「責任者出てこい」で有名な「ぼやき漫才」の「人生幸朗・生恵幸子」の生涯を描く立志伝です。
人生幸朗(本名は比田孝三郎)は、明治40年(1907年)11月2日に大阪府中河内郡長瀬村(大阪府東大阪市)で、煙草パイプ製造業の比田好松の長男として生まれた。母は比田ミネである。
人生幸朗は家業の煙草パイプ製造を継ぐのが嫌で、芸人になりたいと思い、20歳の時に家出して劇団に飛び込んだが、親に見つかり連れ戻された。
しかし、芸人の夢は諦められず、家出しては連れ戻されるというのを何回か繰り返した末、人生幸朗は悪知恵を付けて、親に喧嘩を吹きかけ、親から勘当させるように仕向けた。
こうして、人生幸朗は昭和2年11月に実家を出て芸人としての人生を歩み始めることになる。人生幸朗が21歳のことである。
さて、人生幸朗は旅一座に加わって巡業に出たが、雑用ばかりで芽が出ず、別の旅一座に移ったが、ここでも芽が出なかった。
結局、2~3年しても芽が出なかったので、人生幸朗は「姉が結婚する」と嘘を付いてご祝儀をもらい、大阪へと帰ってきた。
このとき、吉本興業の林正之助が大阪・千日前の「南陽館」で、10銭で漫才が見られる「10銭漫才」を始めており、大きなブームを起こしていた。
人生幸朗は吉本興業に入れるほどの芸人ではないので、「南陽館」の向かいにあった端席の「愛親館」に入り、雑用を経て、ようやく前座に出られるようになった。「円タク漫才」と言って、ギャラは漫才1回につき1円だった。
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人生幸朗は荒川芳丸に入門して「荒川芳蔵」を名乗っていた昭和6年に、1人目の妻となる安藤ミキヱと出会う。
安藤ミキヱは、寄席に見に来ていた客で、人生幸朗のファンだった。
人生幸朗は、ファンの安藤ミキヱに手を付けて結婚し、母親の家に転がり込んで所帯を持った。翌年の昭和7年7月8日に長男・比田肇が生まれた。
この時はまだ「喋くり漫才」は確立しておらず、当時の「万歳」「萬歳」という表記で、喋りよりも、踊りや歌がメーンだった。
しかし、人生幸朗は歌が下手だったので、関西でも有数の音曲家・三遊亭円若の元へ通い、稽古を付けてもらうようになった。
人生幸朗は熱心に通っていたので、音曲家・三遊亭円若に認められ、都家文雄に弟子入りすることを勧められた。
都家文雄は「文化漫才(ぼやき漫才)」で人気の漫才師で、音曲家・三遊亭円若の弟子だった。
都家文雄は弟子に大事な着物を持ち逃げされていたので、弟子を取るのを嫌がったが、音曲家・三遊亭円若の口添えにより、人生幸朗は都家文雄の弟子になる事ができ、「都家文蔵」という名前をもらった。
人生幸朗は妻・安藤ミキヱを相方にして漫才を始めたが、妻・安藤ミキヱはシロウトなので、使い物にならず、直ぐに弟弟子のユタカとコンビを組んだ。
すると、給料が半分になったので、妻・安藤ミキヱはカフェ「有明」へ働きに行くようになった。
小柄で美人な女性だったので、妻・安藤ミキヱは稼ぎが良く、人生幸朗は妻の稼ぎで遊びに行くようになる。
母・比田ミネが「端席ばかりでは可哀想だ」と言い、師匠の都家文雄に人生幸朗を吉本興業へ入れてやって欲しいと頼んでおり、人生幸朗は師匠・都家文雄の口利きで、吉本興業へ入れることになった。
しかし、人生幸朗は漫才師として活動する一方で、自宅に「都家文蔵興行部」という看板を上げて、漫才師7組を雇って端席へ派遣し、興行師としても活動しており、自分が吉本興業へ行くと、雇っている漫才師が困ると言い、吉本興業入りを断った。
師匠・都家文雄は「御山の大将で一生苦労せえ」激怒したが、人生幸朗は自分の信念を貫いたので後悔は無かったという。
昭和15年、岡山県の要請を受けて皇軍慰問団に参加して、20日間ほど北支那へ行った。この時の相方は妻・安藤ミキヱだった。
