サンヨー食品の創業者・井田毅の立志伝

サンヨー食品の実質的な創業者で、「東のラーメン王」と呼ばれた井田毅(いだ・たけし)の生涯を描く即席ラーメン立志伝です。

井田毅の立志伝

井田毅の画像井田毅(いだ・たけし)は、昭和5年(1930年)1月13日に群馬県佐波郡玉村町で、老舗の酒屋「井田酒造」を営む井田家の井田文夫の長男として生まれた。母は井田きくである。

井田家は、宝永2年(1705年)から続く老舗の酒造メーカー「井田酒造」を営む地元の名士である。

父・井田文夫は井田金七の6男(7人兄弟の6番目)で、長男が家督を継いだが、家族総出で働いており、実質的に井田酒造を経営していたのは父・井田文夫だったという。

一方、母・井田きくは、群馬郡箕輪町の箕輪城で城代家老を務めた名門・下田家の出身である。

さて、井田酒造は井田毅が生まれた昭和5年(1930年)に昭和恐慌という不況見舞われて経営が傾いており、父・井田文夫は新天地を求めて分家し、昭和8年(1933年)に群馬県前橋市千代田町で酒造販売「泉屋酒店」を開業した。

このころ、組合で酒の値引き販売はしないという約束があったが、父・井田文夫は新参者が普通に商売をしていても勝てないと考え、値引き販売はしないという組合の約束を無視して、安売りをした。

このため、泉屋酒店は組合から除名されるが、問屋は組合とは関係なく取引を続けており、この安売りが大当たりして泉屋酒店は繁盛した。

このころ、父・井田文夫は「甘い物には蟻がたかる。安い物には人がたかる」と口癖のように言っていた。

その後、泉屋酒店は戦時中の日本酒の生産統制や配給制の影響で事業の縮小を余儀なくされたうえ、空襲で焼失してした。戦後にいち早く復旧して営業を再開するが、食糧難の時代なので、酒を製造する米が無く、泉屋酒店の経営は苦しかった。

さて、井田毅は前橋市立桃井小学校か時代に、足が遅かったが、運動会の予選で、なんどか1位になったことがある。

その秘訣は「ようーいドン」の合図を聞いてから走り出すのではなく、「ようーいドン」の合図とともに走り出すことだった。

井田毅は、このときの経験は商売にも通じるとして、「先んずれば人を制す」という経営方針を採ることになる。

さて、井田毅は、前橋市立桃井小学校から、高等小学校を経て前橋商業高校へ進学しており、戦後は進学するような時代では無かったが、父・井田文夫の勧めにより、巣鴨経済専門学校(千葉商科大学)へ進学した。

井田毅は、叔父の家から巣鴨経済専門学校(千葉商科大学)に通ったが、食糧不足という時代だったため、叔父の家に居づらくなり、前橋の実家に戻って、実家から片道4時間かけて巣鴨経済専門学校(千葉商科大学)に通った。

しかし、片道4時間の通学が毎日出来はずがなく、興味のある統計学・経済英語・経済原論の授業だけ出席して、大学に行かない日は泉屋酒店で働いた。

そして、巣鴨経済専門学校(千葉商科大学)を卒業後は、泉屋酒店の経営を意識して働くようになる。

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サンヨー食品の創業とチキンラーメン
戦後、バーやキャバレーなどの登場により、泉屋酒店は業績を回復し、北関東で最大の酒販売店へと成長したが、飲食店は夜逃げも多いので、取引先が増えても、貸し倒れも多く、井田毅は酒販売業の未来に不安を感じていた。

そのようななか、義理の兄・細渕久雄が乾麺事業を廃業するので譲りたいという申し出があり、井田毅と父・井田文夫は乾麺事業を継承する形で、昭和28年(1953年)11月30日に群馬県前橋市新町(前橋市朝日町)で富士製麺を創業し、泉屋酒店に平行して乾麺の製造を開始した。

