NHKの朝ドラ「わろてんか」に登場する加納つばき(水上京香)の実在のもモデルの紹介です。
加納つばき(水上京香)は、大手銀行の1人娘で、藤岡てん(葵わかな)と北村藤吉(松坂桃李)の1人息子・北村隼也(成田凌)と出会い、恋に落ちていきます。
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北村隼也(成田凌)のモデルは、吉本せい(林せい)の1人息子・吉本穎右(吉本泰典)なので、北村隼也(成田凌)の恋愛相手となる加納つばき(水上京香)のモデルは、笠置シヅ子となります。
ただ、加納つばき(水上京香)は大手銀行の1人娘という設定なので、モデルの笠置シヅ子とは大幅に設定が違っています。
モデルの笠置シヅ子(本名は亀井静子)は、大正3年(1914年)8月25日に香川県大川郡相生村(香川県東かがわ市)で、三谷陳平の娘として生まれた。
しかし、母・谷口鳴尾は、三谷陳平との結婚が許されず、未婚の子として笠置シヅ子を産み、生まれて間もなく、大阪の亀井音吉・亀井うめ夫婦に養子に出した。
笠置シヅ子は養母「亀井うめ」が芸好きだったことから、5歳の時に日本舞踊を習い始め、恩加島尋常小学校を卒業すると、宝塚少女歌劇を受験するが、身体検査で身長が足りなかったため、不合格となる。
笠置シヅ子はショックを受けて帰宅したが、近所のおばさんが「道頓堀でも宝塚みたいのをやってまっせ」と教えてくれたので、道頓堀の「松竹楽劇部」に直談判して「松竹楽劇部生徒養成所」に入れてもらい、その年に「三笠静子」の芸名で初舞台「日本八景おどり」を踏んだ。
そして、昭和8年(1933年)にトップスターの仲間入りをして、昭和12年(1937年)に東京松竹の目に止まり、昭和13年(1938年)の松竹楽劇団(SGD)の旗揚げに参加し、松竹楽劇団(SGD)で作曲家・服部良一と出会う。
そして、笠置シヅ子は、作曲家・服部良一にジャズシンガーとして実力を認められ、レコード会社「コロムビア」の専属歌手となり、「ラッパと娘」で歌手デビューを果たす。
その後、東宝と松竹の引き抜き合戦が起こり、笠置シヅ子は東宝への移籍を決める。激怒した松竹は笠置シヅ子を監禁したが、作曲家・服部良一の奔走によって移籍問題は解決し、松竹楽劇団(SGD)に残った。
その後も笠置シヅ子は「ジャズの女王」として活躍していたが、戦争の影響で、昭和15年(1940年)に警察から敵性を指摘されたうえ、腰を振りながら歌うのは不謹慎と言われ、直立不動で歌うことを命じられるなど、歌手としては厳しい時代を迎えた。
さて、芸能人は戦地慰問に参加していたが、笠置シヅ子は敵性が指摘された不良芸人なので、海外の戦地慰問には参加でできず、国内巡業と興行慰問を続けていた。
そのようななか、昭和18年(1943年)6月28日、名古屋を訪れた笠置シヅ子は、御園座で公演していた辰巳柳太郎の楽屋へ挨拶に行き、辰巳柳太郎の楽屋で、吉本穎右(吉本泰典)を見かけ、一目惚れした。
吉本穎右(吉本泰典)は、吉本興業の創業者・吉本せいの1人息子で、早稲田大学の学生だった。
この時は何も会話はしていないのだが、その後、吉本穎右(吉本泰典)が笠置シヅ子の楽屋を尋ねて来て話をした。
吉本穎右(吉本泰典)は明日、大阪の実家に帰るというので、神戸に行く予定だった笠置シヅ子は、一緒に汽車に乗る約束をして、翌日、一緒の汽車に乗った。
こうして、2人は交際を始め、昭和19年(1944年)末に結婚の約束をした。
そして、昭和20年(1945年)5月25日の東京大空襲で、笠置シヅ子も吉本穎右(吉本泰典)も自宅を焼失したため、吉本興業の東京支配人・林弘高の世話で、林家のとなりにあるフランス人の家を借り、同棲を開始する。
昭和20年(1945年)8月15日に終戦を迎えると、笠置シヅ子は同年11月には歌手として復帰。吉本穎右(吉本泰典)も早稲田大学を中退して東京吉本で働く事になったので、昭和20年の末に同棲を解消した。
その後、妊娠した笠置シヅ子は、吉本穎右(吉本泰典)と結婚するため、昭和22年(1947年)1月に芸能界を引退し、出産のために入院する。
一方、吉本穎右(吉本泰典)は結核が悪化したことから、昭和22年(1947年)1月に甲子園にある吉本家の別邸へと移り、療養に専念した。
吉本せいは米軍に手を回して高価な薬などを入手していたらしいが、その甲斐も無く、吉本穎右(吉本泰典)は昭和22年(1947年)5月19日に死去してしまう。享年25だった。
笠置シヅ子は、吉本穎右(吉本泰典)の死を知らされて不安のどん底に落ちてしまうが、吉本穎右(吉本泰典)の浴衣を握りしめながら、昭和22年(1947年)6月1日に長女・亀井エイ子を出産した。
そして、吉本穎右(吉本泰典)が「男の子なら『穎造』、女の子なら『エイ子』と名付けよ」と遺言を残して居たので、遺言を守って生まれてきた子供に亀井エイ子と名付けた。
吉本せいは、亀井エイ子を引き取ろうとしたが、笠置シヅ子は本当の親の顔を知らずに育っていたいたことから、娘にも同じ思いをさせたくないと考え、長女・亀井エイ子を自分の手で育てていくことにした。
そうなると、悲しんでいる時間など無い。長女・亀井エイ子を自分の手で育てるため、早々に歌手活動の再開を決意し、作曲家・服部良一に「先生、たのんまっせ」と新曲を頼んだ。
そして、作曲家・服部良一が「東京ブギウギ」を完成させると、笠置シヅ子は出産から、わずか3ヶ月後の昭和22年(1947年)9月10日に「東京ブギウギ」のレコーディングを行い、歌手に復帰する。
その後、乳飲み子を抱えてステージを飛び回り、「ブギの女王」としてスターダムにのし上がっていくのであった。
通説では、吉本興業の創業者「吉本せい」は、1人息子の吉本穎右(吉本泰典)を溺愛しており、笠置シヅ子との結婚を最後まで認めなかったことになっている。
しかし、複数の資料を見ていると、実際は、笠置シヅ子が妊娠したことを切っ掛けに、「吉本せい」は態度を軟化させ、話し合いは良い方向に向かっていたようだ。
長女・亀井エイ子も「結婚はしたものの、せいさんを始めとする周囲の人たちには認められず、末入籍のままでした。しばらくして、私がお腹の中にいることがわかり、母は主婦に専念するということで、晴れて正式の夫婦として認めていただける、ということになりました」と証言している。
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