「サッポロ一番」を作ったサンヨー食品の実質的な創業者・井田毅(いだ・たけし)の生涯を描く即席ラーメン立志伝の後編です。
このページは「サンヨー食品の創業者・井田毅の立志伝」からの続きです。
日清食品の安藤百福(呉百福)は、国内の即席ラーメンの需要が頭打ちやサンヨー食品の台頭を受け、海外に活路を見いだすべく、昭和41年(1966年)に欧米視察に出ていた。
このとき、アメリカ・ロサンゼルスのスーパー「ホリデーマジック社」で、何人かのバイヤにチキンラーメンを試食してもらったところ、バイヤーはチキンラーメンを2つに折って紙コップに入れて湯を注ぎ、フォークで食べ始めた。
それを見た日清食品の安藤百福(呉百福)は、アメリカには丼と箸が無いという当たり前のことに衝撃を受けるとともに、容器に入った「カップヌードル」の発想を得て、カップラーメン「カップヌードル」の開発に着手した。
日清食品の安藤百福(呉百福)は、カップラーメンの試作品の販売までこぎ着けたが、この頃は発泡スチロールで食品の容器を作る技術が確立しておらず、容器を製造する技術的な問題から開発は頓挫した。
一方、サンヨー食品は「サッポロ一番」で快進撃を続けており、昭和45年(1970年)に明星食品を抜いて即席麺業界の第2位へ、昭和46年(1971年)には日清食品を抜いて業界トップへと躍り出た。
サンヨー食品の攻勢を受けた日清食品の安藤百福(呉百福)は、昭和44年12月からカップヌードルの開発を再開しており、昭和46年9月にカップラーメン「カップヌードル」を発売する。
しかし、袋入りの即席麺が35円なのに対して、カップヌードルは100円と高額だったこともあり、問屋から相手にされなかった。
そこで、日清食品の安藤百福(呉百福)は、通常の食品以外の販売ルートを模索し、消防署・遊園地・雀荘などに販路を求め、自衛隊・消防員・看護婦など夜勤の人たちを中心にカップラーメンの便利性が認められ、少しずつ売り上げを伸ばしていった。
そのようななか、昭和47年(1972年)2月に「浅間山荘事件」が発生する。このとき、極寒の中でモクモクと湯気が立ち上がるカップヌードルを食べる機動隊の姿がテレビで放送された。
この「浅間山荘事件」を切っ掛けに、カップヌードルは爆発的なヒット商品となり、日清食品は即席ラーメン業界トップとなったサンヨー食品に猛反撃をかけ、日清食品は昭和48年(1973年)に即席麺業界のトップに返り咲いたのだった。
日清食品のカップヌードルが大ヒットすると、各社はカップラーメンに参入するが、サンヨー食品は「サッポロ一番」で袋麺にシェアを持っていたので、カップラーメンには参入しなかった。カップラーメンは容器にコストかかっており、利益が小さかったのだ。
しかし、サンヨー食品の井田毅も、消費者や問屋からの要望を受けて、昭和48年(1973年)にカップラーメン「サッポロ一番スナック」の試験販売を開始し、昭和50年1月には「サッポロ一番カップスター」を発売、同年9月には「カップスター味噌味」を発売した。
発泡スチロールの容器だと日清食品に特許使用料を払わなくてはならないので、それを回するために「サッポロ一番スナック」は紙の容器を採用したが、容器に入れて販売するので、日清食品に「包み金」的なものを払ってカップラーンに参入したという。
なお、後にカップラーメンの容器から環境ホルモンが出ているという問題が浮上するのだが、サンヨー食品は紙製の容器を使用していたため、環境ホルモン問題の影響を受けなかった。
また、商品のフレッシュさをアピールするため、同時のトップアイドル・麻丘めぐみを起用し、「カップスター♪食べたその日から、味のとりこに、とりこになりました」というリズミカルなフレーズを採用したCMを流した。
このCMは、コカコーラのCMを参考にしたもので、コカコーラのCMを撮影したカメラマンを探し出して、CMを撮影した。
