「スキャンティー」で下着革命を起こした「チュニック」の創業者・鴨居羊子(かもいようこ/本名は鴨居洋子)の立志伝です。
鴨居羊子は、大正14年(1925年)2月12日に大阪府豊中市で、新聞記者の鴨居悠(かもい・はるか)の長女として生まれた。母は鴨居茂代である。
父方の鴨居家は、鎌倉の武士の家系だったが、戦で敗れて長崎県平戸市へと落ち延びて土着し、長崎県平戸市の平戸藩松浦家に仕えていた。
父・鴨居悠は長崎県の出身で、京都帝国大学(京都大学)の文学部英文科を卒業して、大阪毎日新に就職し、フランス・イギリス・ドイツで特派員、単身赴任でパリの支局長を務めた。
鴨居羊子は、父親が「洋行帰り」に生まれたことから、「鴨居洋子(本名)」と名付けられた。
しかし、鴨居羊子は、動物好きがこうじて、新聞社時代に「さんずい」を取り、「鴨居羊(かもい・ひつじ」を名乗り、その後「鴨居羊子」を使用するようになる。
さて、昭和3年、鴨居羊子は3歳の時に、父・鴨居悠の転勤に伴い、石川県の金沢へと引っ越し、金沢で野山を駆け巡り、野生児として育った。
母親が「そんなに行儀が悪くて、お嫁に行ったらどうするの」と叱ると、鴨居羊子は母親不信になり、「そんなら、お嫁さんにゆかんとけば、行儀がわるくてもいいのね」と言い、わざと足で障子を開けるような子供だった。
その一方で、父・鴨居悠は、無類の酒好きで、芸術家の友達を自宅に招いて酒を飲んでいたことから、鴨居羊子は自宅に来ていた芸術家の影響を受け、絵を描くようになっていた。
さて、鴨居羊子は11歳の時に父・鴨居悠の転勤に伴い、朝鮮の京城(韓国のソウル)に引っ越し、16歳の時に父・鴨居悠の転勤で大阪へ戻り、豊中高等女学校に転入した。
鴨居羊子は頭は悪くなかったが、普段は勉強しないという気まぐれな性格で、授業中は窓の外を眺めるか、変な人形の絵を描いていた。
昭和17年、当時の女性の進学率は低かったが、鴨居羊子は父・鴨居悠は勧めにより、大阪府立女子専門学校(大阪女子大学)の国文科へ進学した。
国文科へ進学した理由は、友達が国文科へ進学するというので、なんとなく決めたという。
しかし、鴨居羊子は、授業をそっちのけで絵ばっかり描いており、「本当にもったいない3年間でした」と、国文科へ進学したことを後悔している。
さて、家族は父・鴨居悠の転勤により、金沢へと引っ越すが、鴨居羊子は大阪に残り寮生活を送った。
やがて、戦況が悪化すると、鴨居羊子は学徒動員で借り出され、鐘紡(カネボウ)の工場で戦闘機の部品を作っていたが、昭和19年(1944年)9月に繰り上げ卒業した。
鴨居羊子は、画家か彫刻家になりたいと思っていたいが、諦めて、金沢に居る家族の元へと帰り、父親が務める北国新聞社に入社した。
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鴨居羊子は金沢で初恋をしていたのだが、両親の反対により、失恋してしまう。大好きだった兄・鴨居明も出征してしまう。
こうした失恋や兄の出征の影響か、鴨居羊子は、当時、迫害されていたカトリック教に入信し、昭和20年(1945年)5月20日にカトリック金沢教会で洗礼を受けた。霊名は「マリア・テレジア・ジャンヌ・ダーク」である。
鴨居羊子はカトリック教に入信した頃、父親に見合いをさせられた。相手は医者だったが、見合い相手に宗教のことばかりを話して、断られるように仕向け、無事に相手から見合いを断られた。
そして、洗礼を受けた3ヶ月後の昭和20年(1945年)8月に、鴨居羊子(20歳)は金沢で終戦を迎えた。
戦後の昭和24年(1949年)に父・鴨居悠が死ぬと、鴨居家は無一文になった。香典で借金を返済するという有様だった。
兄・鴨居明はレイテ島で戦ししており、弟・鴨居玲は売れない画家だった。
そこで、鴨居羊子は母と弟を支えるため、昭和25年に父親の友人だった大阪朝日ビルの社長・小早川彦一を頼って単身で大阪へ出て、新関西新聞という小さな夕刊紙に校正として入社した。
さて、当初は小早川彦一の家に居候していたが、半年後にある家の2階2間を借り、母と弟を呼び寄せた。給料が1万5000円のときに、家賃は2間で5000円だった。
やがて、鴨居羊子も記者となり、大勢の人と出会った。外務大臣・重光葵や総理大臣・芦田均にもインタビューしたこともあった。