母・比田ミネは人生幸朗をどうしても吉本興業に入れたかったようで、人生幸朗が北支那へ行っている間に、再び師匠の都家文雄に吉本興業へ入りを頼んだ。
それを受けた師匠・都家文雄は、人生幸朗が帰ってくると、「最後の親孝行や」と言い、人生幸朗を吉本興業へ入れた。昭和15年のことである。
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相方の妻・安藤ミキヱは、皇軍慰問団に参加したときに病気となっていたため、人生幸朗は吉本興業に入ると、双葉(ミス・ハワイの妹)とコンビを組んだ。
しかし、双葉とは合わなかったので、師匠・都家文雄の口利きで、高田田鶴子とコンビを組んだ。
この高田田鶴子は、漫才師の夫・千葉成田が居るれっきとした人妻なのだが、人生幸朗は高田田鶴子と男女の関係になり、W不倫を開始する。
妻・安藤ミキヱは口には出さなかったが、2人の関係を知っていたのだろう。昭和16年の冬に家を出て、カフェ「有明」の贔屓客の元へ行ったので離婚となった。
このため、人生幸朗は、妻・安藤ミキヱの不貞によって離婚したことになっているが、離婚の原因は人生幸朗のW不倫である。
ただし、戸籍上は、人生幸朗と妻・安藤ミキヱは、離婚後の昭和17年に入籍して、昭和21年に離婚している。これは、長男・比田肇のためらしい。
人生幸朗は妻・安藤ミキヱとの離婚後、高田田鶴子と漫才コンビ組んで「都家文蔵・高田田鶴子」として活動し、師匠・都家文雄の「文化漫才(ぼやき漫才)」を真似て、「ぼやき漫才」を開始する。
しかし、「ぼやき漫才」の本家本元である師匠・都家文雄が吉本興業に居るので、人生幸朗はいつまで経っても前座の仕事しか無いうえ、10日置きに、客入りの悪い京都の寄席へと行かされていた。
昭和19年の正月、人生幸朗は皇軍慰問団に参加中に母・比田ミネが死去した。慰問から戻ってきた日が、母・比田ミネの葬儀で、死に目に会うことが出来ず、芸人である辛さを痛感する。
昭和19年の暮れに、人生幸朗と高田田鶴子の間に「武」が生まれた。
(注釈:先ほど紹介したように、戸籍上は前妻・安藤ミキヱと結婚している事になっており、高田田鶴子とは入籍していない。)
「武」が生まれて間もなく、昭和20年2月28日に、人生幸朗は召集令状を受けたため、師匠・都家文雄に「嫁ハンと子供をよろしくお願いします」と頼んで、昭和20年3月2日に入隊し、朝鮮の山元へと出征していく。
人生幸朗は昭和20年8月15日に現地で終戦を迎え、その後は捕虜となる。
昭和21年11月1日に帰国する事が出来たが、虜生活で極度の栄養失調となっており、帰ってきた人生幸朗を見た家族は「直ぐに葬式をせなアカンのちゃうか」と思ったという。
戦争で全てを失った吉本興業は、解雇に納得しない花菱アチャコだけを残し、全ての所属芸人を解雇して演芸を捨て、「キャバレー・グランド京都」と映画館の経営で戦後の復興を開始していた。
このため、無事に帰国した人生幸朗は、志摩八郎・山崎正三・秋田Bスケ・妻の高田田鶴子で「青春ブラザーズ」という一座を組み、1年半の旅巡業に出た。
「青春ブラザーズ」は行く先々で人気になり、繁盛したが、次第に世間が落ち着いてくると、仕事も無くなってきたので、人生幸朗は「青春ブラザーズ」を解散して昭和23年に大阪へと戻ってきた。
それから間もなくして、人生幸朗は妻・高田田鶴子と師匠・都家文雄の不貞の噂を知ってしまう。
人生幸朗は出征するとき、師匠・都家文雄に「嫁ハンと子供をよろしくお願いします」と頼んでおり、頼まれた師匠・都家文雄は強制疎開を受けた高田田鶴子を自宅に疎開させていた。
しかし、師匠・都家文雄の相方(妻)は体が弱かったので、師匠・都家文雄は高田田鶴子を連れて漫才をするようになり、夜の面倒まで見ていたのだという。
人生幸朗が噂の真相を聞くに聞けずに困っていると、危険を察知したのか、師匠・都家文雄が「自主的に名前を返せ」と言ってきた。