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昭和50年(1975年)1月に首都圏で「サッポロ一番カップスターしょうゆ味」を発売したサンヨー食品は、九州で袋麺のシェアをもっていたことから、次の発売場所を九州と決め、昭和50年9月に九州でも発売を開始する。
ところが、九州で「サッポロ一番カップスターしょうゆ味」を発売する直前になり、九州で最大の問屋「新生商事」が、日清食品の新製品「カップライス」の販売を優先させるとして、「サンヨー食品の袋麺は扱うが、カップラーメンは扱わない」と言ってきた。
新生商事の木元社長は、サンヨー食品の「サンヨー会」の会長も務めてくれるほど関係は良好だったが、日清食品に呼ばれて大阪の日清食品本社へ行き、大阪から帰ってくると、手のひらを返したのである。
さらに、九州の問屋20社が新生商事に追随して、サンヨー食品のカップラーメンは扱わないと言い出した。
販売を担当する弟・井田信夫は東京に居たが、九州に居た井田毅から連絡を受けて驚いて九州へ飛び、九州の問屋を1件1件回って新たな取引先の開拓に奔走する。
このとき、鹿児島県にある寿商事の穎川社長から「新生商事との取引を切るのか、切らないのか。ここを迷っているから、みんな悩むんだ」と決断を迫られた。
弟・井田信夫も新生商事との取引を解消しなければならないと考えていたが、新生商事との取引額は20億円もあり、取引解消を実行するのはもっと後のことだろうと考えていた。
しかし、弟・井田信夫は穎川社長の言葉に背中を押されて、カップスターを取り扱わない問屋とは袋麺も取引しないことを決断した。
そして、弟・井田信夫は問屋「新生商事」に乗り込んで、「ヤイ、山口の山猿、商人道に反したことをする会社は必ず潰れる。オレが潰すんじゃない。神様が潰すんだ」と言い放っち、20億円の取引を打ち切った。
(注釈:その後、新生商事は実際に潰れ、三井物産などの出資により、「サンセイ」として再建された。サンセイは三友食品に吸収された後、三井食品の九州支社となった。)
こうして、サンヨー食品は新生商事との取引20億円を失ったが、味方になってくれる問屋もあり、弟・井田信夫は九州の2次店・3次店を特約店に格上げして新たな販売ルートを構築し、わずか1ヶ月で新生商事との取引額の8割を回復することが出来た。
この一件は、水面下で日清食品との激しい争いがあり、「サンヨーの九州戦争」と呼ばれた。
さて、九州戦争が一段落すると、父・井田文夫は、協力してくれた問屋をねぎらうため、「九州サンヨー会」を開催することにして、福岡を訪れた。
このとき、将棋の升田幸三が九州サンヨー会で講演することになっていたので、父・井田文夫は博多の料理屋で升田幸三と一杯飲んで機嫌良く別れて、ホテル花屋に戻って眠った。
しかし、父・井田文夫は、そのまま目覚めること無く、脳卒中(脳溢血)で死去した。昭和50年10月23日のことである。
このため、「九州サンヨー会」は父・井田文夫の追悼式となった。
その後、専務の井田毅が、父・井田文夫の後を継ぎ、昭和51年(1976年)2月1日にサンヨー食品および関連会社の社長に就任し、弟の井田信夫が副社長に就任した。
サンヨー食品は後発組だったこともあり、東北で出遅れていた。東北で袋麺を発売していたが、シュアはほとんど無いという状態だった。
そこで、サンヨー食品はカップスターの発売を切っ掛けに、東北でのシェアを伸ばそうとした。
しかし、東北地方で「東北の三井物産」と呼ばれる東北随一の問屋が、カップスターを扱ってくれなかった。
この問屋で扱ってもらえないということは、東北では売れないと言うことを意味していた。
某社がサンヨー食品のカップラーメンを扱わないように、問屋に圧力をかけたり、売れで問屋にお金を渡したりしているという噂だった。