そうした一方で、鴨居羊子は先輩記者・森島瑛と共に、大阪の教会に通っていたが、教会内の政治に嫌気がさし、いつしか、教会を止めてしまった。
この森島瑛は、後に設立する下着メーカー「チェニック」の専務を務め、鴨居羊子の事実上の夫となる人物である。
そのようななか、昭和26年、大手の読売新聞が大阪に進出して記者を募集したので、鴨居羊子は森島瑛と共に大阪読売新聞へと移り、学芸課のファッション担当記者となった。
しかし、大阪読売新聞の幹部連は官僚的で、記者はサラリーマン化されており、半年もしないうちに嫌気がさすようになってしまう。
鴨居羊子は、大山昭子・司馬遼太郎・今東光・山崎豊子・石津謙介・岡本太郎・花森安治など様々な人と出会って交流を深める一方で、人見知りが激しかったため、初対面の人に会うことが苦痛になっていき、次第に記事が書けなくなっていった。
このころ、人間不信となった鴨居羊子が交流していたのは、路地裏の野良犬や野良猫で、野良犬らとの交流を原稿に書き留めており、昭和33年に「のら犬のボケ」として出版した。
鴨居羊子は、黒い服を着ておけば、母親の機嫌が良かったので、記者時代は母親のために、黒いスーツと黒いスカートという格好が多かった。
ある日、鴨居羊子は心斎橋の小さな店で、小さな花柄がプリントされたピンクのガーターベルトを発見した。
鴨居羊子の給料は1万7000円で、家族3人が食べていた時代に、ピンクのガーターベルトは1500円もしたが、鴨居羊子は思い切って購入し、帰宅すると、宝物を見せるように、母親にピンクのガーターベルトを見せた。
すると、母・鴨居茂代は「まあ、そんな美しいものは、よそゆきのためにしまっておきなさいよ。お嫁にゆくまでしまっておくんですよ。それがたしなみというものです」と小言を言い出した。
しかし、鴨居羊子は母親に反抗し、ピンクのガーターベルトをタンスの奥にはしまわず、翌日から着用した。
すると、スカートをめくる度にピンクの世界が開けてくるようで、トイレへ行くのが楽しくなったという。
これ以降、母・鴨居茂代の下着に対する小言は10数年に渡って続き、鴨居羊子は母親に抵抗して下着を賛美するようになった。
こうした母親への反発が、後に鴨居羊子の下着のデザインの原動力となるのだった。
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昭和29年(1954年)に交際していた森島瑛が大阪読売新聞を辞めた。産経新聞の司馬遼太郎は、森島瑛を「彼は最後の新聞記者だった」と評した。
それから半年後の昭和29年9月、鴨居羊子(29歳)は、批判するよりも、物を作る方になりたいと言い、大阪読売新聞を辞めた。
鴨居羊子は母親に内緒で会社を辞めており、辞めた後も普段通りに家を出て街をさまよい、やがて下着を作ることにしたのだった。
当時の下着についての概念が現代とは違うので、鴨居羊子が下着作りを開始する前に、下着の歴史を簡単に紹介する。
日本の女性は和服を着ていたので、長襦袢や半襦袢などを下着として着用しており、パンティーのような下着は着用していなかった。
一般的に、女性がズロース(下着)を着用するようになったのは、昭和7年12月に起きた白木屋の火災が切っ掛けとされるが、実際に日本の女性が下着を着用するようになるのは戦後、女性が社会進出するようになってからである。
さて、戦後の昭和25年(1950年)に繊維の統制が解除され、繊維業界の動きは活発になった。さらに、朝鮮戦争の特需により、繊維業界は「ガチャマン景気」と呼ばれた好景気に沸いた。
そのようななか、和江商事(ワコール)が高島屋京都店に女性下着売り場をオープンし、下着メーカーも活発に動き始めた。
そして、クリスチャン・ディオールのファッションショーにより、下着の重要性が認識され始め、和江商事(ワコール)は昭和27年に大阪の阪急百貨店で、日本初の下着ショー「おしゃれ教室」を開催した。
下着ショーは、ブラジャーやコルセットを着けた女性に、ランジェリーや洋服を着せていき、洋服を美しく着るための下着教室のようなものだった。
当時は下着は秘められた物であり、男子禁制でも、「恥ずかしい」ということでモデルのなり手が居らずに困るほどだった。
