落語家・桂春団治(皮田藤吉)の2番目の妻・岩井志う(藤本志う)の立志伝です。
岩井志う(藤本志う)は明治2年(1869年)8月8日に大和国十市郡桜井村(奈良県桜井市)で、藤本藤平の長女として生まれた。母は「藤本幾やう」である。
「岩井志う」は「いわい・じゅう」もしくは「いわい・じう」と読む。母「藤本幾やう」は「ふじもと・いくやう」と読む。
藤本家は、奈良県桜井市で飲食店のようなサービス業を営んで、藤本家は代々、「藤本藤平」を襲名している。
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「岩井志う」は、花嫁修業の一環として、大阪府大阪市東区道修町3丁目40番地にある薬問屋「岩井松商店」に上女中として奉公しており、21歳の時に、薬問屋「岩井松商店」の主人・岩井松之助と結婚した。
薬問屋「岩井松商店」の主人・岩井松之助は、8歳上の29歳で、妻と死別したため、優秀だった上女中の「岩井志う」を後妻に迎えたと伝わる。
しかし、主人・岩井松之助は初婚なので、この逸話は誤伝か創作のようである。
夫・岩井松之助は前妻との間にも子供が居らず、「岩井志う」にも子供が生まれなかったので、明治34年(1901年)12月に、夫・岩井松之助の妹・葛和スエ(岩井スエ)の次男・葛和嘉三郎を養子にもらい受けた。
大正3年(1914年)12月3日、夫・岩井松之助が死去し、「岩井志う」は未亡人になってしまう。
薬問屋「岩井松商店」は相当に儲けていたので、親族同士が口を出してゴタゴタとしたため、「岩井志う」は間に入って相当に苦労したという。
そこで、松井家に出入りしていた髪結い女性が、未亡人「岩井志う」に同情し、桂春団治(皮田藤吉)の落語でも聞けば、気分が晴れるだろうと思い、寄席に連れて行った。
これは親切心だけではなく、髪結いの女性は、三友派の落語家と交際していたので、「岩井志う」のお供で寄席に通えるようになれば良い、という計算が働いていた。
そして、髪結いの女性の思惑は見事に当たった。「岩井志う」は桂春団治(皮田藤吉)を気に入り、髪結いの女性や女中を連れて、毎晩のように寄席に通うようになったのである。
さらに、未亡人「岩井志う」は桂春団治(皮田藤吉)に、ご祝儀をわたし、桂春団治(皮田藤吉)を贔屓にするようになった。
さて、桂春団治(皮田藤吉)は自分の貧乏話をおもしろおかしく語り、「八方破れの春団治」として人気を呼び、大正3年に「真打」に昇格していた。
桂春団治(皮田藤吉)は人気の落語家なので、それなりに稼いでいたが、派手に遊んでいたので、衣装にまでお金がまわらず、ボロボロの着物で高座に上がっていたため、着物に対して苦情が来ていた。
当時は、一流の芸と言えば落語で、落語は格式と厳格を重んじる業界だったため、細々としたことにもうるさかったので、桂春団治(皮田藤吉)は着物に困っていた。
そこで、大正4年12月、桂春団治(皮田藤吉)は正月に使う着物を買うため、髪結いの女性を通じて未亡人「岩井志う」に借金を申し込むと、「岩井志う」は頼んだ金額の30倍ものお金を快く貸してくれた。
さらに、翌日、呉服店が反物を売り来たので、桂春団治(皮田藤吉)が3着の着物を注文したところ、呉服屋は代金を受け取らなかった。なんと、先に「岩井志う」が着物の代金を払っていたのである。
これに驚いた桂春団治(皮田藤吉)は、こんな贔屓客を他の芸人に取られてはいけないと思い、妻・東松トミに相談すると、妻・東松トミも賛成した。
桂春団治(皮田藤吉)は、小学校を出ていないので、読み書きはダメだが、女性には自信があったので、未亡人「岩井志う」を金づるとしてつなぎ止めておくため、直ぐに良い仲になった。
しかし、桂春団治(皮田藤吉)は、女好きだったので、ミイラ取りがミイラとなってしまい、妻子を捨てて未亡人「岩井志う」に走ったのである。