困り果てた弟・井田信夫は、酒問屋「国分商店」の販売ルートを使わせてもらい、東北でカップスターを売り込んだが、国分商店は酒の販売ルートはあっても、食品の販売ルートは貧弱だった。
そのようななか、弟・井田信夫は、東北随一の問屋で絶大なる権力を持つ専務と交渉を続けていると、専務は同業他社の要請でカップスターを扱わないだけで、専務がサンヨー食品に敵意を持っているわけでは無いことに気づいた。
そこで、弟・井田信夫は、この問屋が製造している酒に目を付けた。
実は、この問屋は酒造部門を持っており、酒造も手がけていたのだが、問屋が作った酒はあまり売れていなかった。
さいわい、サンヨー食品は酒造販売「泉屋酒店」を持っている。
そこで、弟・井田信夫は問屋が製造した酒を仕入れる代わりに、安売りなどの妨害工作をしないという期間限定の紳士協定を持ちかけ、紳士協定を取り付けたのである。
問屋の専務は紳士協定を守って安売りなどを行わず、サンヨー食品はその間に、国分商店の販売ルートを使って販路を開拓していき、最終的には東北随一の問屋を超える販売ルートを確立し、東北でも台頭したのだった。
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即席麺業界は小麦の値上げと昭和48年の第1次オイルショックなどの影響を受け、昭和50年代に入ると不況に苦しんだが、サンヨー食品は攻勢に出た。
即席麺の輸出は早い段階から行われており、サンヨー食品も「長崎タンメン」を発売した翌年の昭和35年から即席麺の輸出を開始していたが、円高の影響もあり、サンヨー食品は昭和53年(1978年)にアメリカのカリフォルニアに現地法人を設立し、翌年の昭和54年から現地生産を開始する。
既に日清食品と東洋水産がアメリカに進出しており、アメリカで激しく争っていたが、サンヨー食品はこの争いに加わらず、アメリカ人ではなく、アメリカに住むアジア人をターゲットにした。
このころ、アメリカでもインスタントラーメンの激しい値下げ競争があり、非常に低価格でヤスリされたため、インスタントラーメンはアメリカで低所得者の食べ物として定着したという。
しかし、サンヨー食品の井田毅は、アメリカでも味を落とさずに高品質を求めたため、安売りはせず、販売価格を維持した。
このため、アメリカでのシェア争いには加われなかったが、コアなファン層を取得して黒字経営を続けた。
エースコック(エース食品)は、「ぶた、ぶた、こぶた」のCMや即席麺の大判100gを投入して数々のブームを作り、即席ラーメン業界の大手5社に食い込んでいたが、不動産投資の失敗から経営難に陥っていた。
このため、エースコックの創業者・村岡慶二は、他社に支援を要請したが、いずれも支援の条件としてエースコックの創業家・村岡家の総退陣を求めたため、合意に至らなかった。
そこで、エースコックの創業者・村岡慶二は困り果てて、ライバルのサンヨー食品の井田毅に相談すると、井田毅は創業者・村岡慶二の続投と支援を約束し、昭和56年(1981年)7月にサンヨー食品がエースコックの発行株式6割を取得してエースコックを傘下に収めた。
サンヨー食品の井田毅は、役員は送っても、経営には口を出さず、創業者・村岡慶二にエースコックの経営を任せた。
その後、エースコックは「わかめラーメン」や「スーカーカップ」を投入して立ち直り、黒字転換を果たした。
また、サンヨー食品は、袋麺は強いが、カップラーメンは弱い。一方、エースコックはカップラーメンが強かった。
このため、サンヨー食品はエースコックを得たことにより、カップラーメンを強化することができ、ラーメン王の日清食品を追撃する準備を整えたのだった。
昭和56年(1981年)の10月に明星食品が高級即席麺「中華三昧」を発売した。