下着ショーは、マスコミから「逆ストリップ」と揶揄されるほどだったが、和江商事(ワコール)は大成功し、全国各地で下着ショーを開催した。
昭和28年には、田中千代やクリスチャン・ディオールが下着のファッションショーを開催する。
昭和29年には、伊東絹子がミスユニバース3位に入賞して、日本人でも世界に通用する事が分かった。
そして、昭和29年末からの神武景気を背景に、経済的ゆとりが出来はじめたことから、服で精一杯だった女性が、ようやく下着を購入するようになり始めた。
しかし、まだブラジャーは普及しておらず、この頃の下着は洋服を綺麗に着るための補整下着であり、下着と言えば白であり、洋服のための下着だった。
さて、もう1つ下着と密接に関係があるのが「お風呂」である。
毎日、お風呂に入るようになるのは、高度成長期に内風呂が普及して以降である。昭和30年代は銭湯へ通うのが一般的で、お風呂に入るのは3日に1度くらいだった。
下着を毎日、履き替えるようになったのは、最近のことで、昭和30年ごろは、お風呂に入る時に、下着を交換するという感じだった。
そのような時代に、大阪読売新聞を辞めて街をさまよっていた鴨居羊子は、下着を作ることにした。
鴨居羊子は下着を作るために大阪読売新聞を辞めたのではなく、辞めた後に下着を作ることに決めたようだ。
下着を作ることにしたのは、衣服を研究していた恋人・森島瑛の助言とも言われる。森島瑛は「チュニック」の専務取締役となるのだが、鴨居羊子の実質的な夫であり、実質的な「チュニック」の社長ともいわれる。
さて、下着を作ることにした鴨居羊子は、まず下着の個展を開こうと考え、退職金2万円余りを手にして、東洋レーヨン(東レ)を訪れた。
このころ、下着の素材はメリヤスだったが、メリヤスは着心地が悪かった。
そこで、記者時代に東洋レーヨン(東レ)の新素材「ナイロン」を取材したことのある鴨居羊子は、この新素材「ナイロン」を使って下着を作ろうと考えたのである。
繊維メーカーは小ロットの顧客など相手にしないのだが、東洋レーヨン(東レ)の繊維部長は、鴨居羊子に生地の仕入れルートとして、一流商社を紹介してくれた。
こうして「ナイロン」を手に入れた鴨居羊子は、友達・小野寺篤子のアパートで「チュニック制作室COCO(ココ)」を立ち上げ、ガーターベルトの制作を開始したのだった。
やがて、母親と弟に仕事を辞めたことがバレてしまい、母・鴨居茂代は叱責した。売れない絵描きの弟・鴨居玲も常識くさい目をして鴨居羊子を責め立てた。
しかし、鴨居羊子は肉親には詳しく話せない性格だったので、やろうとしている仕事の内容を話せなかったため、家庭内は険悪な様相のまま月日が流れた。
このころ、弟・鴨居玲は思うように絵が描けず、カンバスをわざとデバポーチョーで音たてて破っており、うっかり手出しすると、殺されそうな殺気をたてていた。
このため、鴨居羊子は朝を迎える度に、「今日一日家の者がだれも怒りの言葉をはかないことが、わが家の平和を辛うじて保証するんだ」と願い続けた。
さて、鴨居羊子は仕事のことは母親に話していなかったが、ある日、なぜか、母親が弁当を持って、チュニック制作室(小野寺篤子の部屋)を訪ねてきて、小野寺篤子に礼を強い、制作費の足しにして欲しいと言い、帯の間から1万円を取り出して渡した。
鴨居羊子は、部屋の窓から、帰っていく母親の背中を見送り、何も言えずに、ただ悲しんだ。
さて、鴨居羊子は、生活費や縫い子のアルバイト代を捻出するため、美容師の制服を制作したり、化粧品会社の広告文を考えたりした。
しかし、売った商品の代金が入ってこず、端布を買うことも出来なくなってしまい、産経新聞の司馬遼太郎に助けを求めた。
すると、産経新聞の司馬遼太郎、毎日新聞の山崎豊子、彫刻家・大山昭子らがカンパをしてくれ、鴨居羊子は昭和30年(1955年)12月に大阪の「そごう」で個展「Wアンダーウエア展」を開催することが出来た。
このとき、鴨居羊子は、知人や知名人に案内状を送り、個展の開催前日の毎日新聞に8万円をかけて広告を掲載した。この個展は開催に計30万円以上をかけた大勝負だった。
