安藤百福とインスタントラーメンの特許紛争

日清食品の創業者・安藤百福(呉百福)の生涯を描く「安藤百福の立志伝」の「安藤百福とインタントラーメの泥沼の特許紛争」です。

このページは「日清食品の安藤百福とチキンラーメンの商標権争い」からの続きです。

前置き

インスタントラーメン(即席麺)の黎明期に、「チキンラーメン」の商標問題と平行して、インスタントラーメンの特許紛争が起きました。この特許紛争は非常に複雑なので、できる限り簡単に紹介します。

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日清食品の安藤百福と泥沼の特許戦争

インスタントラーメンの黎明期に起きた特許紛争には、陳栄秦・張国文・安藤百福(呉百福)という3人の在日台湾人が登場する。

在日台湾人が関連してくる理由は、インスタントラーメンの起源から説明しなければならない。

そもそも、日本のインスタントラーメン(即席麺)は、屋台のラーメン(中華そば)から発展したのではなく、素麺を油で揚げた台湾料理「鶏糸麺(ケーシーメン)」から発祥したものである。

在日台湾人は故郷の台湾から「鶏糸麺」を取り寄せて食べていたが、戦後、日本で「鶏糸麺」を作って食べるようになった。

台湾料理の「鶏糸麺」は「鶏」という字が入っていることから分かるように「チキン味」である。

そして、台湾料理「鶏糸麺」を商品化したのが、東京の在日台湾人・陳栄泰と、大阪の在日台湾人・張国文である。

大和通商の陳栄秦は昭和33年(1958年)春に東京で即席麺「鶏糸麺」を発売し、東明商行の張国文も昭和33年春に大阪で即席麺「長寿麺」を発売した。

(注釈:昭和31年出発の第1次南極観測隊が、張国文のインスタントラーメンを南極へ持参しているので、日本初のインスタントラーメンは張国文の「長寿麺」である。ただし、張国文が即席麺「長寿麺」を発売したのは昭和33年春となっている。)

そして、在日台湾人の安藤百福(呉百福)は、2人から少し遅れて、昭和33年8月25日に即席麺「チキンラーメン」を発売した。

このように、日本のインスタントラーメンは台湾料理「鶏糸麺」が起源なので、インスタントラーメンの特許紛争に、3人の台湾人が関係してくるのである。

(注釈:ただし、安藤百福は、台湾料理「鶏糸麺」とは関係なく、独自にチキンラーメンを開発したという立場をとっている。)

さて、東明商行の張国文も、大和通商の陳栄泰も、チキンラーメンよりも早くインスタントラーメンを発売していたのだが、商業的には成功しておらず、最初に商業的に成功したのが安藤百福(呉百福)のチキンラーメンだった。

インスタントラーメンは乾麺のまがい物とみられていたが、チキンラーメンが商業的に成功すると、続々とインスタントラーメンに参入する業者が現れた。

このようななか、「鶏糸麺」の特許「素麺を馬蹄形状の鶏糸麺に加工する方法」を持つ大和通商の陳栄泰が、昭和35年(1960年)9月に、関西のインスタントラーメン製造業者に対して、特許侵害を警告し、1袋につき2円の特許使用料を請求した。日清食品に対して請求した特許使用料は6800万円だったという。

これに危機感を覚えた関西のインスタントラーメン製造業者が中心となり、昭和35年10月に大阪で「全国即席ラーメン協会」を発足した。

「全国即席ラーメン協会」には、「長寿麺」の特許を持つ東明商行の張国文や、乾麺大手の明星食品も参加した。

ところが、会長に就任すると思われていた日清食品の安藤百福(呉百福)が、「全国即席ラーメン協会」に加わらなかったため、「全国即席ラーメン協会」は会長・副会長を空白として発足した。

日清食品の安藤百福(呉百福)は、チキンラーメンの製造特許を申請していたので、「全国即席ラーメン協会」に加入すると、自由に動けなくなるため、「全国即席ラーメン協会」に加わらなかったのである。

その後、昭和35年(1960年)11月に、日清食品の安藤百福(呉百福)が申請していた「チキンラーメン」の特許が公告となり、東明商行の張国文が申請していた「長寿麺」の特許も公告なる。

こうして、大和通商の陳栄泰、日清食品の安藤百福(呉百福)、東明商行の張国文という3人の在日台湾人が、それぞれに特許を主張し、インスタントラーメンの製造特許を争うことになる。

(注釈:この時代の特許法では、インスタントラーメンという食品では特許が取れず、製造方法で特許を取らなければならなかった。そして、製造方法が少し違えば、違う特許として特許が取得できた。)

10社協定と安藤百福

日清食品の安藤百福(呉百福)と偽チキンラーメン業者が「チキンラーメン」の商標を巡って争っており、偽チキンラーメン業者は日清食品に対抗するため、「全国チキンラーメン協会」を発足していた。

この「全国チキンラーメン協会」に加盟していた偽チキンラーメン業者10社が、日清食品に対抗するため、「長寿麺」の特許を持つ東明商行の張国文と、1袋10銭の実施料を支払うという契約(10社協定)を結んだ。