このため、人生幸朗は師匠・都家文雄に「都家文蔵」という名前を返し、「敗戦後、復員するまで4回も死ぬような目に会うてるんです。せっかく生きのびられたんやから、嫌なことは全て水に流して新しい人生に出航したい」という思いから、「人生航路」という芸名を付けた。
(注釈:芸名は人生航路→人生香朗→人生幸朗と変化する。)
これを機に人生幸朗は、師匠・都家文雄とは絶縁し、妻・高田田鶴子にも「千守歌子」と改名させた。
しかし、一度ヒビが入ると、夫婦関係は元には戻らず、会えば喧嘩になるが、仕事をしなければ食べていけないため、別居しながら、仕事の時だけ、「人生航路(人生香朗)・千守歌子」として活動し。
ところが、昭和27年ごろ、妻・高田田鶴子が仕事の待ち合わせ場所に来なかったことから、「人生航路・千守歌子」としてのコンビも解散した。解散後、妻・高田田鶴子は前夫の元に戻った。
ただ、人生幸朗は「芸人はアレせなアカン」という主義で、毎日、妻の体を求めたので、事情を知らない人の間では「妻・高田田鶴子は夜の営みに絶えられなくなって逃げた」という噂が流れた。
さて、人生幸朗は2人目の妻・高田田鶴子と離婚した後、相方を変えながら漫才をしていたとき、3番目の妻・生恵幸子と出会うことになる。
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生恵幸子(本名は赤田松子)は、大正12年(1923年)9月25日に、大阪府大阪市東淀川区崇禅寺で、うどん屋の長女として生まれた。後に夫となる人生幸朗よりも16歳年下である。
生恵幸子は、漫才師をしている祖母の影響で踊りや芝居が好き好きになり、子供の頃から人前で歌ったり、踊ったりするのが好きだった。
学校の授業など真面目に受けず、友達と芝居の話ばかりしていたので、初めての通信簿に「この人は点のつけようがありません」と書かれたほどだった。
生恵幸子は、尋常小学校を卒業すると、天満座で半年ほどお茶子として働いたが、祖母の相方が召集されたので、相方の代わりに祖母と漫才をして、旅巡業にもでるようになった。
生恵幸子は16歳の時に、横山エンタツが可愛がっていたインテリ漫才師・北斗七星と結婚し、「庭野千草」という芸名で、夫の北斗七星とコンビを組み、夫婦漫才「北斗七星・庭野千草」として活動した。
昭和17年12月に長男を出産。翌年の昭和18年に長女を妊娠すると、生恵幸子は漫才を休業したので、夫の北斗七星は吉本興業に入り、ミヤコ蝶々と漫才コンビを組んだ。
生恵幸子は昭和18年9月に百日咳で長男を失ってしまうが、同年11月に長女を無事に出産する。
しかし、昭和19年の春に夫・北斗七星が徴兵され、生恵幸子は女手1つで長女を育てていくことになった。
昭和21年の春に夫・北斗七星が無事に帰ってきたので、再び夫婦漫才「北斗七星・庭野千草」を結成し、色々な一座に加わり、地方巡業を続けていた。
しかし、昭和27年に夫・北斗七星が肝臓を患って死去してしまう。戦時中に飲んでいた悪い酒が原因だという。
1人では漫才が出来ないため、生恵幸子は母親を頼り、しばらくは母に食べさせて貰っていたが、生活のために仲居として働くようになった。
しかし、仲居をしていたときも漫才をしたいという思いで一杯だったため、芸人が集まる天王寺村(てんのじ村)へ顔を出していた。
すると、ピンチヒッターとして漫才を頼まれた事もあるが、男性芸人から言い寄られることもあり、芸人の奥さんが焼き餅を焼いて、悪口を言われることもあった。
そのようななか、地元の崇禅寺に来ていた一座に、知り合いが何人か居たので、生恵幸子がヒロポンを差し入れに行くと、知り合いの松鶴家団次が人生幸朗が相方を探していると教えてくれたので、生恵幸子は「私で良ければ」と頼んだ。
人生幸朗は師匠と不貞を働いていた2番目の妻・高田田鶴子に厳しい態度で接していたので、事情を知らない生恵幸子は人生幸朗を恐ろしいおっさんだと思っていた。