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「下着は白色にかぎるときめこんだり、ひと目につかいようにと思ったり、チャームな下着は背徳的だと考えたり、とかく清教徒的な見方が今までの下着を支配してきたようです。こうした考え方に抵抗しながら、情緒的で機能的なデザイン、合理的カッティングなどをテーマに制作してみました。」
鴨居羊子は、司馬遼太郎や山崎豊子からの支援を受け、昭和30年(1955年)12月に大阪の「そごう」で個展「Wアンダーウエア展」を開催した。「W」は「ウーマン」の略である。
当時、下着といえば白が相場だったが、鴨居羊子は旧態依然とした下着の概念を打ち破り、個展「Wアンダーウエア展」で、面積の少ない下着「スキャンティー」を始め、「ペペッティ」「クロスティ」「パチコート」など、色とりどりの下着を発表した。
当時、下着をデザインするデザイナーは居たが、下着専門のデザイナーは鴨居羊子が日本初である。
元新聞記者という経歴も手伝ってか、大勢の記者が取材に来てくれ、ほとんどの記者は個展を仕事として評価してくれ、好意的に取り上げてくれた。
しかし、一部の記者は新聞記者は「スキャンティー」を「スキャンダラスなパンティー」の略などと報じたり、旧来依然とした下着の概念で、「家庭でもいろいろ工夫して、上着をより美しく、効果的に生かす下着を作ってはどうでしょうか」と書く記者もいた。
(注釈:「スキャンティー」は「少量の」を意味する英語「scanty」が語源である。)
鴨居羊子は個展「Wアンダーウエア展」を開催してから、初めて収支を計算したのだが、展示している下着を売っても赤字だったので、注文を取り、クリスマスまでに郵送することにした。
そのようななか、鴨居羊子に救世主が現れた。
このころ、「ジャズ喫茶」など「○○喫茶」が流行しており、大阪では「ヌード喫茶」が流行していたのだが、鴨居羊子の個展開催3日目に、警察が「ヌード喫茶」の摘発に動いた。
このため、大阪市内の「ヌード喫茶」を経営する約40業者が対策委員会を作った。その対策委員の1人が偶然、鴨居羊子の個展に並んでいた派手な下着を観て、「これなら女の子を裸にしなくても客が来る」と喜んだのである。
1時間後、この対策委員が仲間を率いて鴨居羊子の元を訪れて、「これで警察もOKや」と言い、私たちを救って欲しいと懇願した。
すると、鴨居羊子は「肌をかくしても色気のある服装はできます。それが女の衣裳というものやわ」と言い、「ヌード喫茶」の衣装を引き受け、新聞記者に対して「肌の露出で、エロやワイセツの度は、はかられません」と言い放った。
こうして、大口注文が入ったので、鴨居羊子は借金を負わずにすみ、個展が終わると、「ヌード喫茶」の衣装を作って納めた。
しかし、そう上手くはいかず、「ヌード喫茶」の1業者は、衣装代20万円を気前よく払ってくれ、その後も10数年間の付き合いとなるのだが、もう1業者は集金に行っても衣装代10万円を払ってくれず、逆に鴨居羊子は怖い思いをして帰っている。
この「ヌード喫茶」との出会いは、後に開催する鴨居羊子の下着ショーに大きな影響を与えることになる。
昭和31年(1956年)、鴨居羊子(31歳)は年が明けると早々に、飛躍と心機一転のため、事務所を探し始めた。
このころ、友達のデザイナー本田慶子が、周防町筋にある木造2階建ての松原ビルにオフィスを借りていたので、鴨居羊子は本田慶子のオフィスに遊びに行っていた。
すると、本田慶子は、松原ビルに部屋が空いていると言い、鴨居羊子に借りるように勧めた。
空いていた部屋は、わずか1坪(2畳)の部屋だが、ちゃんと座れる。都心に事務所を持つことには大きな意味があるので、この部屋を事務所にして、職場は安いところを借りればいいと言うのだ。
こうして、鴨居羊子は本田慶子の助言を受け、松原ビルの2階4号室を借りて「チュニック制作室」のオフィスを構えた。家賃は6000円、わずか1坪(2畳)の部屋だった。
家主は「4は縁起が悪いので変えても構わない」と言ったが、鴨居羊子は古い縁起を自力で良い縁起に変えようと思い、そのまま「4号室」とした。これが「4」との運命の出会いだった。
さて、鴨居羊子は縫う技術は無く、縫う場所もないので、自宅で縫ってくれる優秀な縫子を雇い、個展に出した作品の数点を商品にして、「チュニック制作室」の営業を開始した。