「中華三昧」の大ヒットで、即席ラーメン業界では高級即席麺が起きており、サンヨー食品も昭和58年(1983年)1月に高級即席麺「桃李居」を発売した。
また、サンヨー食品は昭和58年に「サッポロ一番ほたて味ラーメン」を発売。安岡力也が「ホタテマン」に扮したCMが話題となった。
また、昭和58年8月に高松宮親王がサンヨー食品の工場を視察した際に、高松宮親王は「聞いただけでは分からない」と言い、「サッポロ一番ほたて味ラーメン」を試食した。
さらに、袋麺の王者として君臨するサンヨー食品の井田毅は、さらなる売り上げを求めて昭和63年(1988年)に袋麺5食パック入りを考案して販売を開始する。
この袋麺5食パック入りは大ヒットし、他社も追随して5パック入りが定着した。現在でも袋麺の売り上げのほとんどは5食パック入である。
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昭和39年(1964年)に吉本興業が西日本最大級のボーリング場「ボウル吉本」をオープンし、昭和40年代にボーリングブームを起こした。
サンヨー食品はこのボーリングブームに便乗して、昭和46年(1971年)に群馬県前橋市で北関東最大のボーリング場「前橋スターボウル」をオープンした。
「前橋スターボウル」はボーリングブームの下火により撤退したが、サンヨー食品の井田毅はレジャー産業への興味を示し、レジャー産業へ再進出するチャンスを虎視眈々と狙っていた。
さて、世間ではゴルフブームが到来し、接待ゴルフの全盛期を迎えていたが、サンヨー食品の井田毅は、金がかかるという理由でゴルフをやらず、社員にもゴルフを禁じていた。
しかし、得意先との関係もあり、接待ゴルフを禁じられては売り上げにも影響するため、営業の幹部は一件を案じて、井田毅と公私ともに交流のあるデザイナー竹村俊彦に相談を持ちかけた。
竹村俊彦はゴルフが好きだったので、この相談を受けて、昭和56年の秋に井田毅を誘ってゴルフに行くと、井田毅は好成績を出したことから、ゴルフが気に入った。
井田毅がその場で「このゴルフ場はいくらで買えますか」と尋ねるたので、キャディーは会員権のことだと思ったのだが、井田毅が聞いたのはゴルフ場の値段というほどの気に入りようである。
それから間もなくして、市原ゴルフクラブの経営母体である大昭和製紙が経営難に陥り、銀行側がサンヨー食品に市原ゴルフクラブの売却を持ち込んできた。
そこで、サンヨー食品の井田毅は、昭和57年(1982年)7月に80億円で市原ゴルフクラブを買い取り、市原ゴルフ倶楽部を設立し、ゴルフ場の経営に乗り出した。
さらに、平成2年(1990年)6月にサンヨーリゾート(株)を設立し、平成2年9月にはアメリカのヨーバ・リンダカントリークラブとローマス・サンタフェカントリークラブを買収した。
サンヨー食品の多角経営は進んでおり、平成3年(1991年)8月に富岡ゴルフ倶楽部をオープンしたが、サンヨー食品の社長・井田毅は、体調が悪化しており、富岡ゴルフ倶楽部をオープンした直後に大腸癌の手術を受けた。
井田毅の長男・井田純一郎は、サンヨー食品を継ごうとは考えておらず、7年前に富士銀行に就職しており、富士銀行で課長代理まで出世していたが、父・井田毅が大腸癌で手術すること知り、富士銀行を辞めてサンヨー食品に入社することを決めた。
井田毅は大腸癌の手術に成功して回復したので、長男・井田純一郎は銀行を辞めるのが少し早かったかもしれないと後悔したが、予定通りに富士銀行を辞め、平成4年(1992年)4月にサンヨー食品に入社し、社長室室長に就任した。
さて、回復したサンヨー食品の社長・井田毅は、平成5年にアメリカのタスチン・ランチゴルフクラブを購入したが、バブル崩壊後の不況が長引くと見ると、多角経営の方針を一転して、計画していた事業を中止した。