一方、生恵幸子は女伊達らにはちまきを巻いて天王寺村(てんのじ村)で芸人仲間と賭博をしていたり、男性芸人から言い寄られてることもあったので、家庭を壊す女だという噂があり、
人生幸朗も生恵幸子を嫌っていた。
しかし、何の因果か、生恵幸子と人生幸朗は、こうして漫才コンビを組むことになったのである。
人生幸朗は、仕事があるのでネタ合わせをするから来るようにという葉書を生恵幸子に送り、生恵幸子とのコンビを承諾し、2人はネタ合わせをしてから、舞台に立った。
このとき、生恵幸子は前夫の時に使用していた「庭野千草」をそのまま名乗っていたので、「人生航路・庭野千草」というコンビ名だと思われる。
そして、2回目のネタ合わせのとき、人生幸朗は旅館でネタ合わせをすると言い、生恵幸子を旅館に連れて行き、ネタ合わせが終わって生恵幸子が帰ろうとすると、人生幸朗が生恵幸子に襲いかかった。
生恵幸子は、そんな気が無かったので、人生幸朗を突き飛ばし、「兄さんを信用して付いてきたのに、卑怯やおまへんか」と怒ると、人生幸朗は手を出すのが早すぎたと思ったのか、情けない顔をしていた。
それ以降、人生幸朗は生恵幸子に手を出さなかったが、ネタ合わせが終わって生恵幸子が帰るとき、いつも駅まで付いてきて、生恵幸子が駅に入ると、人生幸朗はトボトボと帰って行った。
ところが、コンビ結成から3ヶ月後、人生幸朗がある人の家に居候しているとき、居候している部屋で再び生恵幸子を襲った。
今度は生恵幸子も覚悟が出来ていたので、「責任取ってくれるか?」と問いただすと、人生幸朗は「ふん」と答えた。
生恵幸子が「子供の生活費3000円、送ってくれるか」と尋ねると、人生幸朗は「ふん」と答えた。
生恵幸子が何を聞いても、人生幸朗は「ふん」としか答えないが、兎にも角にも生恵幸子が承知したということで、人生幸朗は居候している部屋の押し入れに生恵幸子を連れ込んで体を求めたのである。
その日から、生恵幸子は崇禅寺の実家には帰らず、娘を母親に預け、人生幸朗と結婚して暮らすようになった。
当時の芸人の結婚は、一般的な結婚とは少し違い、仕事の相方をつなぎ止めておくために結婚するという意味合いが強く、芸人同士の結婚や離婚が頻繁に行われていた。
ただ、生恵幸子は性格がキツイということで有名だったので、平和ラッパは人生幸朗が生恵幸子と結婚したと聞いても信じられず、弟子を派遣して、本当に結婚したのか確かめに来た。
しかし、生恵幸子は結婚した後に、人生幸朗に年齢を尋ねると、人生幸朗は48歳と答えたので、生恵幸子は16歳も年上だったことに驚き、「騙された」と言ったが、人生幸朗は知らん顔をしていた。
2人は、結婚したので、いつまでも居候ではいけないと思い、山王町二丁目の長屋の2階を借りて移り住んだ。家賃は月3000円で、敷金は1万8000円だった。2人は、知り合いに仕事を譲って貰って、何とかお金を工面した。
ところで、2人の結婚については、「生恵幸子が前妻・高田田鶴子を追い出して人生幸朗と奪い取った」とか、「若い嫁さんを貰うために、前妻・高田田鶴子を追い出した」という噂が流れていたため、2人は悪者にされ、仕事をまわして貰えなかった。
このため、ほとんど仕事が無く、人生幸朗と生恵幸子は、1日2食にしても、週に3日は食事ができないという貧乏暮しが1年半も続いた。
当然、約束の養育費3000円を払っていないので、実家に預けてある長女が学費を取りに来るのだが、長女が来ると、生恵幸子は押し入れの中に隠れ、人生幸朗は家から逃げ出すという有様だった。
それでも、松鶴家団次がツケでヒロポンをまわしてくれたので、人生幸朗と生恵幸子は、食べる物を買うお金が無くても、ヒロポンだけは切らしたことがなった。
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昭和30年(1955年)5月4日に人生幸朗の父が死去した。人生幸朗は長男なので、父親の葬儀を出したいが、金が無いので、生恵幸子に金を借りてくるように頼んだ。