鴨居羊子は、日本製品の「安かろう悪かろう」から脱却するため、縫子の工賃を2割上げると、商品の質が4割も向上した。
すると、当然、売値は4割から5割はアップしたが、さいわい、顧客は1坪のオフィスに足を運んでくれ、若い女性を中心に下着が売れていった。
どのような客がチュニックの下着を買っていったのかは分からないが、「色つきの下着は娼婦の下着」と言われた時代だったので、主な客は商売女だったと思われる。
一方、小売店の方は、下着の専門店(ランジェリーショップ)は登場しておらず、下着は服屋や布団や雑貨の脇で販売されていた。
鴨居羊子が小売店に営業に行くと、小売店の店主は横柄な態度で、一切、新しい下着の価値を認めてくれなかった。
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鴨居羊子は、芸術家では無く、メーカーとして「チュニック制作室」を始動しており、商売として下着を制作していた。
後に藤本義一と対談したとき、藤本義一が「作品」と呼ぶと、鴨居羊子は「商品」と訂正しており、芸術家ではなく、下着メーカーとしての立場を明確にしている。
そして、日本製品の「安かろう悪かろう」から脱却するため、商品の値段は高くなっても、品質を上げ、それを認めてくれる人を相手に商売すれば良いと思っていた。
さて、鴨居羊子が個展「Wアンダーウエア展」を開催した翌年の昭和31年にクリスチャン・ディオールの「Aライン」が流行した。
さらに、女性の下着についての啓蒙的な記事が新聞や雑誌で数多く掲載されるようになり、昭和31年に「第1次下着ブーム」が起きた。
「チェニック」は、初めは5万円程度の売り上げで、材料費や工賃を支払うのに精一杯だったが、4月になって売り上げが急増し、5月には物置小屋を借りて工場とした。
鴨居羊子は、こうした「第1次下着ブーム」の波に乗り、昭和31年5月には早くも、阪急百貨店に進出する。
交流のあった石津商店(ヴァンヂャケット)の石津謙介が、阪急百貨店を紹介してくれ、阪急百貨店に出店している舶来雑貨店「サノヘ」が7掛けで商品を買い取ってくれることになったのである。
鴨居羊子は「7掛け」の意味が分からず、100円の商品を700円で買い取って貰えるのかと思ったが、石津謙介が「0.7を掛けてごらん」と教えてくれた。
鴨居羊子は、商品を7割の値段で売ってしまって、自分たちの利益はどこから出るのだろうかと不思議に思い、石津謙介に尋ねようとしたが、言葉を飲んで、自分たちで考えることにした。
その後、「チュニック制作室」は、昭和31年11月に東京・銀座3丁目の洋服店「三枝商店」の目にとまり、「三枝商店」を介して、東京の百貨店にも進出し、売り上げを拡大していくのだった。
昭和31年に7色のパンティーをセットにした「ウイークリー・パンティ」が大流行した。「ウイークリー・パンティ」というのは、毎日、違う色のパンティーを履くというコンセプトである。
この「ウイークリー・パンティ」が日本初のパンティーらしい。「ウイークリー・パンティ」の流行により、各社が7色のパンティーを販売するようになり、女性の下着は「ズロース」から「パンティー」へと変わっていくことになる。
「ウイークリー・パンティ」「七色パンティー」を考案したのは、鴨居羊子だとしている資料があるが、鴨居羊子の考案ではなさそうである。
とにもかくにも、経済白書が「もはや戦後ではない」と結んだ昭和31年に、「スキャンティー」や「ウイークリー・パンティ」によって、女性の下着は大きな転換点を迎えたのである。
こうして、デパートに色とりどりの下着が売られるようになってくると、女装の編集長として有名な雑誌「暮しの手帖」の花森安治は、「百貨店の下着売場は、婦人を娼婦にするつもりか?色もの下着はけしからん。売場を人目につかぬようにせよ。下着は白で洗濯性があればよい」と批判した。
これに対して、鴨居羊子は、花森安治が立体的な下着を平面において商品チェックしたことを批判したという。
鴨居羊子のトレードマークは「金髪」である。いつごろ髪を染めるようになったのかは不明だが、昭和31年(1956年)には髪を染めていたようだ。
最初は「赤」で、その後「金髪」にしたようだ。金髪に染めた理由は、ライオンの気持ちになりたかったというものらしい。