この富士製麺が後のサンヨー食品で、父・井田文夫が社長を務め、井田毅が専務を務めた。

さて、乾麺製造の方は技術者を引き継いでいたので、問題は無かったが、元々、義理の兄・細渕久雄が乾麺事業を廃業しようというほどなので、販売の方は思わしくなかった。

日本三大うどんは香川県の「讃岐うどん」、秋田県の「稲庭うどん」、群馬県の「水沢うどん」と言われており、群馬県は日本でも有数のうどんの産地で、乾麺の激戦区だったのである。

そこで、井田毅は、新潟から来た杜氏(酒蔵の製造責任者)がうどんをご馳走だとありがたがって食べていたことから、新潟へと進出して、新潟県で販路を開拓することに成功した。

その後も品質向上にも努め、富士製麺を軌道に乗せ、昭和30年(1955年)には富士製麺を株式会社へと発展させた。

さらに、昭和32年(1957年)には新工場と本社を建設して、富士製麺は群馬県でも1位・2位を争う乾麺製造業者へと成長するが、乾麺の製造は手作業だったため、井田毅は手作業の乾麺製造業にこれ以上の発展は無いと考え、新たな事業を模索するのだった。

そのようななか、昭和33年に井田毅は新聞で、日清食品の安藤百福(呉百福)が販売する即席麺「チキンラーメン」のことを知る。

呉百福(安藤百福)は、大阪に住む在日台湾人で、戦後、戦勝国民(連合国民)となって財を成し、「日本一の大金持ち」と呼ばれた大富豪だが、理事長を務めていた華僑向け信用組合「大阪華銀」を倒産させて全財産を失った。

しかし、呉百福(安藤百福)は、事業意欲を失っておらず、即席麺「チキンラーメン」を開発して、昭和33年8月25日に「チキンラーメン」の販売を開始すると、チキンラーメンは、お湯をかけると2分で出来る「魔法のラーメン」として話題となった。

新聞でチキンラーメンのことを知った井田毅は、取引のある製粉大手「日清製粉」に頼んでチキンラーメンを取り寄せた(注釈:日清食品と日清製粉に関係は無い)。

うどん1玉6円、中華そば1杯40円という時代に、「チキンラーメン」は35円(現在の価格で500円)と高価だったが、井田毅はチキンラーメンを食べて将来性を感じた。

そこで、井田毅は即席麺事業の開始を家族に相談したが、家族は即席麺に理解を示さず、即席麺事業に反対し、酒販売「泉屋酒店」と乾麺製造「富士製麺」に専念するように言ったのだった。

インスタントラーメンに参入

日清食品の安藤百福(呉百福)が「チキンラーメン」を発売して以降、続々と即席麺業者が誕生しており、乾麺大手の明星食品も、昭和35年(1960年)1月に「明星味付ラーメン」を発売して即席麺に参入した。

さらに、昭和35年8月に森永製菓が日本初の国産インスタントコーヒーを発売したことにより、本格的なインスタントブームが到来し、「インスタント」という言葉が使用されるようになる。

即席麺が「インスタントラーメン」と呼ばれるようになるのは、森永製菓が日本初の国産インスタントコーヒーを発売して以降のことである。

このようななか、群馬県の乾麺業者が続々と即席麺(インスタントラーメン)に参入しており、即席麺の参入に反対していた家族も態度を軟化させていた。

そこで、井田毅は、東京の東京の酒問屋「太田商店」に修行に出ていた弟・井田信夫と話し合い、井田毅が製造を担当し、弟・井田信夫が「富士製麺」に戻ってきて販売を担当するということで、昭和35年に即席麺への参入を決定し、即席麺の研究を開始するのだった。

