朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第32話「伊勢丹の山中鏆も恐れたファミリアの坂野惇子と田村光子」です。
これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝の目次」からご覧ください。
東京・高島屋での子供服展を成功させて神戸に凱旋した坂野惇子の元に、今度は東京の伊勢丹から子供服展の要請が来た。
伊勢丹では、前年の昭和28年(1953年)に子供服売り場の拡張が決まり、山中鏆(やまなか・かん)が子供服売り場の主任を命じられていた。
ところで、伊勢丹の2代目社長・小菅丹治の長女・小菅喜子が、レナウンの社長・尾上清と結婚しており、伊勢丹とレナウンは親密な関係にあった。
そこで、子供服売り場の主任を命じられた山中鏆は、レナウンの社長・尾上清に子供服売り場の事を相談した。
すると、尾上清は山中鏆に「子供服ならファミリアへ行って勉強しなさい。日本一だよ」と教えた。
そして、尾上清のアドバイスを受けた山中鏆が、ファミリアについて勉強し、ファミリアの品質の良さに驚いていた矢先、ファミリアが東京・高島屋で子供服展を開催し、大成功させたのである。
高島屋に先を越された伊勢丹の山中鏆は、七五三の開催に合わせ、10月下旬の1週間、ファミリアに子供服展の開催を要請した。
ファミリアの坂野惇子は、高島屋で開催した子供服展の準備期間があまりにも短かった事を後悔していたため、十分な準備期間を条件に伊勢丹の子供服展を引き受けた。
そこで、伊勢丹の山中鏆は、子供服展の計画書をファミリアに送ったが、坂野惇子はこの計画書に納得せず、レポート用紙40枚ほどの計画書を伊勢丹に送った。
坂野惇子の計画書を見た伊勢丹の山中鏆は驚いた。百貨店に注文を付ける業者など初めてだったうえ、坂野惇子は売り場の配置から照明、マネキンのメーカー・種類・サイズ・配置まで細かく指定していたのだ。
さらに、坂野惇子は販売の専門的な勉強はしていなかったが、お客様の立場に立ち、お客様を第一に考えて販売いていたので、自然とアメリカ式のインタートラフィックという概念を身につけおり、計画書は理に適っていた。
坂野惇子の計画書に驚きと感動を覚えた伊勢丹の山中鏆は、ファミリアから学ぶことが多いと考え、伊勢丹の鈴木祥三をファミリアに付け、ファミリアをレポートさせることにした。
さて、子供服展の開催が決まると、ファミリアの坂野惇子・田村光子・村井ミヨ子・野田美智子が上京し、伊勢丹と打ち合わせを行い、子供服展の準備を開始。坂野惇子らは、あれはダメ、これはダメと伊勢丹に散々と注文を付けた。
そうした結果、ファミリアの子供服展の初日は、伊勢丹の売り上げ予想15万円を大きく上回る18万円を売り上げた。
伊勢丹からすれば大成功だったが、ファミリアの坂野惇子は満足せず、閉店後、当たり前のように反省会を開き、商品の入れ替えや陳列の移動などを行った。
ファミリアの反省会は毎日、行われ、夜遅くまで作業が続いた。
「とにかく、猛烈を通り越して、ソーレツだよ。山本営業部長が一番怖かったが、二番目は坂野の奥さんで、一見すると山の手の家庭婦人なんだが、もの凄い気合がかかってる。それも実行するバイタリティには驚かされたね」
「それに田村光子さんも怖かったね。大きい目でギョロッと売り場をなめ回すように見る。お世辞一つ言わないでね」
そう語るのは、伊勢丹で主任を務めた山中鏆である。
伊勢丹の山中鏆は、子供服展が終わってからも、神戸のファミリアまで来て質問をするほど熱心で、ファミリアから学んだ事が伊勢丹の販売テキストの基礎となった。
ファミリアから様々な事を学んだ山中鏆は、その後、伊勢丹を「ファッションの伊勢丹」と呼ばれるまで成長させたほか、経営難に陥っていた松屋を再建し、「百貨店の神様」と呼ばれるようになった。
こうして、坂野惇子のファミリアは、東京進出を果たし、東京の高島屋と伊勢丹で子供服展を成功させ、ファミリアの名前を全国に知らしめるようになっていた。
一方、阪急百貨店の清水雅も、東京都品川区大井町に阪急百貨店を出店し、東京進出を果たすことになる。
坂野惇子の立志伝-第33話は、「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝の目次」から選んでください。
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