わろてんか-伊能活動写真の実在のモデル

NHKの朝ドラ「わろてんか」に登場する「伊能活動写真」の実在のモデルです。

わろてんか-伊能活動写真のあらすじ

伊能家の次男・伊能栞(高橋一生)は、演芸に興味を持っており、伊能製薬の関連会社を部下に任せて、「伊能活動写真」と設立します。

伊能栞(高橋一生)は、寄席の経営を開始した北村藤吉(松坂桃李)と意気投合し、お互いの夢を実現するために頑張ることを誓い合います。

そのようななか、伊能家の長男が伊能製薬を継ぎ、社長に就任します。

伊能栞(高橋一生)は伊能家の次男ですが、妾の子であり、長男が死んだ時の保険として伊能家に入っていたので、長男が伊能家を継ぐと用済みになってしまいます。

長男は次男の伊能栞(高橋一生)には何も与えたがらず、伊能栞(高橋一生)に任せていた関連会社の社長を解任します。

こうして伊能栞(高橋一生)は、「伊能活動写真」だけが残り、秦野リリコ(広瀬アリス)の主演にした活動写真の制作を開始することになります。

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伊能活動写真の実在のモデル

朝ドラ「わろてんか」に登場する「伊能活動写真」の実在のモデルは、映画の「東宝」です。

伊能栞(高橋一生)のモデルとなる阪急グループの総帥・小林一三は、大正3年に「宝塚少女歌劇」を開始し、昭和3年に「宝塚少女歌劇」の東京進出を果たしました。

既に松竹が東京で盤石の基盤を築いており、

東京での公演は、小林一三の意に反して、歌舞伎座の1等席で4円50銭、新橋演舞場でも3円と高額でしたが、劇場を借りている以上、小林一三の一存で入場料を下げることは出来ません。

そこで、小林一三は、自前の劇場を建設するため、昭和7年に「東京宝塚劇場」を設立し、昭和9年に「東京宝塚劇場」を建設しました。東京の宝塚を略して「東宝」になります。

そして、宝塚少女歌劇を1年間のうち6ヶ月、東京へ派遣するとして、残りの6ヶ月をどうするかと言う事になり、東京でも俳優を集めて、東宝劇団の前身が発足します。

そうした一方で、東宝は、PLC映画製作所とJ.Oスタジオからの供給を受けて映画界に進出します。

既に松竹は東京で盤石の基盤を築いており、東宝の浅草進出を阻止したのですが、松竹が狙っていた日本劇場を東宝に奪われてしまうなど、東宝と松竹は東京で勢力争いを繰り広げます。

その後、東宝は日本劇場を取得すると、「日本映画」を吸収合併して本格的に映画界に参入し、昭和12年に「東宝映画配給」「PLC映画製作所」「J.Oスタジオ」「写真化学研究所」を合併し、「東宝映画」を設立しました。

さらに、昭和18年に「東京宝塚劇場」と「東宝映画」が合併して「東宝」が誕生しました。

一方、吉本興業は、創業者・吉本泰三が映画界(活動写真)に進出する野望を持っていたのですが、吉本泰三の死によって映画界進出は実現しませんでした。

その後、吉本興業の林正之助が、昭和9年に日活と提携して映画「佐渡情話」を制作して映画界への進出を果たしました。

さらに、昭和10年には「J.Oスタジオ」と提携して映画を制作してヒットさせ、昭和11年には「PLC映画製作所」と提携してエンタツ・アチャコ主演の映画「あきれた連中」を大ヒットさせます。

そして、昭和11年に、東宝と吉本興業は業務提携し、芸人の引き抜き禁止や、吉本芸人を東宝の映画に出演させる取り決めが結ばれました。

その後、映画業界は、戦時下の影響で、映画の上映時間が1日3時間に削減されたり、外国映画の輸入が制限されたりしたため、映画館で上映するアトラクションや演芸が重要になってきました。

そこで、東宝の小林一三は、昭和14年(1939年)2月に吉本興業の林正之助を東京宝塚劇場(東宝)の取締役として招き入れます。

さらに、小林一三は東宝傘下の東宝演芸と吉本興業を提携させ、吉本興業の東京支社長・林高弘を東宝演芸の専務に迎え入れ、吉本興業との関係を強化しました。

朝ドラ「わろてんか」では、伊能栞(高橋一生)がいきなり「伊能活動写真」を設立して映画界に進出しますが、実話の小林一三は「鉄道→宝塚少女歌劇→東京進出→東宝」という順序で業容を拡大していきます。

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