サンヨー食品に社名変更した理由

妻の井田喜代子にスープ作りを担当してもらい、井田毅は試行錯誤の末に即席麺を完成させると、昭和36年(1961年)4月に即席麺の製造を開始した。

当初はブラド名も無く、日清製粉から小袋を買ってきて、それに即席麺を詰めて売り歩いたが、無名だったので全く売れなかったので、父・井田文夫はひっくり返ってしまった。

父・井田文夫は「こんな物を始めなくても、俺たちは食っていけるんだ」と怒り、即席麺には関わらなくなったので、その後は弟・井田信夫が1人で販売を引き受けた。

即席麺は全く売れないが、既に工場は作ってしまっているので、井田毅らは、大手の下請けとなって生き残る道を模索した。

さて、即席麺に新規参入する水産加工「日魯漁業(ニチロ)」は、華僑が経営する即席麺業者「第一食品」との提携が内定していたが、正式契約には至っていなかったので、弟・井田信夫は熱心に営業して状況をひっくり返し、日魯漁業(ニチロ)との契約を取り付けた。

こうして、富士製麺は、日魯漁業(ニチロ)の下請けメーカーとして、「あけぼのラーメン」の製造を開始する。日魯漁業(ニチロ)は全国区なので、驚くほどの注文が来た。

設備投資に金が要るので、足利銀行に頼みに行ったが、足利銀行は貸してくれなかったので、群馬銀行から借りた。

ところで、当時、群馬県高崎市に華僑が経営する富士製麺という同じ名前の製麺所があり、高崎市の富士製麺も即席麺「ダルマラーメン」を製造していた。

しかし、井田毅らの富士製麺の方が大きくなってくると、高崎市の富士製麺に宛てた郵便まで、こっちに回ってくるようになってしまった。

そこで、井田毅は、昭和36年(1961年)7月に「サンヨー食品」という社名に変更した。

サンヨー食品というのは、太平洋・大西洋・インド洋の三洋を股にかけて活躍するという願いを込めているが、実際は「山陽特殊鉄鋼」「三洋電機」など「サンヨー」が付く会社は大きいということで、有名会社にあやかって「サンヨー」と名付けた。

なお、サンヨー食品(富士製麺)の創業者は社長である父・井田文夫だが、即席麺へ参入した経緯から、サンヨー食品の実質的な創業者は井田毅と弟・井田信夫と言われる。

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即席麺の特許騒動

サンヨー食品は日魯漁業(ニチロ)の下請けになるため、工場を建設したが、日魯漁業(ニチロ)からの注文は1ヶ月後にピタリと止まってしまう。

これでは工場を維持できないため、サンヨー食品は新たな販路を切り開くために奔走するのだった。

このころ、即席麺業界は製造特許を巡る争いが激化しており、昭和37年(1962年)7月に日清食品が中心となる「全日本即席ラーメン協会」、エース食品(エースコック)系の「日本即席ラーメン協会」が発足し、昭和37年8月には大和通商系の「全日本即席ラーメン工業会」が発足した。

サンヨー食品の井田毅は、日清食品の安藤百福(呉百福)が中心となって設立した「全日本即席ラーメン協会」に参加した。

さらに、サンヨー食品の井田毅は、発起人となって昭和37年9月に「北関東即席ラーメン工業協会」を設立し、北関東の業者間で過度な競争の自粛や品質の向上に努めた。

なお、即席麺業界で起きた泥沼の特許紛争は、日清食品の安藤百福が制し、安藤百福は昭和39年(1964年)6月16日に主要メーカー56社が参加する「日本ラーメン工業協会」を設立して業界一本化を実現し、会長に就任した。

ピヨピヨラーメン事件

さて、サンヨー食品は即席麺中堅の日魯漁業(ニチロ)の下請けとなっていたが、日魯漁業(ニチロ)は即席麺が本業ではないため、即席麺に力を入れておらず、サンヨー食品の井田毅は日魯漁業(ニチロ)の下請けに限界を感じていた。

そこで、サンヨー食品の井田毅は、即席麺大手の明星食品に下請け契約を持ちかけるが、明星食品の社長・奥井清澄から今後のことを考えて自分で販売することを勧められた。

このため、井田毅は自社ブランド製品を販売することを決めて研究を開始し、昭和38年(1963年)7月にサンヨー食品のオリジナル商品として味付け麺「ピヨピヨラーメン」を発売した。