その後、飼い犬「鼻吉」と同じように、「金茶」に染めた。
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昭和4年に松岡錠一が日本初(国産初)のブラジャーを製造。昭和22年に戦後初のブラジャーが誕生していたが、昭和30年になってもブラジャーは普及しておらず、女性も下着に関する知識をもっていなかった。
このため、昭和31年ごろから、女性用下着を啓蒙する記事が数多く掲載されるようになっており、鴨居羊子も昭和32年1月から3ヶ月間にわたり、産経新聞で連載「新しい下着講座」を開始した。
そして、鴨居羊子は昭和32年に、雑誌「中央公論」の6月号で、「下着ぶんか論」を発表した。
下着メーカー「ワコール」は創業当初より、下着にボディーラインを整えるなどの機能性を求めているが、鴨居羊子はボディーラインを整えるのに必要なのは運動やトレーニングとして、外服から下着を解放を訴えた。さしずめ下着の独立運動である。
司馬遼太郎は、「下着ぶんか論」を読んで、「初期印象派のセザンヌが自分で画論構築しながら絵描いてたんと一緒やんか。自分で下着のデザインしながらやでぇ、文化論も書いてしもうたんやんか。さすがやなあ」と驚いた。
昭和32年(1957年)5月、鴨居羊子は、大阪南の映画館「スバル座」で、自身の初となる下着ショーを開催した。
当時、女性の下着は秘めたる物であり、当時の下着ショーは、デパートの特別室で男子禁制で行うのが一般的で、下着の機能性を紹介する下着教室のようなものだった。
しかし、鴨居羊子は解放された下着姿を解放された場所で、多くの人に見てもらいたいと考え、映画館で映画のアトラクションとして下着ショーを開催したのである。
さらに、同年9月には東京・銀座の映画館「東京テアトル劇場」で下着ショーを開催し、以降は東京の映画館や百貨店などでも、精力的に下着ショーを開催した。
鴨居羊子は、「ヌード喫茶」を参考にしており、色とりどりのスキャンティーをステージから投げたり、シースルーでモデルのバストが露わになっているなど、斬新な演出で、下着ショーの常識を打ち破った。
「ワコール」の社員も鴨居羊子の下着ショーに度肝を抜いたが、「ワコール」の創業者・塚本幸一は、ストリップショーだと吐き捨てた。
なお、鴨居羊子は記者時代に1度だけ、「ワコール」の創業者・塚本幸一を取材したことがあるが、それ以降は直接の接点は無い。
鴨居羊子の下着は、斬新なネーミングと斬新なデザインで、若い女性に受け入れられ、「第1次下着ブーム」に乗って売り上げを伸ばし、下着デザイナーしての地位を確立した。
近所のお婆ちゃんまで、鴨居羊子の名前を知るようになると、母親は「一体全体、あなたは何をしでかしているの?」といぶかしがった。
そのようななか、鴨居羊子は昭和33年(1958年)1月に資本金100万円で「チュニック株式会社」を設立した。作家の今東光、芸術家の岡本太郎、バラ園芸家の津志本貞らが発起人となり、株主に名を連ねた。
そして、「チュニック」は、横堀川沿いにある2階建て木造バラック(21坪)を借りて移転し、事務所・裁断室・縫製室・荷造場を1カ所に集めた。
このころ下着ショーの売り上げは大した額ではなかったが、鴨居羊子は、積極的に宣伝し、各地で頻繁に下着ショーを開催していた。
実は、下着ショーの成功を受け、映画館や繊維会社などが鴨居羊子を後援して、宣伝費・出演料・制作費などを出していたのである。
鴨居羊子は、メリヤスの上にあぐらをかいている下着業界の世直しをしていると考えていたので、潔く資金提供を受け入れており、頻繁に下着ショーを開催していた。
その一方で、鴨居羊子は、下着の制作は「チュニック」のスタッフに任せ、映画監督・亀井文夫の指導で映画監督を務め、映画「女は下着でつくられる」を制作した。
鴨居羊子は自分で作った映画が好きでは無かったので、映画館には観に行かなかったが、映画は評判だったという。
一方、和江商事(ワコール)も昭和33年にテレビ番組「私のおしゃれ」に提供し、番組の途中に下着のCMを流した。当時、下着は秘められた物であり、下着のテレビCMは画期的な試みだった。
