べっぴんさん-KADOSHO(カドショー)と古門充信のモデルとエイス倒産と丸紅

朝ドラ「べっぴんさん」に登場する総合商社「KADOSHO(カドショー)」の実在のモデルとエイス(AIS)の倒産についての実話です。

KADOSHOと古門充信のあらすじ

昭和44年、坂東すみれ(芳根京子)らが創業した子供服メーカー「キアリス」は創業20周年を迎える(おそらく、第1話の冒頭シーン)。

このころ、エイス(AIS)の社長・岩佐栄輔(松下優也)は、エイスを日本一のファッションブランドへと成長させ、時代の寵児となっていた。

そして、岩佐栄輔(松下優也)は、更なる飛躍を目指すため、大手商社「KADOSHO(カドショー)」の社長・古門充信を手を組んでいた。

なんと、岩佐栄輔(松下優也)は、大手商社「KADOSHO(カドショー)」の資本を受け入れ、エイスを世界一のファッションブランドに成長させようとしていたのである。

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KADOSHO(カドショー)と古門充信のモデル

エイスのモデルは、昭和30年代(1955年代)に一世を風靡した人気ファッションブランド「VAN」で、岩佐栄輔(松下優也)のモデルはVAN(社名はヴァンヂャケット)創業者・石津謙介です。

一方、大手商社「KADOSHO(カドショー)」のモデルは、総合商社「丸紅」です。丸紅は昭和44年(1969年)当時、「丸紅飯田」という社名で、総合商社の第3位の規模でした。

朝ドラ「べっぴんさん」では、エイスの岩佐栄輔(松下優也)が大手商社「KADOSHO(カドショー)」の資本を受け入れて世界一のファッションブランドを目指します。

一方、実話では、VANの創業者・石津謙介は、総合商社「丸紅」の資本を受け入れ、拡大路線を突き進み、倒産への道を歩むことになるので、その実話を紹介します。

エイスが倒産する実話

ファッションブランド「VAN」は当初、中高年向けの高級服だったが、VANの創業者・石津謙介が昭和32年(1957年)にアイビールックを取り入れ、アイビールックとしての「VAN」がスタートした。

そして、「VAN」は昭和34年(1959年)に、アイビールックを主力とした若者向けブランとへと転換した。

やがて、VANの石津謙介は「ファッションは女性のもの」という時代に、男性としてのファッションを普及させ、「メンズファッションの神様」「アイビールックの教祖」として、その名を轟かせた。

そして、昭和39年(1964年)にアイビールックと「VAN」は全盛期を迎えた。

昭和30年代後半に入ると、アイビールックに身を包み、「VAN」や「JUN」の紙袋を好んで持った若者たちが、東京・銀座の「みゆき通り」に現れるようになった。

昭和39年(1964年)、雑誌「平凡パンチ」の影響で、「みゆき通り」に現れた若者は増殖し、「みゆき族」と呼ばれて、社会現象となった。

しかし、みゆき族は、大人の街・銀座には似つかわしくない存在で、大人達から「銀座の乞食」として嫌われていた。

そして、昭和39年(1964年)に東京オリンピックを迎えていたことから、警察が摘発に動き、昭和40年(1965年)には「みゆき族」は消滅した。

また、このころ、学生運動の影響で、若者に「ヘルメット」「ゲバ棒」「ジーンズ」という「ゲバルト・ファッション」が流行し、若者のファッションはアイビールックからカジュアルへと転換していった。

このため、昭和40年代に入ると、アイビールックの流行は低迷していき、「VAN」の全盛期は終わった。

ところで、「VAN」は石津謙介の個人会社で学歴など関係無く、縁故採用も多かったのだが、石津謙介は昭和40年代に入ると、一般採用を開始し、社員を大量に採用し始めた。

石津謙介は拡大路線を取り、VANを個人会社から企業へと成長させていったのである。

このようななか、昭和43年(1968年)12月、週刊誌「週刊新潮」が石津一家の浪費と散漫経営を指摘する記事を書いた。この記事が引き金となる。

ところで、VANは毎年、2月から5月にかけて銀行から金を借りて、10月から12月かけて借金を全額返済し、残った利益を金庫にしまって年を越していた。借金したたまま年をまたいだことは無く、優良企業であった。

