朝、朝刊を読んで、海外放送に使えそうなニュースを探したが、使えそうなニュースは無かった。

しかし、朝日新聞の社説が時節を的確に捉えていたので、朝日新聞の社説を海外放送のニュースようにアレンジして英語に翻訳して、頭にたたき込んで試験に臨んだ。

すると、日本放送協会の試験で、今朝、英語に翻訳した朝日新聞の社説を海外向けニュースに翻訳する問題が出た。

こうして、平川唯一は、見事にヤマが的中し、受験者50数人のなかから、2名の合格者に選ばれ、翻訳として採用された。その後はアナウンサーに転向し、NHK国際放送のチーフアナウンサーへと出世した。

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終戦と玉音放送

平川唯一は、昭和15年(1940年)12月8日の真珠湾攻撃にともなう開戦特別放送を全世界に向けて放送したほか、連合国軍向けプロパガンダ放送で有名な女性アナウンサー「東京ローズ」を採用し、プロパガンダ放送を任せた。

さらに、終戦時には、玉音放送を文語調に英訳して、諸外国に向けて朗読放送し、GHQのマッカーサーの放送要員も務めた。

平川唯一が日本放送協会(NHK)を退職

戦後、GHQが横浜の関税ビルを接収し、関税ビルの中に放送局を作り、マッカーサー元帥が日本の占領宣言を放送することになった。

そこで、GHQは日本放送協会(NHK)に通訳やラジオの技術者を派遣するように要請したが、誰も行きたがらない。

このため、平川唯一は国際放送のチーフアナウンサーという責任感から、GHQの通訳を引き受け、横浜の関税ビルへと向かった。

横浜の関税ビルは非常に汚れていたので、平川唯一が掃除すると、関税ビルに入ったマッカーサー元帥は感心して平川唯一を気に入ったという。

こうして、平川唯一はマッカーサー元帥の放送要因として活動するのだが、横浜の関税ビルでは手でざまだということで、GHQは日本放送協会(NHK)の接収を決定する。

この案内役を務めたのが平川唯一で、ハリス大佐は平川唯一の案内で日本放送協会(NHK)に入る。

このとき、日本放送協会の幹部は部屋に閉じこもって接収対策を話し合っており、ハリス大佐が開けろと命じても、ドアを開けなかった。

ハリス大佐が「開けなければ撃つぞ」というので、日本放送協会の幹部はドアを開けて、日本放送協会の接収を受け入れるのだが、ハリス大佐の言葉を通訳していた平川唯一であり、あたかも平川唯一がGHQを先導した来たかのように見えたので、平川唯一は日本放送協会の幹部から怨まれた。

このため、平川唯一は日本放送協会(NHK)を自主退職するのだった。

戦後のカムカム英会話

平川唯一は昭和20年の秋にNHKを退職し、1ヶ月ほどのんびりとしていたとき、NHKの教養部から英会話放送を担当して欲しいという依頼があった。

平川唯一は、深く考えずに英会話放送を引き受けたのだが、英会話教育については素人だったので、どのような教材を使って、どのように教えればよいのか分からない事に気付き、慌てふためいて、死に物狂いで考えた。

すると、自分は全く英語を喋る事が出来なかったが、大人になってから、アメリカの小学校へ入学して、小さな子供達と一緒に遊びながら英語を学んで、英語を話せる様になった事を思い出した。

そして、それは英語の勉強というよりも、言葉遊びだったことに気付き、赤ちゃんになったつもりで言葉遊びをするという勉強方法を思いついた。

さらに、当時の日本は敗戦の影響で暗かったので、英会話放送で日本の国民を明るく楽しくしたいと考えた。

こうして、平川唯一は、昭和21年2月からNHK第一放送で英語会話講座の放送を開始し、明るくてユーモアに富む英会話の講義を行い、英会話ブームを起こした。

また、平川唯一は、動揺「証城寺の狸囃子」の替え歌で、テーマ曲「カム・カム・エブリバディ」を作詞して、英会話放送で流した。

すると、日本の国歌「君が代」を歌えない子供は居ても、「カム・カム・エブリバディ」を歌えない子供は居ないと言われるほどになり、英会話講座は「カムカム英会話」と呼ばれ、平川唯一は「カムカムおじさん」と呼ばれて人気となった。

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その後

戦後に起きた英会話ブームは終焉を迎え、平川唯一のNHKの英会話講座も昭和26年2月に終了した(放送期間は5年)。

昭和26年12月にラジオ東京で英会話講座を再開するが、聴取率は低迷。その後はニッポン放送に移って英会話講座を続けたが、昭和30年に番組は打ち切りとなった。

昭和32年に太平洋テレビに入り、国際部長を経て副社長に就任。昭和51年には勲五等双光旭日章を受章した。

昭和56年(1981年)には「みんなのカムカム英語」を出版して健在ぶりを示したが、平成5年(1993年)8月25日に死去した。93歳だった。

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