朝ドラ「ブギウギ」の主人公・花田鈴子(趣里)のモデルとなる歌手・笠置シヅ子(かさぎ・しづこ)の生涯を描く立志伝です。
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笠置シヅ子(本名は亀井静子)は、大正3年(1914年)8月25日に香川県大川郡相生村(旧の引田町/現在の香川県東かがわ市)で、三谷陳平の娘として生まれた。
三谷家は代々、砂糖業を営む豪農だった。父・三谷陳平は三谷栄五郎の長男で、郵便局で働いていた。
笠置シヅ子の祖父は漢学を教えており、その教え子には、香川県大川郡相生村出身の東京大学の総長・南原繁が居る。こうした縁で、後に南原繁が笠置シヅ子の後援会長を務めることになる。
笠置シヅ子の母親は、谷口鳴尾と言って、三谷家で和裁を習いながら、家事見習いとして三谷家で同居していた女性である。
母・谷口鳴尾は、女中ではなく由緒ある家の女性で、三谷家の親戚筋だったようだ。
しかし、母・谷口鳴尾は、笠置シヅ子を妊娠しても三谷家から結婚は許されなかったため、実家へと帰り、シングルマザーとなった。
実家に戻った、母・谷口鳴尾は乳の出が悪かったので、大阪から出産のために里帰りしていた相生村の亀井ウメに沿い乳を頼んでおり、これが縁で亀井ウメが笠置シヅ子(亀井静子)を養女として引き取った。
養母・亀井ウメが笠置シヅ子と生まれた実子・亀井正雄を連れて大阪へ帰ると、夫の亀井音吉は「双子かいな」と驚いたという。
こうして亀井家の養子となった笠置シヅ子は、最初「亀井ミツエ」という名前で亀井家の籍に入ったが、小学校へ入るときに「亀井志津子」と改名し、10歳の時に「亀井静子」へと改名した。
その後、舞台デビューの時に芸名として「三笠静子」を名乗るが、崇仁親王が「三笠宮家」を創立したので、「三笠」を名乗るのは恐れ多いとして、会社の命令で芸名「笠置シズ子」へと改名した。
そして、戦後、歌手から引退して女優に専念すると宣言した時に、芸名を「笠置シズ子」から「笠置シヅ子」へと改名した。
なお、吉本興業の吉本穎右(吉本泰典)と結婚の約束はしていたが、結婚する前に吉本穎右(吉本泰典)が死去したため、「吉本」姓は名乗っていない。
笠置シヅ子は発育が悪く、体も弱かったので、養母・亀井ウメは心配して方々の医者に相談するほどだった。
芸好きだった養母・亀井ウメは、これでは笠置シヅ子が大人になって貧乏したときに困るだろうと考え、笠置シヅ子に日本舞踊を習わせた。
三味線も習っていたが、笠置シヅ子は活発な子で、じっとしている事が嫌いだったので、座って弾く三味線には興味が出ず、日本舞踊ばかり練習していたという。
さて、養父・亀井音吉は、大阪で米屋を営んでいたが、度重なる米騒動に嫌気が差し、笠置シヅ子が小学校へ入った年に米屋を廃業して、風呂屋(銭湯)を始めた。
風呂屋は転々と営業場所を変えた関係で、亀井家も大阪周辺を何度か引っ越しており、笠置シヅ子も4回転校して、計5つの小学校に通っている。
このため、笠置シヅ子は修学旅行先で、前に通っていた小学校の友達と会うという不思議な体験をしたという。
さて、亀井家が始めた風呂屋は笠置シヅ子の格好の練習場所となり、笠置シヅ子が風呂屋で踊ったり歌ったりしていると、近所の評判となり、小屋掛けの浪速浪曲劇団に頼まれて子役として出演した。
また、養母・亀井ウメは演劇会があると、飛び入りで笠置シヅ子を参加させた。笠置シヅ子は大人気で、舞台に大量のおひねり(お金を紙で包んで捻ったもの)が飛んできて、おひねりで足を滑らせたこともあった。
この時代の子供は、家が商売をしていると、家業を手伝うのだが、笠置シヅ子は風呂屋の仕事を手伝うことなく、箸しか持たない贅沢な暮らしをしていたという。
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昭和2年、養母・亀井ウメが少女劇への入団を積極に勧めたので、12歳の笠置シヅ子は恩加島尋常小学校を卒業すると、兵庫県の宝塚少女歌劇団を受験する。
笠置シヅ子は、小学校の成績でも歌は満点だったので、自信があったが、子供の頃から体が弱かったこともあり、身体検査で身長が足りなかったため、不合格となる。
ところで、宝塚少女歌劇団がヒットした影響で、少女歌劇ブームが起こり、各地で少女歌劇団が誕生していた。
こうした流れの中で、松竹も大正11年4月に大阪の天下茶屋で「松竹楽劇部生徒養成所」を発足しており、松竹楽劇部は翌年に出来た道頓堀の松竹座を本拠として活動を開始した。
松竹座は、日本で初めてのコンクリート製の劇場で、芝居小屋が並ぶ道頓堀で圧倒的な存在感を示していたが、松竹楽劇部の方は人気が出ずに不振に陥っていた。
しかし、笠置シヅ子は大阪周辺を転々と引っ越していた関係で、大阪の中心部の事は知らず、大阪に松竹楽劇部があることを知らなかった。
笠置シヅ子は宝塚少女歌劇団の試験に落ちてショックを受けていたが、大阪にも宝塚少女歌劇団と同じようなことをやっている松竹楽劇部があることを教えてもらい、松竹楽劇部へ押しかけ、音楽部長・松本四郎に頼み込んで入部させてもらった。
