NHKの朝ドラ「カムカムエブリバディ」のモデルとなる平川唯一(ひらかわ・ただいち)の息子と家族を紹介します。
平川唯一の家系図に掲載されている家族や略歴については、下記をご覧ください。
平川唯一の生涯については「平川唯一の立志伝」をご覧ください。
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平川源兵衛は平川唯一の祖父で、岡山県上房郡津川村(岡山県高梁市津川町)で農業を営んでいた。
平川定二郎(ひらかわ・さだじろう)は婿養子で、平川タミノと結婚して、平川家に入った。平川家は小さな農家で貧しかったので、苦境を何とかしようと思い、米相場に手を出して借金を背負ってしまう。
そこで、平川定二郎は借金を返済するために、アメリカに出稼ぎに出たのだが、1度帰国したっきり帰国しなかった。
すると、子供達から帰国を促す手紙を来たのだが、逆に長男・平川隆一と次男・平川唯一をアメリカに呼び寄せた。
その後、平川定二郎は次男・平川唯一が小学校に入学して少ししすると、2人の子供をアメリカに残して帰国。出稼ぎで稼いだお金で借金は全て返済し、晩年は金融業を営みながら、悠々自適の生活を過ごし、次男・平川唯一がアメリカ滞在中の昭和2年に死亡した。
母・平川タミノは非常に厳しい人だったという。昭和25年2月に死去した。
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平川隆一(ひらかわ・たかいち)は、平川唯一の兄で、アメリカで出稼ぎをしていた父・定二郎の招きによって、弟・唯一と共にアメリカへ渡り、アメリカで自動車を修理する技術を学んだ。
日本に帰国していた父・平川定二郎が死去した事を機に帰国し、帰国後は岡山県で修理工場を開いた。
平川唯一(ひらかわ・ただいち)は明治35年(1902年)2月13日に岡山県上房郡津川村(岡山県高梁市津川町)で、農家の次男(3人兄弟)として生まれた。
平川唯一は、津川尋常高等小学校高等科を卒業後、家業の農業に従事していたが、アメリカへ出稼ぎに行った父・平川定二郎に帰国を促す手紙を書いたところ、反対に父・平川定二郎からアメリカへ誘われたので、大正7年、16歳の時に兄・平川隆一と共にアメリカへと渡る。
平川唯一は英語を学ぶため、スーウェド小学校に入学し、3年で小学校を卒業すると、ブロードウェイ高校を経てワシントン大学を首席で卒業した。
昭和10年にアメリカで留学生・瀧田ヨネと結婚し、昭和11年4月に長男・平川壽美雄が生まれたが、妻・瀧田ヨネのビザが更新できないことから、9年ぶりに家族で日本へと帰国した。
帰国後は日本放送協会(NHK)の国際部アナウンサーとして勤務し、終戦時は玉音放送を翻訳して放送したが、終戦後にGHQの通訳を務めたことから、昭和20年にNHKを依願退職する。
しかし、NHKからラジオの英会話放送の担当を依頼され、昭和21年にラジオ番組「カムカム英語」の放送を開始する。
「カムカム英語」が大ヒットして、平川唯一は「カムカムおじさん」として有名になる。
昭和26年にNHKラジオの「カムカム英語」が終了した後は、民放ラジオで昭和30年まで「カムカム英語」を続けた。
昭和33年に太平洋テレビジョンに入社し、海外ドラマの翻訳を手がけ、昭和35年に太平洋テレビジョンの副社長に就任・昭和40年に太平洋テレビジョンを退職した。
昭和56年に勲五等双光旭日賞を受賞、平成4年に語教育特別功労賞を受賞。平成5年8月に死去した。
平川唯一の弟は大正15年生まれ。2歳の時に事故で死んだ。平川唯一はアメリカに滞在していたので、弟には一度も会っていない。
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瀧田ヨネは、明治34年(1901年)4月1日に東京都神田区錦町一で、瀧田洋服店(仕立屋)の長女(2男・4女の6人兄弟)として生まれた。
瀧田ヨネは、東京府立第1高等女学校を経て、東京府女子師範学校へと進学し、師範学校を卒業後は小学校の国語の教師となった。
瀧田ヨネは、昭和6年にアメリカ視察のチャンスに恵まれてアメリカを視察。このときにアメリカで強い影響を受け、昭和8年に教師を辞めてアメリカへ渡り、南カルフォルニア大学に入学して教育学を学んだ。
そして、瀧田ヨネは、現地で平川唯一と知り合って結婚し、昭和11年4月26日に長男・平川壽美雄を出産する。
しかし、瀧田ヨネはビザの延長が認められず、帰国を余儀なくされ、昭和12年に家族で帰国した。
義母の平川タミノが孫にも厳しい人だったため、子供を守る為に平川唯一の実家とは疎遠だったようだ。
平川壽美雄(ひらかわ・すみお)は昭和11年(1936年)4月26日にアメリカので生まれた。母・瀧田ヨネのビザが切れた関係で、昭和12年に一家そろって帰国する。
平川壽美雄は自由学園の中等部を卒業すると、単身でアメリカへと渡り、アルバイトをしながら絵ペレット高校を卒業し、ワシントン大学へと進学した。
平川壽美雄はワシントン大学を首席で卒業し、全米の首席卒業者47人のなかから、アメリカ国務省奨学生ベスト3の1人に選ばれた(日本人初)。
平川壽美雄は、シアトルのファースト・シティー銀行で副頭取を務めた後、三菱銀行のシアトル出張所長を務めた。
平川洌(ひらかわ・きよし)は昭和16年(1941年)3月に平川唯一の次男として東京都世田谷区でで生まれた。
父・平川唯一は、評論家の清沢洌を尊敬しており、清沢洌から「洌」を取って、次男を平川洌と名付けたと考えられる。
平川洌は、昭和39年に自由学園の最高学部経済学科を卒業して、ホリー株式会社入社し、貿易部に勤務。昭和50年に、ホリー商事株式会社を設立した。
平川洌は学生時代にウクレレ大会で優勝したことがあり、海外へ商談に行く前に、現地のテレビ局に「ウクレレの日本チャンピオンだから、何かのテレビに出たい」という手紙を書いて、商談の前日にテレビに出演する。
翌日、商談相手に会うと、「君は昨日、テレビに出ていた人じゃないか」ということで話が弾み、トントン拍子で商談をまとめていたという。
ウクレレの腕前は、日本人としては初めてウクレレソリストとしてカーネギーホールに出演して、その腕前を絶賛されたといい、18の教室でウクレレを教えている。
また、カムカム英語センター・リーダーを務めた他、慶應義塾外国語学校で英会話講師も務め、英会話の指導にも尽力した。
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平川睦美は、昭和17年(1942年)8月に東京都世田谷区で平川唯一の長女として生まれた。
平川萬里子(ひらかわ・まりこ)は、昭和28年(1953年)8月に東京都世田谷区で、平川唯一の次女として生まれた。母親の勧めで日本舞踊を習っており、英語と日本舞踊を活かして、アメリカで日本舞踊の指導にあたる。
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