皇后様のデザイナー・田中千代らとともに、戦前・戦後の洋裁界で衣服デザイナーの草分け的存在として活躍した伊東茂平(いとう・もへい)の生涯です。
伊東茂平(いとう・もへい)は明治31年(1898年)9月5日に福岡県で生まれた。慶応大学法学部法律科を卒業(もしくは中退)して、洋裁の道に進み、背広などを解体して独学で洋裁を学び、昭和4年(1929年)に「イトウ洋裁研究所」を設立した。
当初は洋服デザイナーというよりは、洋服の仕立て職人という感じであったが、雑誌「婦人画報」に洋裁記事を掲載していたので、洋裁を教えて欲しいという多くの声を受け、伊東茂平は洋裁教室を開始し、洋裁黎明期の草分け的存在なる。
さらに、昭和10年(1935年)に大阪府の梅田に伊東洋裁研究所を開設し、昭和15年(1940年)には東京都芝区三田にも伊東洋裁研究所を開設した。
当時の女性は花嫁修業として裁縫を習っており、一般の洋裁教室は、あくまでも女性の「お稽古」教室だったが、伊東茂平は職人気質だったこともあり、職人養成学校的な感じだったという。
「桑沢デザイン研究所」を開設する桑沢洋子や、子供服ブランド「ファミリア」の創業者・坂野惇子(佐々木惇子)なども、伊東茂平の教え子である。
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戦時中、伊東茂平は、飛行機の模型などに用いられる立体製図法をヒントに、婦人服の立体裁断法(伊東式)を完成させたが、戦争の影響で洋裁研究所の閉鎖を余儀なくされた。
昭和20年(1946年)8月15日に日本は終戦を迎える。戦時中に女性の服は婦人標準服のモンペに変えられており、その反動で戦後、大規模な洋裁ブームが到来する。
戦後、伊東茂平は昭和21年(1946年)に世田谷区成城で伊東衣服研究所を再開。戦後の洋裁ブームにのり、文化服装学院の並木伊三郎、ドレスメーカー女学院の杉野芳子、田中千代洋裁研究所の田中千代らとともにデザイナーとして活躍し、戦後の洋裁界の基礎を築いた。
伊東茂平は西洋モードを日本風に消化した最高のデザイナーと評価され、昭和27年(1952年)には女子美術大学の付属洋裁学校を創設し、晩年はデザイナーの育成に貢献した。昭和42年(1967年)2月3日に死去。享年68歳だった。
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