しかし、既に方々から借金をしており、生恵幸子にお金を貸してくれるような人は居らず、生恵幸子はお金を借りられなかった。
怒った人生幸朗は、生恵幸子に手を挙げ、生恵幸子の顔が腫れ上がる。その顔を見た松鶴家団之助の奥さんが、1万円を貸してくれたので、後はどうにかして都合を付け、3万円で葬式を出すことが出来た。
ところで、人生幸朗と生恵幸子は、父親の通夜の日に余興の仕事しており、この余興の依頼主である「戎橋松竹」の藤本頭取が、通夜なのに出演してくれたことに感謝して、2人に10日間の出演を依頼してきた。
これまでは大した仕事が入っていなかったので、名前など気にする必要も無かったが、「戎橋松竹」は檜舞台なので、人生幸朗は名前を付けることにした。
生恵幸子は、未だに前夫・北斗七星とのコンビで使用していた「庭野千草」という芸名を使用していたので、人生幸朗は「亭主に死に別れた女が、生まれ変わって幸せになる」という意味を込めて「生恵幸子」という名前を付けた。
人生幸朗も、これまでは「人生航路」もしくは「人生香朗」を使用していてが、「幸せを求めて朗らかに生きよう」という意味を込めて、「人生幸朗」へと改名した。
こうして、「人生幸朗・生恵幸子」が誕生して、檜舞台に立つようになると、これが運の付き始めとなり、次第に仕事も舞い込むようになってきた。
しかし、生恵幸子は人生幸朗と芸風が違うこともあり、厳しい日々が続いた。
人生幸朗の前の相方、つまり、2番目の妻・高田田鶴子は、漫才が上手だったので、生恵幸子は2番目の妻・高田田鶴子と比較され続けることになったのであ。
浅田寿郎の妻が、わざわざ、やって来て、「人生はん、よう、この子とやってはるな」と言いに来たこともあった。
しかも、ヒロポンの取締がきつくなっていき、ヒロポンを打たなくなっていたので、後遺症なのか人生幸朗は同じ事を何度も言ったり、性格も厳しくなっており、生恵幸子は人生幸朗から漫才のことで激しく叱責されることも多かった。
当然、出番は前の方で、仕事が入るようになったとは言え、生恵幸子には苦しい日々が続いた。
昭和31年1月に「戎橋松竹」が閉鎖したため、「戎橋松竹」に出演していた芸人は「千土地興業」に移ったので、「人生幸朗・生恵幸子」も「千土地興業」に移った。
「人生幸朗・生恵幸子」は初めての専属契約で、契約金5万円、ギャラは1日で約1万7000もくれた。2人は「こんなにくれるのか」と驚いた。
さて、「戎橋松竹」に出るようなった頃には、漫才が受けるようになっており、出番も最後から2番目に出世。生恵幸子は「戎橋松竹」時代のように楽屋で遠慮する必要が無く、楽しい楽屋を過ごすようになっていた。
人生幸朗は、世話好きだったこともあり、旭電気から潔癖な性格を信用され、旭電気の家電を芸人にローン(月賦)で販売する窓口になっていた。
(注釈:人生幸朗は支給された交通費が多いと、怒って返すほど潔癖な性格だった。)
芸人がローン(月賦)を組むのは難しい時代だったが、旭電気は値引きしてくれるうえ、ローン(月賦)の保証人も必要なかったので、芸人は人生幸朗に家電製品を世話してもらっていた。
一方、私生活では、借りていた山王町二丁目の長屋を立ち退かなくてはならなくなり、阿倍野のアパート「光洋荘」へと移り住んだ。
それから間もなくして、生恵幸子は妊娠したが、ようやく仕事が軌道に乗り始めたばかりなので、仕事を休むわけにはいかず、ごひいきさんからお金を借りて堕ろした。その後も生恵幸子は何度か妊娠したが、全て堕ろした。
これは生恵幸子が特別なのでは無く、舞台に立つ多くの女性は舞台を休むのが怖いので、妊娠しても堕ろしていたのだ。
しかし、生恵幸子は生活が安定してきたので、ようやく、母親に預けていた娘を引き取る事ができ、3人暮しが始まった。
さて、「人生幸朗・生恵幸子」は、昭和34年から「千日劇場」に出演するようになる。