バブル崩壊後の長引く不況の影響でゴルフ場は次々と倒産していったが、サンヨー食品は潤沢な資金があり、銀行からの融資を受けていなかったこことや、バブル崩壊で土地に値段が下がっていた時にゴルフ場を購入していたことなどもあり、買収したゴルフ場の経営は安定した経営を続けた。
バブル期に開業したゴルフ場が預託金を返還できずに次々と返還訴訟を起こされる中でも、サンヨー食品のゴルフ場は約束通りに預託金を返還して大きな話題となった。
長引く不況の中でも、サンヨー食品の社長・井田毅は、攻めの姿勢を崩さず、平成6年(1994年)1月に「5カ年計画」を発表した。
サンヨー食品は経営破綻した岐阜県の菓子メーカー「日東あられ」を支援しており、井田毅は5カ年計画の一環として、平成6年に「日東あられ」の経営権を引き継いで「日東あられ新社」を設立し、社長に就任した。
「日東あられ新社」は越後製菓と業務提携して新商品を投入していたが、経営赤字が解消されず、平成23年(2011年)に倒産した。
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バブル崩壊後の長引く不況を背景に、サンヨー食品の社長・井田毅は、中国への進出を決断した。
長男・井田純一郎がプロジェクトリーダーとなり、サンヨー食品・丸紅・大連第三糧食儲運工業公司の3社で、平成7年(1995年)2月に「大連三洋食品有限公司」を設立した。
そして、最新鋭の設備を導入した工場を建設し、平成8年(1996年)4月に即席麺「三宝楽一番」を発売した。
「三宝楽」は「サッポロ」の当て字で、発音すると「サッポロ」に聞こえるため、「札幌」ではなく「三宝楽」の当て字を好んで使う例が多い。
しかし、既に各国の企業が中国に進出しており、中国の即席ラーメン業界は飽和状態だったうえ、台湾系メーカー「頂益」の即席麺「康師傅(カンシーフ)」が爆発的な人気で即席ラーメンの絶対的な王者として君臨していたため、問屋はサンヨー食品の「三宝楽一番」を扱ってくれなかった。
社員の努力によって徐々に販路を広げていったが、サンヨー食品の社長・井田毅は、期待していた成果は1桁違うと言い、早々に中国からの撤退を決断した。井田毅は「見切り千両」と言っており、驚くほどに撤退の決断が早かった。
しかし、商社として様々な事業を抱える丸紅は、国企業との関係を悪化させたくないため、簡単に会社を清算するという分けにはいかなかった。
そこで、交渉の末、「大連三洋食品」の工場を中国の即席ラーメン王者「頂益(後の康師傅)」に譲渡するとにより、サンヨー食品はわずか1年で中国市場から撤退した。
中国事業は失敗したが、中国の即席ラーメン王者「頂益(康師傅)」とつながりが出来たことは、後にサンヨー食品の運命を左右することになる。
サンヨー食品の社長・井田毅は、平成10年(1998年)2月にゴルフ中に体調を悪化させ、前橋赤十字病院に緊急入院したが、肺炎の一種としか分からず、体調は悪化の一途をたどり、このまま死ぬかと思われた。
そこで、義父に専門医を紹介してもらい、平成10年3月に聖路加国際病院へ転院して検査すると、問質性肺炎と判明し、ステロイド投与により、ようやく回復し始めた。
流石のサンヨー食品の社長・井田毅も、一時は死を覚悟したことから、生きているうちに社長を引き継いだ方が円滑に進むと考え、平成10年6月の株主総会で任期満了による辞任を宣言し、後任の社長として長男・井田純一郎を指名した。
社長指名は全役員に受け入れられ、長男・井田純一郎がサンヨー食品の社長に就任。井田毅は会長には就かずに、相談役へと退き、自分が会社に居るとやりにくいだろうと考え、会社にも出社せず、長男・井田純一郎にサンヨー食品を任せた。
また、副社長として井田毅を支えてきた弟の井田信夫も、これを機に相談役へと退いた。