このようななか、日清食品の安藤百福(呉百福)は、「即席ラーメンは華僑が日本で建てた金字塔だ。粗悪品が出回るのを整理するため、特許を一本化する必要がある」と言い、東明商行の張国文を口説き落とし、張国文から2300万円(平成時代の価値で3億6000万円)で「長寿麺」の特許を買い取った。

さらに、昭和36年6月に日清食品の「チキンラーメン」の商標が確定し、「チキンラーメン」の商標問題にピリオドが打たれ、偽チキンラーメン業者は「チキンラーメン」という名称が使えなくなってしまった。

この一方で、昭和36年4月に東洋水産やサンヨー食品がインスタントラーメンに参入した。水産業界から続々とインスタントラーメンに参入し、インスタントラーメン製造業者は100社に上った。

さて、偽チキンラーメン業者10社は、東明商行と10社協定を結んでいたが、10社協定は特許を購入した日清食品に引き継がれたため、偽チキンラーメン業者10社は足並みが乱れた。

そこで、10社協定の中心だった島田屋本店は、明星食品・サンヨー食品などの関東系メーカーに呼びかけ、「関東即席ラーメン工業協同組合」を発足した。

「関東即席ラーメン工業協同組合」は、日清食品と対決するための組合ではなく、日清食品の特許独占から製造業者を守る目的で設立されており、日清食品と交渉し、日清食品と1食50銭のロイヤリティー契約を結ぶことになった。

しかし、「関東即席ラーメン工業協同組合」には強固なアンチ日清が居り、1枚岩ではなく、日清食品との契約には至らなかった。

一方、「鶏糸麺」の特許を持つ大和通商の陳栄泰は、「長寿麺」の特許を買い取った日清食品に対抗して、第一食品工業の黄朝福に特許を分権した。

しかし、「全国即席ラーメン協会」が申請していた異議が認められ、大和通商の陳栄泰の「長寿麺」の特許に拒絶査定が下り、「長寿麺」の特許成立は大幅に遅れてしまうのだった。

日清食品とエースコックの対立

エース食品(エースコック)は、大阪の企業だが、いち早く東京へと進出し、関東の名門の鈴木洋酒店(伊藤忠食品)を発売元として、東京で強力な基盤を築いていた。

エース食品(エースコック)は、売り上げこそ日清食品の6分の1だが、東京では明星食品とともに業界第2位に位置しており、東京進出で後れをとっていた日清食品にとって、エース食品は目の上のコブだった。

このエース食品(エースコック)が出願していた特許「即席中華麺製造法」に公告決定が下り、エース食品が第4の特許として浮上してきた。

しかし、エース食品の特許は「味付け麺に120度から200度の油を吹き付ける」という製法だったため、日清食品の安藤百福(呉百福)は、エース食品の特許は工業的に実施不可能であり、実際は日清食品の特許で製造しているとして、大阪地裁に提訴した。

すると、鑑定人は、エース食品(エースコック)の製造法は日清食品の特許を侵害していると鑑定した。

これを受けて、日清食品の安藤百福(呉百福)は、大阪地裁にエース食品の製造中止の仮処分を申請した。

すると、エース食品(エースコック)の村岡慶二は、日清食品を訴え返し、泥沼の訴訟合戦へと発展するのだった。

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安藤百福(呉百福)と陳栄泰の対決

昭和37年(1962年)5月、日清食品の安藤百福(呉百福)が持つ「チキンラーメン」の特許「即席ラーメンの製造法」と、東明商行の張国文から購入した「長寿麺」の特許「昧付乾麺の製法」が成立した。

すると、日清食品の安藤百福(呉百福)は昭和37年6月、全てのインスタントラーメンが「チキンラーメン」と「長寿麺」の特許のいずれかに抵触するとして、インスタントラーメン業者に15項目の報告書の提出を求めた。

明星食品は、味付け麺と、独自に開発したスープ別添付方式の両方を生産していたが、日清食品との特許紛争を避けるため、味付け麺の製造を停止し、全商品をスープ別添付方式に切り替えた。

明星食品が開発したスープ別添付方式は、麺に味が付いておらず、フープが小袋に入れられていた。日清食品が持っていた2つの特許は、麺にスープを染みこませた「味付け麺」に関する特許なので、スープ別添付方式は日清食品の特許に抵触しない。

一方、大和通商の陳栄泰は、安藤百福(呉百福)との関係を公表し、安藤百福(呉百福)が「鶏糸麺」の特許を盗んだと主張して、昭和37年(1962年)6月21日に「チキンラーメン」の特許無効裁判を起こした。

このようななか、関東即席ラーメン工業協同組合に加盟する島田屋本店など7社が、日清食品と1袋1円で特許の通常実施契約を結んだ。

明星食品は、関東即席ラーメン工業協同組合に加盟していたが、既に全商品をスープ別添付方式へ切り替えていたので、7社には加わらず、単独で日清食品と特許の通常実施契約を結んだ。