雪の降る夜、桂春団治(皮田藤吉)は紅梅亭から自分の家に帰り、長女・皮田ふみ子を抱いて寝ていると、戸をドンドンと叩く音がした。
妻・東松トミが戸を開けると、未亡人「岩井志う」が立っており、大きな声で、「お師匠はん(桂春団治)、あんた、どこの家で寝てはりますの?」と怒った。
それを聞いた妻・東松トミは、「お志うさん、あんた、何という事を言わはります。春団治が自分の家で子供と寝てるのに、どこで寝てるとは、何です。お父さんは、なるほど芸人ですから、金で買えるでしょうが、親子の情は金では買えまへん」と怒り返した。
46歳の妾「岩井志う」と、25歳の正妻・東松トミの修羅場である。
桂春団治(皮田藤吉)は、布団の中から、妻・東松トミに向かって手を合わせ、心の中で「頼む。もう何も言うな」と祈るだけだった。
この一件以降、未亡人「岩井志う」は妻・東松トミを離婚へ追い込むため、嫌がらせを開始したのである。
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いつしか、未亡人「岩井志う」と桂春団治(皮田藤吉)の関係が、岩井家の親族が知るところとなった。
岩井家の親族は、これを岩井家の恥とし、未亡人「岩井志う」を岩井家から除籍することを決めた。
「岩井志う」には、ヤクザな弟・藤本藤吉が居た。弟・藤本藤吉は、除籍騒動に怒り、桂春団治(皮田藤吉)の自宅に怒鳴り込んだ。
ところが、弟・藤本藤吉は桂春団治(皮田藤吉)をすっかりと気に入ってしまい、桂春団治(皮田藤吉)の舎弟のようになり、姉弟で桂春団治(皮田藤吉)に入れ込むという有様だった。
さて、未亡人「岩井志う」は断固として除籍を拒否した。未亡人「岩井志う」の旧姓は「藤本」で、「岩井」は夫方の姓だが、「岩井」姓にこだわったのである。
これは、桂春団治(皮田藤吉)は被差別身分の出身で、「皮田」という名字も被差別身分を表す名前だったため、未亡人「岩井志う」は桂春団治(皮田藤吉)と結婚して、桂春団治(皮田藤吉)に格上の「岩井」姓をプレゼントしようとしたのだという。
桂春団治(皮田藤吉)は被差別身分の出ということを気にしておらず、雑誌などでも被差別身分の出である事を公表していたが、未亡人「岩井志う」の方が被差別身分を表す「皮田」という名字を気にしていたのである。
未亡人「岩井志う」は除籍を頑なに拒否したので、岩井家の除籍騒動は裁判へともつれ込んだが、未亡人「岩井志う」が勝訴したため、岩井家の親族は未亡人「岩井志う」の除籍に失敗してしまう。
ところで、「岩井志う」は桂春団治(皮田藤吉)のために、薬問屋「岩井松商店」の金を湯水の如く使っていた。
そこで、除籍に失敗した岩井家の親族は、これ以上、未亡人「岩井志う」が薬問屋「岩井松商店」のお金に手を付けられないように、「岩井家とは一切関係が無い」という条件を付け、大金を与えて分家させたのである。
未亡人「岩井志う」が岩井家から受け取った手切れ金は「6万円」「7万円」「35万円」という説があり、どれが正しいかは分からないが、一番少ない6万円でも、現在の価値で4000万円から5000万円に相当するという。
大正時代はサラリーマンの月給が40円程度で、1000円で家が建ったので、6万円というのは相当な大金である。
こうして、「岩井」姓と大金を手に入れた未亡人「岩井志う」は、薬問屋「岩井松商店」を出て分家し、下町寺に家を借りて移り住んだ。
後は、桂春団治(皮田藤吉)と結婚するだけだったが、桂春団治(皮田藤吉)の東松トミは、長女・皮田ふみ子が居る事から、頑として離婚を拒否していた。
未亡人「岩井志う」が桂春団治(皮田藤吉)に着物を買い与えていたので、桂春団治(皮田藤吉)は毎週、違う着物で高座に上がっていた。