この頃になると、生恵幸子は漫才の「間」を掴み、人生幸朗との息も合うようになっており、みやこ蝶々や玉松一郎が引きあげてくれたこもあって、「人生幸朗・生恵幸子」は昭和35年ごろから、トリ(一番最後の出演者)を取るようになった。
また、生恵幸子は、「千日劇場」時代に「この泥亀」「張り子の虎」と言ったツッコミを使用するようになり、このツッコミが受けるようになってきた。
ただ、この頃の人生幸朗は、非常に厳しく、恐ろしいことで有名だった。
大正時代に大阪の演芸界を制覇して吉本王国を築いた吉本興業は、戦争で全てを失い、戦後は演芸を捨て、米軍将校の慰安場「キャバレー・グランド京都」と映画館の経営で戦後の復興を遂げていた。
しかし、朝鮮戦争が勃発すると、日本から米軍将校が居なくなり、「キャバレー・グランド京都」を閉鎖。また、テレビの登場により、映画業界が低迷し始めていた。
このようななか、松竹が映画館にしていた角座を漫才の寄席として再開することになる。
吉本興業は、松竹に刺激され、演芸への復帰を決断し、昭和34年3月1日に「うめだ花月劇場」で、「吉本ヴァラエティ(後の吉本新喜劇)」の第1回として花菱アチャコの「アチャコの迷月赤城山」を上演して演芸に復帰した。
しかし、戦後の吉本興業に残った芸人は花菱アチャコだけという状況だったので、演芸に復帰した吉本興業は兎にも角にも芸人を集めなければならなかった。
このようななか、「千日劇場」でトリ(一番最後の出演者)を取る「人生幸朗・生恵幸子」も吉本興業の望月恵一郎からスカウトを受ける。
人生幸朗にとって吉本興業は、憧れの檜舞台だったが、人生幸朗は「千土地興業」に育ててもらった恩義があるといい、吉本興業からの誘いを2年間、断った。
しかし、3年目の契約更新前に、吉本興業の橋本鐵彦(橋本鉄彦)と望月恵一郎から「バスに乗り遅れたらアカン」「将来を考えろ」と言われ、人生幸朗は義理と将来の狭間で苦悩し末、「千土地興業」から「吉本興業」へ移籍を決断した。
こうして、「人生幸朗・生恵幸子」は昭和38年(1963年)6月に2度目の吉本興業に入ったのである。出番は最後から2番目へと下がった、契約金は10万円、ギャラは1日4000円と跳ね上がった。
人生幸朗は、これまで厳しい性格だったが、吉本興業という安住の知恵を得て以降、人が変わったように優しくなった(それでも、若手芸人から恐れられていた)。
これにより、漫才も円熟味を帯びてきて笑いの取れる「ぼやき漫才」が完成し、昭和40年ころから吉本興業でもトリ(一番最後の出番)を取るようになった。
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昭和44年(1969年)のラジオの深夜番組ブームから、吉本興業の若手「笑福亭仁鶴」「桂三枝」「やすき・きよし」が台頭し、演芸界に火が付いた。
「笑福亭仁鶴」「桂三枝」「やすき・きよし」は、「吉本興業の御三家」と言い、戦後の吉本興業の立て役者である。
その人気は凄まじく、人気の若手の出番が終わると、客の半分は帰ってしまうという状況で、ベテランには厳しい時代だった。ベテランのダイマル・ラケットは、「しんどいから、もっと早い出番にしてくれ」と弱音を吐いたという。
そのような状況でも、人生幸朗は看板に拘ってトリをとり続け、キッチリと客を笑わせた。漫才に関しては一歩も引かず、「やすき・きよし」を相手に激しく競り合った。
このようななか、昭和46年(1971年)10月9日に妻の生恵幸子が脳溢血で倒れ、入院を余儀なくされる。2ヶ月は入院しないといけないのだという。
漫才は2人でないと出来ないため、生恵幸子は人生幸朗に前の相方(2番目の妻・高田田鶴子)とコンビを組む代に勧めたが、人生幸朗は「馬鹿なこと言うな」と言った。
結局、生恵幸子は人生幸朗のことを考えると、ジッとしていることができず、医者に無理を言って1ヶ月で退院し、舞台へと復帰する。