「ピヨピヨラーメン」というのは、当時のラジオ番組「ピヨピヨ大学」から取って名付けた。チキンラーメンが鶏なら、こちはヒヨコだという意味も含まれていた。

さて、サンヨー食品の井田毅は、「サンヨーラーメン」の失敗を踏まえて宣伝が大事だと痛感し、爪に火をともして貯めた5000万円のうち、事業資金と運転資金を引いた残りの3000万円を全額投じて、歌手・楠トシエを起用したテレビCMを開始する。

ところが、「ピヨピヨ大学」は旭化成が提供するラジオ番組で、「ピヨピヨ」というのは旭化成の商標だったため、旭化成が「ピヨピヨ」の使用を中止するように言ってきた。

そこで、井田毅は「サンヨーラーメン」という名前に差し替えて即席麺を販売を継続し、その間に旭化成と話し合った。

その結果、旭化成の販売する化学調味料「旭味(あさひあじ)」を仕入れるという条件で、「ピヨピヨラーメン」の使用を許可してもらった。商標の使用料などは無かったという。

さて、一般的な即席麺が1袋35円という時代に、「ピヨピヨラーメン」は量を減らして1袋20円にして安さで勝負し、小売店に対する特売や景品を付けた。

こうした過剰な特約は後に独占禁止法で規制されるのだが、このときは規制が無く、サンヨー食品は温泉旅行に招待するなどの豪華な懸賞を付けて特約店を増やしていった。

こうして、北関東と甲信越地方で成功した「ピヨピヨラーメン」は、東京へと進出。即席麺に理解のある愛媛県の削り節製造大手「ヤマキ」の販売部門「東京ヤマキ」と契約して東京への販路も確立するのだった。

長崎タンメンで躍進

サンヨー食品は、低価格とCM効果で「ピヨピヨラーメン」を大ヒットさせて中堅メーカーに躍進した。乾麺事業まで手が回らず、乾麺事業を断念するほどの忙しさだった。

しかし、一般的な即席麺が35円だったのに対して、「ピヨピヨラーメン」は20円という低価格だったこともあり、二流という意識があった。

このため、サンヨー食品の井田毅は「ピヨピヨラーメン」の大ヒットに満足しておらず、「35円という同じ価格帯で勝負しないと一流には成れない」と考えていた。

そこで、サンヨー食品の井田毅は、新商品を開発するために、ラーメンを食べ歩いた。

すると、ラーメン1杯50円だったのに対して、野菜やエビを入れたタンメンは80円と高価だったが、タンタンメンは懐に余裕がある客に人気があることが分かった。

即席麺業界は、昭和37年4月に明星食品が麺とスープを分けたスープ別添付方式の「支那筍入り明星ラーメン」を発売して以降、スープ別添付方式へ移行しており、様々な味の即席ラーメンが作られるようになっていたが、ほとんどが醤油ベースの味だった。

このため、サンヨー食品の井田毅は、タンメンなら塩味なので勝負できると考え、新商品の開発取りかかり、昭和39年(1964年)8月に「長崎タンメン」を発売した。

「長崎タンメン」という名前は、「長崎ちゃんぽん」に便乗して名付けただけで、長崎県に関係があるわけではない。

さて、「長崎タンメン」は、即席麺で初の塩味ということに加え、即席麺業界で初めてパッケージにカラー印刷を採用した。人気タレントを起用したCMの効果もあり、爆発的に売れ、商品が仕入れられないことから、小売店からは「幻のラーメン」と呼ばれた。

このころ、即席麺業界は需要が頭打ちして激しい値引き合戦が行われており、即席麺業者は疲弊していたが、「長崎タンメン」は塩味だっため、サンヨー食品は過激な競争の影響を受けずに業績を伸ばし、昭和39年(1964年)9月に東京営業所を開設した。

さらに、昭和40年(1965年)1月には大阪営業所を開設し、商社「丸紅飯田」と提携して、日清食品のお膝元である大阪へと進出した。

大阪は即席麺の激戦区で、日清食品を筆頭に大小様々な業者が乱立していたが、サンヨー食品の「長崎タンメン」はライバルの居ない塩味ということもあって大阪でも大ヒットし、日清食品・明星食品・エースコックと並ぶ4大メーカーに躍進した。

