平川唯一がアメリカへ渡った理由

NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」のモデル平川唯一(ひらかわ・ただいち)がアメリカへ渡った経緯を紹介します。

平川唯一がアメリカへ渡った理由

平川唯一は明治35年(1902年)2月13日に岡山県上房郡津川村(岡山県高梁市津川町)で、農家・平川定二郎の次男として生まれた。3人兄弟の次男だった。

大正時代は、小学校の卒業率こそ100%に近かったが、平川唯一の同級生でも中学校へ進学出来たのは2~3人程度で、中学進学は高嶺の花だった。

平川唯一は学校の成績は良かったので、無理を言えば中学校へ進学できたかもしれないが、控えめな性格だったようで、中学校へと進学した同級生を羨ましく思いながらも、中学校進学を断念し、津川尋常高等小学校高等科を卒業すると、実家の農業に従事し、ほとんど休日も無く、朝早くから夜遅くまで働いた。

平川唯一は、アメリカ時代にお金が無くなり、2週間、ジャムを付けたブレッドと牛乳だけでしのいだのだが、子供時代に食べていた食事よりもずっと上等で栄養があったと述べていることからも分るとおり、かなり貧しい生活をしていたようである。

ところで、父・平川定二郎は農業では先が無いと思い、商売に手を出して失敗したため、アメリカへ出稼ぎに出ていたらしいのだが、アメリカに行ったまま帰って来なかった。

そこで、平川唯一は、母親も寂しいだろうと思い、父親に「帰ってこないのなら、こちらから行く」と、帰国を促す手紙を書いた。

すると、反対に父・平川定二郎から「交通費くらいは出してあげるから、アメリカに来なさい」と誘われたのである。

そこで、平川唯一は兄と相談し、英語は分らなかったが、大正7年(1918年)に兄と共にアメリカへ渡ったのである。16歳のことだった。

平川唯一の立志伝-アメリカ時代の生活」へ続く。

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