大看板の落語家でもこんな芸当はできず、桂春団治(皮田藤吉)は話題となっており、未亡人「岩井志う」の金を目当てに、大勢の芸人が桂春団治(皮田藤吉)の弟子となっていた。
桂春団治(皮田藤吉)は面倒見が良く、気に入れば直ぐに仕事の世話をしてやったので、ほとんどの弟子は落語と関係の無い、浮浪者同様の芸人だった。
こうした弟子達が未亡人「岩井志う」に味方し、妻・東松トミに「桂春団治(皮田藤吉)の出世のために身をひいた方が良い」と離婚を求めた。
さらに、未亡人「岩井志う」は寄席の席主にもお金を貸していたので、寄席で働くお茶子の着物を仕立てる仕事をしていた妻・東松トミは、仕事を失ってしまった。
未亡人「岩井志う」は外堀を埋めていき、ジワジワと正妻・東松トミを離婚へと追い詰めていったが、正妻・東松トミは桂春団治(皮田藤吉)が長女・皮田ふみ子に会いたいだろうと思い、離婚せずに頑張っていた。
しかし、桂春団治(皮田藤吉)を嫌っているする落語家らが、これをチャンスと見て、桂春団治(皮田藤吉)を誹謗中傷したので、妻・東松トミは桂春団治(皮田藤吉)の名誉を守るため、離婚を決意し、大正6年(1917年)6月14日に桂春団治(皮田藤吉)と離婚した。
こうして、未亡人「岩井志う」は翌日の大正6年6月15日に桂春団治(皮田藤吉)と結婚し、桂春団治(皮田藤吉)を岩井家の戸主としたのである。
一連の騒動が新聞や週刊誌で報じられ、桂春団治(皮田藤吉)は「後家殺し」の異名で話題と成り、三友派を代表する落語家へと出世した。
一方、正妻・東松トミは、離婚するときに手切れ金300円を受け取っていたので、週刊誌から「金で夫を売った」と叩かれた。
「岩井志う」は、毎日、誰よりも遅く寝て、誰よりも早く起き、必ず化粧をして、乱れ髪は1本も無く、「ごりょんさん」としては立派だったが、芸人の嫁としては失格だったのかもしれない。
桂春団治(皮田藤吉)は明治7年(1874年)ごろ、寄席「浪速亭」を拠点にして「浪速派」を立ち上げたが、高座をサボって遊んでいたので、客が来なくなった。
妻「岩井志う」は、盲目的に桂春団治(皮田藤吉)を愛しており、桂春団治(皮田藤吉)のやることは全て認め、際限なく、桂春団治(皮田藤吉)のためにお金を使った。
このため、妻「岩井志う」が岩井家から手切れ金としてもらった大金は、わずか3年で底を突きていた。
結局、桂春団治(皮田藤吉)は莫大な借金を背負っており、大正9年(1920年)の正月に「浪速派」を手じまいして巡業に出た。
そして、桂春団治(皮田藤吉)は巡業から戻ると、吉本興行部(吉本興業)の創業者・吉本せい(林せい)が待ち構えており、吉本興行部(吉本興業)に借金を肩代わりしてもらい、月給700円で吉本興行部の専属となった。
1000円で家が建った時代なので、月給700円といえば、かなりの高給だが、桂春団治(皮田藤吉)は銭勘定が出来なかったので、給料が増えれば、借金も増えるという有様だった。
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桂春団治(皮田藤吉)は金が無くなると、レコードを吹き込んでいたが、昭和元年(1926年)12月、レコードの二重契約をしていまいレコード会社「コロムビア」から2000円を請求され、差し押さえを受ける事になった。
桂春団治(皮田藤吉)方は誰も銭算段が出来ないので、桂春団治(皮田藤吉)の姉アイが、前妻の東松トミに助けを求めた。
前妻・東松トミは呆れながらも、桂春団治(皮田藤吉)の着物と妾の着物を質屋に持って行って700円を借りるのだが、このとき、「岩井志う」は「着物は無い」と言って着物を出さなかった。
「岩井志う」は、前妻・東松トミへの遺恨から着物を出さなかったのか、既に売り払って着物が無かったのか、その辺の事情は分からない。