なお、井田毅は社長時代に袋麺「サッポロ一番」のカップラーメン化を指示しており、社長退任後の平成10年11月に井田毅の置き土産となる「サッポロ一番どんぶり」が発売された。
「サッポロ一番どんぶり」は、平成11年(1999年)に日本食糧新聞社の食品ヒット大賞・優秀ヒット賞に選ばれた。
平成11年4月に、中国の即席ラーメン王者「頂益(現在の康師傅=カンシーフ)」が経営危機に陥って、ライバル企業の「統一」と資本提携するというニュースが飛び込んできた。
サンヨー食品は、以前に中国進出で失敗しており、中国から撤退するときに工場を「頂益(康師傅)」に譲渡していたので、「頂益(康師傅)」とはコネクションがあった。
そこで、井田毅は「頂益(康師傅)」にニュースの真相を問い合わせると、「統一」との資本提携はまだ決まっていなかった。
「統一」は支援と引き換えに「頂益(康師傅)」の経営権の譲渡を要求したため、資本提携は暗礁に乗り上げており、「頂益(康師傅)」はサンヨー食品からの問い合わせを歓迎して、話を聞いてもらえることになった。
井田毅はサンヨー食品を長男・井田純一郎に任せて相談役へと退いていたが、このチャンスを迎えて戦線に復帰し、長男・井田純一郎とともに陣頭指揮を執った。
そして、エースコックを傘下に収めた時と同じように、経営権は「頂益(康師傅)」に残すという方法で、「頂益(康師傅)」の株式を170億円で買い取り、「頂益(康師傅)」の共同経営者となった。
「頂益(康師傅)」は直ぐには再建できず、サンヨー食品は翌年に30億円を追加投入したが、その後は消費回復の追い風もあり、翌年に黒字転換を果たした。
なお、中国の「頂益(康師傅)」は平成14に社名を変更し、ブランド名の「康師傅(カンシーフ)」を社名にした。中国経済の発展とともに業績を拡大し、平成22年11月にはペプシコーラ中国法人を傘下に収めた。
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ながらく、日清食品の安藤百福が業界団体「日本即席食品工業会」の理事長を務めていたが、平成元年(1989年)5月に井田毅が安藤百福の後を継いで「日本即席食品工業会」の理事長に主任する。
また、平成元年9月にはサンヨー食品が農林水産大臣賞に選ばれ、平成2年11月には井田毅が「藍綬褒章」を受章した。
平成11年(1999年)5月には日本即席食品工業協会の2度目の理事長に就任。井田毅はラーメン業界の残した数々の功績が認められ、平成12年(2000年)4月に「勲四等瑞宝章」を受章した。
こうした数々の功績から、日清食品の安藤百福が「ラーメン王」と呼ばれるのに対して、井田毅は「東のラーメン王」と呼ばれた。
井田毅は、長男・井田純一郎にサンヨー食品の社長を譲って相談役に退いた後も、ゴルフ場や泉屋酒店の社長を続ける一方で、日本即席食品工業協会の理事長を務め業界のために働いた。
また、井田毅は、趣味の油絵に取り組み、計4回の個展も開催し、画文集も出版した。
そのようななか、井田毅は、平成23年(2011年)にエースコックとの提携30周年記念祝賀会に出席したが、祝賀会の後に体調を悪化させる。
平成10年に発症した問質性肺炎は完治せず、薬で押さえていただけで、81歳という高齢もあり、薬で抑えることに限界が来たのだ。
その後、井田毅は入退院を繰り返した末、平成25年(2013年)8月20日に聖路加国際病院で家族に見守られながら息を引き取って死去した。死因は肺炎。83歳だった。死後、正六位に叙せられた。
なお、サンヨー食品の国内シェアは日清食品・東洋水産に次ぐ3位だが、中国の「康師傅(カンシーフ)」を有しており、サンヨーグループの世界シェアは推定1位と言われている。
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