吉本興業の会長・林正之助が「病人を連れているので、楽な舞台にしてやれ」と気をつかってくれたが、人生幸朗は「トリから外れたら吉本をやめる」と言いって聞かず、トリを務めた。
生恵幸子は病み上がりなので「15分で終わってな」と頼んでいたが、人生幸朗は舞台に立つと、そんな約束など無視して喋り続けた。生恵幸子は今にも倒れそうだったが、そんなことはお構いなしだった。
ところで、人生幸朗は「芸人はアレせなアカン」と言い、どんなに忙しい時でも、毎日のように妻の体を求めていた。娘が起きるから止めてと頼んでも、お構いなしなので、仕方なく身を委ねていた。
あまりにも回数が多いので、生恵幸子がカレンダーに赤丸を付けてみると、カレンダーが赤丸ばかりになった。娘が不思議に思って「何の日?」と尋ねたので、生恵幸子は慌てて「仕事の日よ」と答えた程だった。
さて、人生幸朗は65歳になっても、衰えを見せず、毎日のように妻の体を求めていたが、流石に生恵幸子も病気なので、断り、お店に行ってもらうことにした。生恵幸子がお店に予約の電話を掛けることもあったという。
ただ、人生幸朗は女性には奥手で、1人では店には1人では行けないため、生恵幸子は桂小文枝に「連れて行ってあげて」と頼んでいた。
ところで、人生幸朗は生恵幸子が入院している間に、ピン芸人として深夜番組「ナイトパンチ」に出演しており、これが若者に受けし、人生幸朗の「責任者出てこい」が流行語となる。
生恵幸子が退院して舞台に復帰すると、人生幸朗が深夜番組「ナイトパンチ」で受けていたこともあり、人生幸朗は女子高生から「可愛い」と言われてアイドル扱いされ、「1年間に400日働く」という多忙な時期を迎える。
こうして、「人生幸朗・生恵幸子」は昭和47年ごろから黄金時代を迎え、昭和49年には「上方漫才大賞」の奨励賞に選ばれる。
生恵幸子は初めての賞に喜んだが、人生幸朗は大賞を取れたと思っていたので、奨励賞には納得せず、「これは要らん。返す」と言い、賞金を返してしまった。
しかし、昭和52年(1977年)に「上方お笑い大賞」の大賞に選ばれ、その知らせを電話で受けた人生幸朗は感無量で涙を流した。このとき、人生幸朗は71歳だった。
人生幸朗は極度の病院嫌いだったので、滅多なことでは「しんどい」と言わない人だったが、昭和56年11月に珍しく体調不良を訴えたので、病院へ連れて行くと、医師から入院を勧められて入院することになった。
人生幸朗は慣れない入院でみるみるうちに痩せていった。そして、入院が嫌にだったらしく、2月に難波花月の仕事を勝手に入れてしまった。
医師は「流感が流行っている」と言って退院を止めたが、人生幸朗は聞かずに退院してしまう。
しかし、再び高熱を出して入院し、昭和57年(1982年)3月4日に死去した。享年76だった。一心寺で行われた葬儀には1000人以上の関係者やファンが参列したという。
生恵幸子は人生幸朗のことを「このおっさん、死んだら絶対、どついたるねん」と思っていたが、人生幸朗が居なくなって初めて、人生幸朗を愛していた事を自覚する。
生恵幸子は人生幸朗が死んだ後、3年間は泣きながら暮らしたが、4年目からは心の整理を付け、「生まれ変わっても、またお父さんに拾ってもろて、一緒に漫才をするつもり」と言い、人生幸朗が「本当の漫才や」と褒めて居た「いとし・こいし」のテレビを見て、漫才の勉強を始めた。
人生幸朗は生前、ボランティアで刑務所の慰問を行っており、生恵幸子は亡き夫の意思を受け継ぎ、刑務所の慰問を行っていた。
また、生恵幸子は、ときどき、コメンテーターの仕事などを受けていたが、次第にメディアからは遠ざかり、晩年は長期の入院生活を送って、平成19年(2007年)2月5日に死去した。享年85だった。
なお、吉本興業の関係者の生涯を知りたい方は、「わろてんか-吉本せいの関係者の立志伝」をご覧ください。
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