結局、前妻・東松トミは、着物を質屋に入れて作った700円に、自分で作った1300円を加えて、レコード会社「コロムビア」に2000円を支払って騒動を治めた。
これ以降、前妻・東松トミは、ときどき、桂春団治(皮田藤吉)の借金を清算したり、弟子達に着物を作ってやったりするようになった。
桂春団治(皮田藤吉)は、曾我廼家五郎が若い妾を連れているのを見て、羨ましく思い、自分も妾が欲しくなってたので、「芸人は妾を持つくらいでないとアカン」と言って妻「岩井志う」を説得し、関東大震災の時に東京から来た芸子を妾にした。
桂春団治(皮田藤吉)は、その後も妾を増やし、4号さんまで囲った。
昭和5年(1930年)、桂春団治(皮田藤吉)は高津町2丁目の家を引き払い、住吉区上住吉の妾(2号さん)宅へと移った。
これにともない、妻「岩井志う」も2号宅へと移り、しばらくは2号さんと一緒に住んでいたが、やがて、2号宅を出て近所の3号宅へと移った。
この頃になると、妻「岩井志う」は61歳になっており、昔の「ごりょんさん」の面影は無く、炊事ばあさんのような事をしていたという。
桂春団治(皮田藤吉)は、数々の事件を起こして話題を作り、スキャンダルの度に人気を上げていったが、昭和5年(1930年)12月に吉本興行部(吉本興業)に無断でラジオ出演して落語「祝い酒」を語った「ラジオ事件」が最後のスキャンダルとなった。
桂春団治(皮田藤吉)は、昭和6年(1931年)ごろから体調が悪化して仕事の数が減り、金銭的に苦しくなり、妾も逃げていった。
吉本興行部(吉本興業)の林正之助は漫才を優遇し、落語を冷遇したが、吉本興行部の創業者・吉本せい(林せい)は「今の吉本興行部があるのは、落語のおかげ」と落語家に感謝しており、仕事の無い落語家に対して金を支給し続けた。
とはいえ、仕事の無い落語家に対して金を支給し続けたというのは、単なる借金であり、桂春団治(皮田藤吉)は吉本興業部に対して借金を増やしていき、借金の額は6000円に上った。
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「岩井志う」は大の酒好きだったので、桂春団治(皮田藤吉)は、毎晩、晩酌の相手をした。
桂春団治(皮田藤吉)は、「岩井志う」を愛していたようで、胃が悪くなって酒が飲めなくなってからも晩酌の相手をし、酒が買えない時も、自分の徳利の中身をソーダにして晩酌の相手をした。
そうした無理がたたったのか、桂春団治(皮田藤吉)は、胃癌と診断され、昭和9年(1934年)3月に日本赤十字病院に入院して手術を受けたが、もう手遅れだった。
「岩井志う」は、桂春団治(皮田藤吉)の看病をしたが、アル中気味で、夜になると、酒を飲みに行くという有様だった。
そして、桂春団治(皮田藤吉)は、昭和9年(1934年)7月に退院して、昭和9年10月6日に胃癌により死去した。享年57だった。
手術代も葬儀も吉本興業部(吉本興業)が出したが、墓までは面倒見てくれなかったのか、桂春団治(皮田藤吉)の墓は無く、天王寺にある一心寺に納骨された。
桂春団治(皮田藤吉)は無名の「春団治」という名前を大看板へと育て上げたが、吉本興業に莫大な借金をしていたので、「春団治」の襲名は吉本興業部の意向で決められ、弟子の桂福団治が桂春団治(皮田藤吉)の借金を引き継ぐことを条件に「春団治」を襲名した。
「岩井志う」は、夫・桂春団治(皮田藤吉)の死後、故郷の奈良県へと帰って従弟の世話になり、従弟の家の狭い玄関の部屋に住んでいたが、翌年の昭和10年(1935年)に死去した。享年67だった。
「岩井志う」の子供は、薬問屋「岩井松商店」時代に養子にした岩井嘉三郎(葛和嘉三郎)だけで、実子は居ない。
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