さらに、サンヨー食品の「長崎タンメン」は、昭和40年(1965年)8月に東京でシェアトップとなった。

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長崎タンメン事件

日清食品のチキンラーメンは、かつて、チキンラーメン製造業者から「チキンラーメンは、チキンライスと同じで普通名称に過ぎない」として反論され、相当に苦しんだことがあったが、今度はサンヨー食品の「長崎タンメン」が苦しむことになった。

サンヨー食品の「長崎タンメン」が大ヒットすると、「長崎タンメン」の類似品「ゴールド長崎タンメン」など、名前だけでなく、パッケージまで模倣した商品がスーパーに並ぶようになった。

そして、「長崎タンメン」はサンヨー食品のヒット商品だったので、類似品の苦情までサンヨー食品に届くようになった。

そこで、サンヨー食品の井田毅は類似品対策を取るのだが、「長崎タンメン」は地名と一般名称の組み合わせなので商標が取れないため、不正販売防止法などを使い、類似品を1つ1つ潰していった。

「ゴールド長崎タンメン」を製造する業者は、長崎は地名であり、タンメンも普通名称に過ぎないので、「長崎タンメン」も普通名称に過ぎないと反論したが、サンヨー食品の主張が裁判で認められ、「長崎タンメン」の類似品は淘汰されていった。

ダイエーとの対立

関西ではスーパー「ダイエー」が安売りで快進撃を続けており、サンヨー食品もダイエーに即席麺を卸していたのだが、ダイエーがあまりにも安く販売するので、「そんなに安く売ったら、他のお店が売れなくなる。他の商店も生活している」と安売り中止を申し入れた。

しかし、ダイエーは「これが中内イズムだ」「いくらで売るかは売り手の勝手だ」と言って一切取り合わなかったうえ、サンヨー食品に取引中止を通告し、店頭に「長崎タンメンは当店には置いていません」という張り紙を出した。

サンヨー食品も勢いに乗るダイエーに置いてもらえなくては困るので、どうにかして置いてもらおうと思い、ダイエーの周りにある商店などで即席麺の特売を仕掛けた。

このころ、サンヨー食品の「長崎タンメン」が飛ぶように売れていたのに、ダイエーにはサンヨー食品の即席麺が置いてないので、ダイエーも困ったのだろう。

1ヶ月もしないうちに、ダイエー側から即席麺を取り扱いたいと言ってきたので、周辺の小売店と協調して売るように言い、取引を再開した。

サッポロ一番の誕生

即席ラーメン業界は、チキンラーメンの発売から右肩上がりで成長を続けてきてが、昭和39年ごろから、需要が頭打ちして生産過剰となり、過度な安売り合戦が行われていた。

このようななか、昭和39年(1964年)の東京オリンピックが終了すると、急激に経済が悪化し、「40年不況」が訪れる。昭和40年(1965年)には、山崎豊子の小説「華麗なる一族」のモデルとなる山陽特殊鉄鋼も倒産した。

即席ラーメン業界は、大手メーカーと中堅メーカーでシェア9割を占め、残りの1割を弱小メーカーがひしめき合うという過酷な状況で、不況や安売り合戦の末、体力の無い弱小メーカー約100社が倒産。昭和40年12月には中堅メーカーの永安食品・日本製麺・日産食品までもが倒産するという事態に至っていた。

このころの即席麺の主流は醤油ベースの味だったが、サンヨー食品の「長崎タンメン」は塩味だったため、激しい値引き合戦に巻き込まれず、即席麺業界の不況を尻目に台頭して、昭和40年8月には東京のシェアトップに踊り出た。

