平川唯一の雄弁大会の実話

NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」のモデル平川唯一がアメリカの雄弁大会で優勝した時のエピソードを紹介します。

平川唯一がアメリカへ行く経緯

平川唯一は明治35年(1902年)2月13日に岡山県上房郡津川村(岡山県高梁市津川町)で、農家・平川定二郎の次男として生まれた。

小学校の成績は良かったが、貧しい農家に生まれたため、中学進学を断念し、津川尋常高等小学校高等科を卒業すると、家業の農業に従事した。

そのようななか、アメリカへ出稼ぎに行ったまま帰国しない父親に帰国を促す手紙を書いたところ、父親から「交通費は出してあげるから、アメリカへ来なさい」という返事が来た。

そこで、平川唯一は、ABCの英語も分らなかったが、17歳の時に兄と共にアメリカへと渡るのだった。

その後、平川唯一はシアトルの日本人向けの商店で働いていたのだが、日本人向け商店とは言ってもアメリカ人の客も来るので、英語が話せないと仕事にならないことを痛感し、思い切って商店を辞め、ハモンド家のスクールボーイ(書生)となり、小学校へと通い始める。

そして、8年制の小学校を3年で卒業すると、アメリカ人との日常会話が出来る程になっていたこともあり、高校への進学を勧められ、ブロードウェイ・ハイスクールした。

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雄弁大会

ブロードウェイ・ハイスクールでは、恒例行事として、歴史的な演説や小説の一節を効果的に力強く表現するかを競う「雄弁大会」が開かれていた。

ブロードウェイ・ハイスクールへ入学した平川唯一は、恒例情事として行われている「雄弁大会」を観て感心し、卒業までには雄弁大会に出場する事を決めて、英語の勉強に励み、4年生の時に雄弁大会にエントリーした。

そこで、平川唯一は毎晩9時になると、荒野の丘の上へ行き、大声で演説の練習をしていたのだが、ある日、警察に職務質問をされてしまう。

なんと、警察に「毎晩、丘の上でキチガイが叫んでいるので、なんとかして欲しい」という苦情の電話があったので逮捕しに来たというのだ。

そこで、平川は自分がブロードウェイ・ハイスクールの学生で、雄弁大会に出るためにスピーチの練習している事を説明すると、警察官はブロードウェイ・ハイスクールの卒業生だったので、「しっかり頑張りなさい。健闘を祈っている」と応援してくれた。

こうして、平川は逮捕を免れたが、翌朝、このときの事が新聞に掲載されたので、学校で同級生らから冷やかされて恥ずかしい思いをするのだった。

さて、雄弁大会には100人以上が参加したが、平川は丘でのスピーチの練習のせいかもあり、英語を母国語とする参加者達を押しのけて予選を突破し、決勝へ進出する5名に選ばれた。

さすがに、優勝は出来なかったが、審査員3人のうち1人が平川に投票してくれたので、平川は雄弁大会の結果に満足し、ブロードウェイ・ハイスクールを卒業すると、ワシントン大学へと進学するのだった。

平川唯一がワシントン大学へ進学」へ続く。

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