NHKの朝ドラ「わろてんか」のモデルとなる吉本興業の創業者を描く立身伝「吉本せいの生涯」の第9話「花月の命名と由来」です。
第9話より前については目次「「わろてんか」の実話「吉本せいの生涯」」から選んでください。
吉本興行部(吉本興業)の創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、明治45年(大正元年)4月1日に寄席の経営を開始し、大正2年に南区笠屋町で「吉本興行部(吉本興業)」を設立。大正3年には4店舗の寄席を買収し、寄席のチェーン展開を始めた。
勢いに乗る吉本泰三は、大正3年に通天閣の展望台から天下を眺め、「大阪中の寄席を吉本の寄席にして、通天閣の天辺から眺めたい」という野望を妻の吉本せい(林せい)に語る。
そして、演芸の中心地である法善寺裏へ進出するための足場固めとして、吉本泰三は大正3年6月に吉本の寄席を「花月亭」と名付けるのである。
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吉本興業のブランド名となる「花月」は、趣味で易を見ていた落語家の桂太郎が考えたというのが通説になっている。
吉本せい(林せい)が、落語家・桂太郎に占ってもらったところ、「花と咲くか月と陰るか、すべてを賭けて」という易が出たため、「花も月も使おう」ということで「花月」と名付けたのだという。
しかし、「花月」の由来には、もうひとつ説がある。
吉本泰三と吉本せい(林せい)が法善寺をお参りしたとき、おみくじを引いた。このおみくじに「花は散ってもまた咲き、月は欠けてもまた満ちる」という意味のお告げが書いてので、「花月」と命名したという説である。
吉本興業の資料は、第二次世界大戦中の大阪大空襲で全て燃えているため、「花月」の由来は、この2説のうち、どちらのが正しいのかは分からない。吉本興業自身も、「花月」の由来については、どちらの説が正しいのか分からないというスタンスを取っている。
吉本興行部(吉本興業)の吉本泰三は、自前の芸人を抱えておらず、盟友・岡田政太郎の「反対派」と提携し、反対派の芸人を派遣してもらっていた。
このため、吉本興行部(吉本興業)は、寄席の経営だけに専念することができ、寄席の経営を早々に軌道に乗せて複数の寄席を取得して、チェーン展開を開始することが出来た。
そして、吉本泰三は、寄席のチェーン展開を開始すると、天下統一の野望を強め、その実現に向けて動きは始める。
まず、吉本泰三は、演芸のメッカ法善寺裏へと進出を目指す足場固めとして、吉本の寄席を「花月亭」と名付け、地名の後に花月を付け、「○○花月」という名前で寄席の名前を統一し、天満の「文芸館」を「天満花月」、松島の「芦辺館」を「松島花月」、福島の「龍虎館」を「福島花月」と改称した。
継いで、吉本泰三は、三友派の実力者・三升家紋右衛門を月給500円で引き抜いて、吉本興行部の専属として自前の落語家を抱えた。
サラリーマンの月給が40円、1000円で家が建ったので、月給500円と言えば大金だが、これが良き宣伝となり、三友派の実力者である桂文枝・桂家残月・桂枝太郎・橘家圓太郎などが吉本興行部(吉本興業)と専属契約を結んだ。
こうして、足場を固めた吉本興行部(吉本興業)の吉本泰三は、天下統一に向け、演芸のメッカである法善寺裏へと進出を目指すのだった。
「桂派と三友派の対立-吉本興業が金沢亭を買収」へ続く。
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