しかし、「長崎タンメン」は塩味だったがゆえに、市場規模が小さく、需要が一巡すると、売り上げは頭打ちとなった。

塩味の需要に限界を感じたサンヨー食品の井田毅は、タンメンブームは一過性のもだと考え、主流の醤油ベースの味で勝負しなければならないと思った。

さて、雑誌「暮しの手帖」の編集長・花森安治が札幌ラーメンを紹介したことを切っ掛けに、札幌ラーメンが広まり、雑誌でも頻繁に札幌ラーメンが取り上げられていた。

当時の札幌ラーメンは醤油味が多かったので、サンヨー食品の井田毅は札幌ラーメンをインスタント化することを思いつき、札幌ラーメンを食べ歩き、新商品を開発した。

そこで、社内公募で名前を募集すると、「札幌ラーメン」というのが圧倒的で、2番目が「ラーメン一番」「一番ラーメン」だった。

一方、サンヨー食品の井田毅は、「ゴールド長崎タンメン」などの類似品に悩まされた時の反省を踏まえて、「地名+ラーメン名」では商標が取れないため、札幌の「五番館」をヒントにして、「サッポロ一番館」から「サッポロ五番館」までを候補に挙げた。

そこで、最終的に井田毅は、「サッポロ一番」というブランド名に決めた。「札幌一番」ではなく「サッポロ一番」にしたのは、若者は漢字よりもカタカナだろうという理由だった。

こうして、サンヨー食品は、昭和41年(1966年)1月に「サッポロ一番しょうゆ味」を発売した。

包装は防湿性の低いセロハンを止めてポリエステルのフィルムを採用し、デザインも5色刷から7色刷へと変更して、よりカラフルにした。ドリフターズを起用したテレビCMを流して宣伝にも力を入れた。

ところが、「サッポロ一番しょうゆ味」は、予想を遙かに下回る売れ行きだった。

原因を調べてみると、東京ではスーパーが台頭し始めており、消費者は個人商店からスーパーへと流れていたのだが、東京のスーパーのほとんどが「サッポロ一番しょうゆ味」を取り扱っていなかったことが判明する。

そこで、スーパーに「サッポロ一番」を置いてもらうため、「スーパー作戦」と名付けて、スーパーに営業をかけると、東京の8割のスーパーに「サッポロ一番」を置いてもらうことができ、一気に注文が増えるようになった。

こうしてサンヨー食品は、「サッポロ一番しょうゆ味」「長崎タンメン」を主力にして本格的に全国展開を開始。昭和41年8月には奈良県に関西工場を完成させた。

対する大手メーカーは、醤油味に進出して来たサンヨー食品を警戒して、明星食品は昭和41年9月に「明星チャルメラ」を発売、日清食品も昭和41年に「和風チキンラーメン」を発売し、昭和43年2月に「出前一丁」を発売した。

また、日清食品は「日清焼そば」、エースコックは「焼そば」、明星食品は「明星焼そば」、東洋水産は「マルちゃん焼そば」と販売しており、サンヨー食品も焼きそばに参入して昭和42年4月に「アラビアン焼そば」の発売を開始した。

日清食品の「偽チキンラーメン食中毒事件」や「日清焼そば食中毒事件」を切っ掛けに、昭和40年10月に即席麺の日本農林規格(JAS)が施行されていた。

そこで、サンヨー食品の井田毅は、「アラビアン焼そば」に即席麺で初となる品質保持期限を付け、品質保持期限を越えた商品を引き取ることを宣言して、業界を震撼させた。

しかし、「アラビアン焼そば」はピリ辛味が売りだったにも関わらず、「辛くて子供が食べられない」というクレームがあったので、途中で味を変えたため、全く成功しなかった。

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サッポロビールからの苦情

サンヨー食品の「サッポロ一番」が売れると、昭和41年の秋に「サッポロビール」から商標の問題で苦情が出て、裁判になりそうになった。

そこで、サンヨー食品の社長・井田文夫はサッポロビールの松山社長の自宅を訪れ、「『サッポロ』は『1番』というのだから、『サッポロビールも1番』とお考えくださって、どうか怒らんでください」と頼んだ。