明星食品は、特許紛争を回避するために日清食品と契約を結ぶが、実際には日清食品の特許は使用しないという方針である。

こうして着々と足場を固めていく日清食品の動きに対して、日清食品と対立していたエース食品(エースコック)は「日本即席ラーメン協会」を設立し、大和通商の陳栄泰も「全日本即席ラーメン工業協会」を設立して、日清食品に抵抗するのだった。

安藤百福(呉百福)と陳栄泰の対立

大和通商の陳栄泰が申請していた「鶏糸麺」の特許は、「全国即席ラーメン協会」から特許無効を申し立てられた関係で、特許の確定が大幅に遅れていたが、昭和38年(1963年)2月5日に「鶏糸麺」の特許が確定する。

そして、着々と足場を固めていた安藤百福(呉百福)は、昭和38年3月29日に日清食品の東証2部上場を発表した。

チキンラーメンを発売したのが、昭和33年(1958年)8月25日だったので、日清食品は、わずか5年で上場企業へと成長したのである。

すると、大和通商の陳栄泰は、日清食品の東証2部上場を阻止するため、日清食品や販売代理店4社を訴えた。

これを受けた日清食品の安藤百福(呉百福)は、大和通商の陳栄泰を業務妨害で告訴して、泥沼の訴訟合戦へと発展した。

すると、大和通商の陳栄泰は、チキンラーメンの袋の裏面にプリントした食べ方の図解が陳栄泰の著作権を侵害しているとして、8億3000万円の損倍賠償認定を求めて裁判を起こしたのである。

インスタントラーメン業界は混迷に混迷を極めており、このころから、インスタントラーメンに関係する大手企業が、紛争の解決に乗り出した。

このようななか、日清食品の安藤百福(呉百福)は特許使用用を1袋1円から30銭へと値下げして、未契約の製造業者に対して契約を促して勢力の拡大を図っていく。

一方、大和通商の陳栄泰は、特許侵害で日清食品を訴えていたが、「鶏糸麺」の特許は麺を揚げる油の温度が問題となり、日清食品の特許侵害は認定されず、大阪地裁に訴えを棄却されてしまう。

それでも、大和通商の陳栄泰は、日清食品に対しては強硬な姿勢をとる一方で、裏ではエース食品や関東即席ラーメン工業協会などとの和解を模索した。

ところで、インスタントラーメン業界の混乱は、小麦や調味料などを扱う業者にも影響するので、食糧庁は再三にわたり、和解を勧告して、業界の大同団結を促しており、日清食品と大和通商の間で話し合いが行われていた。

このころ、明星食品が開発したスープ別添付方式が登場したことにより、味付け麺に関する特許の価値は低下していた。

このため、日清食品と大和通商は、食糧庁の和解勧告を受け入れる形で、昭和38年(1963年)9月12日に和解を発表した。

日清食品の持つ特許は「味付け麺」に対する特許であり、大和通商が持つ特許は「スープ別添付方式」に対する特許として、お互いの特許を尊重し合うことになったというのだ。

スープ別添付方式を開発したのは明星食品なので、業界は明星食品の動向に注目したが、明星食品は業界の混乱を避けるために沈黙を守った。

特許紛争の終息

日清食品は、エース食品(エースコック)の特許に異議を申し立てていたが、特許庁は日清食品の異議を退け、昭和38年(1963年)11月にエース食品の特許が成立する。

エース食品(エースコック)は特許が成立したので、第4の特許として、最後まで日清食品に抵抗すると思われていたが、昭和39年(1964年)1月に日清食品の安藤百福(呉百福)と和解した。

その結果、昭和39年3月、エース食品(エースコック)が日清食品に特許を譲渡し、日清食品の特許を無償で使用するという形で、日清食品とエース食品の争いは終わった。

こうして、特許紛争を解決した日清食品と大和通商は、インスタントラーメン業界の1本化に向け、業界団体「日本ラーメン協会」の設立準備に入った。

しかし、日清食品と大和通商による特許独占を恐れた各地のインスタントラーメン製造業者が、各地で団結して団体を立ち上げ、「東日本即席ラーメン協会」「九州即席ラーメン協会」「中日本ラーメン協会」「中四国即席ラーメン協会」が発足した。

特に東日本即席ラーメン協会との話し合いが難航したことから、安藤百福(呉百福)は特許問題と業界1本化を切り離すことを余儀なくされ、昭和39年5月に特許管理団体「日本ラーメン特許(後の国際特許管理)」を設立し、業界1本化から特許問題を切り離した。

そして、安藤百福(呉百福)は、昭和39年6月に全国の64社が加盟する公益法人「日本ラーメン工業協会(後の日本即席食品工業協会)」を設立して、理事長に就任した。

こうして、日清食品の安藤百福(呉百福)は、「自民党をまとめるよりも難しい」と言われたインスタントラーメン業界を統一したのだった。

なお、安藤百福(呉百福)が味付け麺の特許を開放したため、インスタントラーメン製造業者は「今まで通りにインスタントラーメンが作れるのであれば、誰がインスタントラーメンの発明者でもいい」というスタンスをとったという。

日清食品の日清焼そば-歴史と誕生秘話」へ続く。

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