そして、昭和35年(1960年)ごろから第2次下着ブームが起こり、「チュニック」は第2次下着ブームの波に乗って業績を拡大していくのだった。
昭和36年(1961年)、鴨居羊子ら女性陣は、次々と「チュニック」に来た男性のズボンを脱がせて、男性の下半身を研究した結果、男性のパンツに前空きは不要という結論に達し、前開きの無い男女共用パンツを制作した。
そして、米軍キャンプの黒人男性ウイリアムをモデルに起用し、モデルのウイリアムの名前を取って、男性下着シリーズを「ウイリアム・スタイル」と名付け、ポスターを制作した。
すると、心斎橋の百貨店では店長が黒人のポスターを貼られては困ると言い、ポスターを剥がしてしまったので、チュニックの専務・森島瑛は、こんな差別的な店とは取引できないと言い、商品を撤去してしまったという。
しかし、このようなことがあったのは1軒だけで、このポスターは大当りし、モデルのウイリアムと同じように、ジーパンに横縞(ボーダー)のシャツを着る男性が現れるようになった。
こうして、鴨居羊子は、インナーだったシャツをアウター化したTシャツスタイルの普及に貢献し、横縞(ボーダー)を流行させたのだった。
しかし、鴨居羊子が男性下着を手がけたのは「ウイリアム・スタイル」だけで、以降は男性下着を制作しなかった。
鴨居羊子は、取引先を拡大していく一方で、昭和37年(1962年)に大阪・梅田の新阪急八番街に初となるチュニックの直営店をオープンした。
以降も阪急3番街や東京・有楽町にも直営店を出店するとともに、営業所を開設して、全国へと販売網を広げていった。
なお、新阪急八番街の「八番街」と名付けたのは、鴨居羊子である。
既に「名店街」と名前が決まっていたが、「八番街」がオープンする前にテナントを集めて行われた会議で、鴨居羊子が「名店街」では古くさいと言い、散々と演説をして、旧番地の「北区梅田8番地」から「八番街」と名付けた。
「八」というのは末広がりで縁起が良いというので「八」を使い、「番街」の部分はニューヨークの「5番街」から取ったという。
日本で始めて「○番街」を使用したのは、新阪急八番街で、以降、全国で「○番街」が使用されるようになっていった。
鴨居羊子は、昭和38年に弟の嫁・鴨居和子と共に初めての海外旅行に出た。40日間を掛けヨーロッパから南米を巡り、「チュニック」に「夏」を持ち帰った。
鴨居羊子は、子供時代を「氷の国」だった金沢やソウルで過ごしていたことから、冬型人間で、これまでの作品にも「冬」が反映されていた。
しかし、初めての海外旅行で「夏」を持ち帰ることにより、「チュニック」の下着は「夏」へと転換した。
そして、世の中では天然繊維の綿の時代が訪れており、鴨居羊子は他社に先駆けて綿を使い始めたのだった。
また、鴨居羊子は帰国すると、以前から考えていた「大人のおもちゃ」を作り始めた。
ここでいう「大人のおもちゃ」は、鴨居羊子がデザインした風変わりな人形や小物である。
刺激的な下着の横に、下着よりも刺激的な人形や小物を店舗に並べておけば、刺激的な下着が普通に思えて、購入しやすくなるのだという。
そうした一方で、鴨居羊子は、アメリカ村の三角公園前に出来た新しい3階建てのビル「橋本ビル」を見つけ、2階の25坪を借りて昭和38年(1963年)に移転した。
鴨居羊子は「橋本ビル」に机を2つ用意して、ようやく絵を描く環境が整ったので、本格的に絵を描き始めた。
そして、昭和41年には、大阪日動画廊で初めての個展「ミス・ペテン展」を開いた。
初めての個展で、何枚か絵が売れたので、新進画家のように胸を時めかせたが、絵の具が剥がれ落ちてしまわないか心配した。
実際、売れた絵「トイレットをしているマダム」は、1年後に壁が剥げたというクレームがあったので、鴨居羊子は絵の具を持って補修に駆けつけている。
なお、鴨居羊子は、大阪日動画廊に、売れない画家の弟・鴨居玲を推薦し、頼み込んで弟・鴨居玲の個展を昭和43年に開いてもらった。
日動画廊の長谷川は不安だったが、いざ個展を開いてみると、弟・鴨居玲の絵が売れるので驚いた。
それもそのはず、鴨居羊子が知り合いに頼み込んで、弟・鴨居玲の絵を買って貰っていたのだ。
しかし、弟・鴨居玲は、初個展の成功で勢いづいたのか、翌年の昭和44年(1969年)に昭和会賞と安井賞を受賞して、画家として成功するのだった。