松山社長は、そんな苦情が出ていることを知らなかったので、「1週間まってください」と答えた。

そして、松山社長はインスタントラーメンを食べたことが無いので、芸者や家族にインスタントラーメンについて尋ねた。

すると、みんな「サッポロ一番」を食べていると答えたので、松山社長は「サッポロ一番」が大衆に好かれていることを知って驚き、「サッポロ」の使用を認め、「大いに売ってください」と激賞し、「サッポロビール」との商標問題は一件落着したのだった。

サッポロ一番大判100g

即席ラーメンは85グラムが一般的だったが、昭和42年10月にエースコックが麺100グラムに増量した大判「駅前ラーメン」を発売した。しかも、値段は据え置きである。

二番煎じはするなと言うのが信念のサンヨー食品の井田毅も、これには驚き、昭和43年(1968年)1月に「サッポロ一番大判100g」を発売すると、食べ盛りの若者に好評で売り切れが続出した。

すると、サンヨー食品の成功を見て、他のメーカーも相次いで大判100gの商品を投入し、即席ラーメン業界は大判ブームを迎えた。

サッポロ一番味噌ラーメンの誕生

即席ラーメンは、日清食品・明星食品・エースコック・東洋水産・サンョー食品の大手5社がシェア84%を占めており、残りの16%に中小メーカー数百社がひしめき合うという過酷な状況だった。

即席麺の需要が頭打ちしており、中小メーカーは厳しい時代を迎えた。昭和43年には中堅メーカー松永食品工業・富士食品工業・第一食品工業・ナンバーワン工業などが倒産したほか、即席ラーメンから撤退する企業が相次いだ。

一方、札幌のラーメン店「熊さん」の店主・大熊勝信が、昭和39年に東京・大阪の高島屋の北海道物産展で、味噌ラーメンの実演販売を行ったことを切っ掛けに、東京でも札幌の味噌ラーメンが広まり、味噌ラーメンを出す店が増えいた。

このようななか、サンヨー食品の井田毅は、札幌ラーメンの味噌ラーメンをヒントに開発に取りかかり、昭和43年(1968年)9月に「サッポロ一番みそラーメン」を発売した。

このとき、サンヨー食品は丸紅飯田を特約商社としていたが、「サッポロ一番みそラーメン」を九州で発売するときに、九州の問屋から特約商社の複数化を望む声があがったので、三井物産も特約商社に加え、丸紅飯田と三井物産の2社体制となった。

さて、「サッポロ一番みそラーメン」が大ヒットして味噌ラーメンブームが到来し、ラーメン屋まで味噌ラーメンを始めるようになった。

こうした動きに他社も追随して続々と味噌味の即席麺が発売され、明星食品が「サッポロ生まれ明星みそラーメン」、日清食品が「みそ味一丁」、エースコックが「みそ味ラーメン」を発売した。

しかし、他社は突貫工事で味噌味の即席ラーメンを発売したので完成度は低く、味噌汁にラーメンを入れただけの「味噌汁ラーメン」だったので、最後に残ったのは開発に十分な時間をかけられた「サッポロ一番みそラーメン」だった。

この「サッポロ一番みそラーメン」の大ヒットにより、サンヨー食品は即席ラーメン業界で売り上げ第3位へと躍り出た。

そして、各地に営業所を開設する一方で、昭和45年(1970年)から藤岡琢也を起用した「サッポロ一番味噌ラーメン」のテレビCMを開始。テレビCMの効果もあり、サンヨー食品は日清食品に継いで即席ラーメン業界の第2位となった。

さらに、サンヨー食品の井田毅は、昭和46年(1971年)4月に「サッポロ一番ソースやきそば」を発売し、昭和46年9月に「サッポロ一番塩ラーメン」を発売した。

こうして、サッポロ一番シリーズを充実させて攻勢をかけ、昭和46年に即席ラーメンの王者・日清食品を抜いて即席ラーメン業界のトップに君臨することに成功したのである。

そして、昭和47年9月には、「サッポロ一番ごま味ラーメン」を発売した。

サッポロ一番と井田毅(いだ・たけし)の生涯」へ続く。

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