ところが、メーンバンクの三和銀行は、週刊誌「週刊新潮」の記事を見て、VANに対して融資停止を通達したのである。

突然の融資停止に驚いた石津謙介は、取引先の総合商社「丸紅」に融資を申し込み、丸紅から3億5000万円を借りた。

丸紅は、VANの会社の規模から5年で返済できるだろうと考えていたのだが、VANは昭和44年(1969年)9月から12月の4ヶ月で、丸紅から借りた3億5000万円を全額返済したのである。

これに驚いた丸紅は、VANを支配下に置くため、VANに触手を伸ばした。

VANの石津謙介は、「丸紅とは、単に金を貸し借りしているだけの関係」と考えていたのだが、丸紅の方は「大事な金づる」と考えており、丸紅の影響力は予想以上に強くなっていた。

石津謙介は、丸紅の支配に対向するため、三菱商事と伊藤忠商事の資本を受け入れ、ミリタリーバランスを保ち、丸紅の独裁を阻止した。

だが、VANは丸紅・三菱商事・伊藤忠商事の出向社員を受け入れたことにより、商社体制時代を迎えることになってしまった。

このころになると、石津謙介はVANという会社から心が離れて始めており、VANは商社体制の元で、大量生産・拡大路線を突き進んでいた。

VANは増産に増産を重ね、昭和46年(1971年)は年商97億円。その後も売上げを伸ばし続け、昭和50年(1975年)には年商452億円を記録した。

しかし、大量生産の影響で利益は低下したうえ、大量の在庫に苦しむようになっていた。

そして、昭和48年(1973年)の第1次オイルショックを機に通常のバーゲンセールでは在庫が処分できなくなり、頻繁にバーゲンセールを行い、VANは憧れのファッションブランドから、バーゲンセールの安売りブランドへと転落してしまった。

しかし、VANに株式上場の話しが持ち上がっており、VANの首脳陣は株式上場で意見が一致。社長の石津謙介は、1人で株式上場に反対し、株式上場は阻止した。

VANは昭和50年(1975年)には年商452億円を記録したが、創業以来初の赤字に転落しており、石津謙介は、副社長の長男・石津祥助に経営権を譲り、会社の経営から身を引いた。

ところが、赤字に転落したにもかかわらず、VANは「年商1000億円構想」「1都市1営業所構想」などを掲げ、拡大路線を続けた。もはやVANは暴走していた。

その一方で、クリエイティブな会社から、商社の主導によって企業へと転換したため、社員の自由度は低くなっていき、不満が続出しており、VANに労働組合が2つ誕生するなど、社内は混沌とした時代を迎えた。

このようななか、VANに「丸紅ショック」が走る。昭和51年(1976年)に、VANの経営母体の一角を占める総合商社「丸紅」の社長・檜山廣が、田中角栄の「ロッキード事件」に連座して逮捕されたのである。世に言う「丸紅ルート」である。

こうした事態を受けて、VANは副社長の長男・石津祥助ら経営陣が降格し、丸紅・三菱商事・伊藤忠商事・鐘紡の支援グループに自在を要請した。

こうして、昭和51年(1976年)に丸紅の根川博がVANの副社長に就任。昭和52年(1977年)には社長の石津謙介が会長に退き、丸紅の佐脇鷹平が社長に就任した。

VANは丸紅の主導で不動産処分やリストラを始めたが、暖冬の影響もあり、売上げが落ち込み、昭和53年(1978年)4月6日に社長の佐脇鷹平が東京地裁に会社更生法の適用を申請した。

負債総額は500億円、当時のアパレル業界としては最大の倒産で、戦後の大型倒産としては5番目の規模だった。

VANは、丸紅・三菱商事・2つの労働組合が泥沼の争いを繰り広げた末、昭和53年(1960年)10月12日に破産宣告を受けた。負債総額は350億円だった。

こうした実話を考えれば、朝ドラ「べっぴんさん」に登場するエイス(AIS)の社長・岩佐栄輔(松下優也)は会社を倒産させ、大手商社「KADOSHO(カドショー)」の社長・古門充信もロッキード事件で逮捕されるという結末を迎えるのかもしれない。

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