昭和40年(1965年)に入っても女性の下着は全国に普及していなかった。
昭和41年の「長期需要動向調査結果報告書」によると、ブラジャーの所持率は、19歳以下で82%、20歳から24歳で89%、25歳から29歳で81%、30歳から34歳で61%。以降は年齢が上がることに、ブラジャーの所持率は低下している。
また、ワコールの座談会によると、当時の日本は、ブラジャーを着用するのは独身の女性だけで、結婚するとブラジャーを着用しないのが一般的だったようだ(外国は逆に既婚者がブラジャーを着用していた)。
このように、下着は普及しきっていないため、下着業界は高度成長期を背景に、右肩当たりで成長を続けていた。
そのようななか、鴨居羊子は昭和43年(1968年)に芦屋に念願の家を建てた。
さらに、「4」を好んだ鴨居羊子は、昭和44年に、四ツ橋の四ツ橋ビル4階401号室(200坪)に会社を移転し、資本金も1000万円に増資して、テレビCMも開始した。
従業員も増えて「チュニック」は大きくなり、売り上げも増えていったが、鴨居羊子は作り手と消費者のギャップに苦悩を抱えるようになっていた。
「よく売れる商品は、わたし個人にとっては、おもろうないんです。わたしがおもろいと思う物は売れないんですよ。需要者とメーカーのギャップが酷いほど野蛮国やと思うんですよ」
このような苦悩を抱えた鴨居羊子は、「会社が大きくなったら、ろくな事が無い」と口癖のように言っており、苦悩から逃れるかの如く、海外旅行や絵やフラメンコなど多方面へ活動の場を広げていった。
そのようななか、鴨居羊子は小説家・石浜恒夫の誘いでヨットに乗るようになり、後に後継者となる牛島龍介と出会う。
鴨居羊子は、作家志望の牛島龍介を石浜恒夫の家に居候させたり、自分の家に居候させたりしている。
昭和30年以降、右肩上がりで拡大し続けていた下着業界も、日本全国に下着が普及して、昭和50年(1975年)にピークに達した。
既に「ワコール」や「トリンプ」が下着業界を主導しており、輸入下着の台頭もあって、ピーク時には10億円を記録した「チュニック」の売り上げは、平成に入る頃には半減し、会社の経営は傾いていた。
一方、私生活では、昭和47年3月に14年間寝たきりになっていた弟・鴨居玲を亡くし、昭和60年9月には画家だった弟・鴨居玲も自殺で失ってしまう。
鴨居羊子は森島瑛と交際していたが、結婚はしておらず、子供も居なかったので、知人が家庭に帰っていくのを見て、「私も子供を産んどけばよかった」と後悔したという。
さらに、鴨居羊子は昭和54年に気管支炎で倒れて入院して以降、入退院を繰り返すようになり、昭和60年に脳溢血で入院し、昭和64年には十二指腸潰瘍で入院した。
「チュニック」の専務取締役で事実上の夫だった森島瑛は、会社の経営が傾いていたことから、会社を畳んで、鴨居羊子の自宅をマンションに建て替えて、マンションの最上階で悠々自適な生活を送るように助言した。
しかし、鴨居羊子は森島瑛の提案を受け入れなかったので、森島瑛は平成2年に「チュニック」を去り、鴨居羊子は身の回りの世話をしてくれていた牛島龍介を後継者に指名し、副社長に据えた。
退院後、鴨居羊子は自宅で静養しながら執筆活動を続け、母親のように寝たきりになるのを嫌い、リハビリに精を出していた。
しかし、平成3年(1991年)3月に様態が悪化して病院に運ばれ、平成3年3月18日に脳内出血で死去した。
鴨居羊子は、森島瑛と交際していたが、結婚はしておらず、子供も作っていない。母親に結婚を反対されたという説や、森島瑛が結婚を断ったという説がある。
森島瑛は、鴨居羊子との結婚について、「このことに関しましては、全てぼく自身に問題があります。ぼくは三日坊主で、すぐに飽いてしまいます。ほんとうに三日ともった例がありません。それから、四角な部屋を円く掃いて平気な人とは、とても一緒にいられないのです。平気な人はゴマンといるでしょうが、ぼくはダメです。カンシャクが起きます」と話したという。
しかし、鴨居羊子は掃除をするような人では無く、森島瑛も他の女性と結婚しているので、本当の理由は分からない。
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