そして、笠置シヅ子は松竹楽劇部へ入った年の夏に、「三笠静子」の芸名で、舞台「日本八景おどり」でデビューする。
デビューと言っても、教育期間はほとんどなく、笠置シヅ子は背景の滝の水しぶきの役だった。
松竹楽劇部に入った笠置シヅ子は、好きな道だったので、他人よりも練習をした。
自分のレッスンが終わっても、他の組のレッスンに潜り込んで練習し、先生に見つかって、よく叱られた。病欠が出たら代役になろうと思い、舞台の横で先輩たちの踊りも覚えた。
また、笠置シヅ子は要領が良く、先輩や先生の世話や雑用をテキパキとこなしていたので、先輩や先生から「豆ちゃん」と呼ばれて重宝がられ、欠員が出たときの代役に指名されて、同僚よりも多く舞台に出ていた。
昭和6年(1931年)、笠置シヅ子は18歳になっていたが、未だに養子だとは知らされておらず、親戚の法事として香川県大川郡相生村の三谷家を訪れた。
笠置シヅ子の実父・三谷陳平は、笠置シヅ子が生まれて直ぐ死んでおり、豪農だった三谷家は落ちぶれていた。この法事というのは実父・三谷陳平の17回忌だった。
ここで、笠置シヅ子は自分が養子だと知り、遺影の三谷陳平が実父だと知る。
笠置シヅ子は18歳の乙女だったので、実母の存在を知って苦悩したが、意を決して実母・谷口鳴尾の自宅を訪れた。
しかし、実母・谷口鳴尾は男児と座り、母親だと名乗ろうとしなかったので、笠置シヅ子も子供だと名乗らずに家を出ると、泣き崩れた。それ以来、実母・谷口鳴尾とは会ってない。
(注釈:この時にシヅ子が知ったのは、自分が養女だったということだけで、実父と実母についての情報を知るのは戦後である。)
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昭和3年(1928年)、大阪の松竹楽劇部が東京・浅草の松竹座で公演をしたことを切っ掛けに、東京の松竹座で「東京松竹楽劇部」が発足する。
東京松竹楽劇部の第1期生に水の江瀧子がおり、水の江瀧子は昭和5年に断髪をして男役を演じ、「男装の麗人」として話題を呼んだ。
これにより、少女劇は黄金期を迎えており、風俗警察は淳風美俗に反して衛生的に有害であるとして、8項目に渡る通達を出して少女劇を取り締まるようになる。
さて、東京松竹楽劇部は、宝塚少女歌劇団への対抗心が強くしており、昭和7年に「松竹少女歌劇部(SSK)」へと改称するともに、大阪の松竹楽劇部と合同公演を行っていた。
一方、映画界では、サイレント映画(無声映画)からトーキー映画(有声映画)へと切り替わっており、サイレント映画で必要だった弁士・楽士が不要となり、リストラが行われていた。
こうしたリストラの背景には、昭和4年から昭和6年にかけて発生した昭和恐慌の影響があり、リストラの波は東京松竹楽劇部にも押し寄せる。
昭和7年6月に映画館の弁士・楽士のリストラを成功させた松竹は、昭和8年6月、東京松竹楽劇部の楽士のリストラや減給を発表した。
すると、以前から楽士部長や監督に不満を持っていた東京松竹楽劇部の女性部員は、このリストラに反発し、関東映画劇場従業員組合の音楽部員と手を結び、水の江瀧子を争議団委員長にしてストライキに入った。
少女歌劇は映画のアトラクションだったこともあり、映画と密接な関係があるので、水の江瀧子は音楽部員を応援するためにストライキを始めたのだが、本格的な左翼が介入してきたので、要求が大きくなってしまったのだという。
さて、映画館のリストラに成功していた松竹は、強気の姿勢を崩さず、松竹少女歌劇部の解散を発表するとともに、切り崩し工作により、東京の争議団で副団長を務めていた津阪織江(オリエ津阪)を味方に付けた。
津阪織江の離反を受けた東京の争議団は、切り崩し工作を避けるため、神奈川県の湯河原温泉へと逃れて旅館に籠城する。
一方、大阪の松竹楽劇部でも、待遇に不満を持っていた女性部員らが、東京のストライキに呼応して立ち上がり、改善要求の嘆願書を提出したが、改善要求が拒否されたため、飛島明子を団長にしてストライキに入った。
大阪の飛島明子らは日本橋の立花屋旅館を争議団本部として松竹と交渉を重ねていたが、松竹の切り崩し工作で東京の津阪織江が会社側に寝返った事を受け、電車で大阪を抜け出して、お菓子や化粧道具を持って高野山に登り、金剛三味院に立て籠もった。
笠置シヅ子もストライキに参加しており、高野山で立て籠もっている。
松竹側は強硬姿勢を続けていたが、ストライキのメンバーが主に未成年の女性だったことから、新聞が「桃色争議」と報道して世間の話題を呼んでおり、世論が争議団の味方をしていた。
この影響で松竹は客足が遠のき、ライバルの宝塚少女歌劇団が得をする形となったため、笠置シヅ子らが高野山に立て籠もって12日後に、僧侶の仲介により、争議団が嘆願書を撤回し、松竹が待遇改善を約束することで和解した。
和解の立会人は、大阪府議会議長を務めた辻阪信次郎が務めた。
翌日、勝利した笠置シヅ子ら争議団は、争議団の旗を掲げて高野山を下り、大勢のファンの前で万歳を三唱した後、道頓堀へ行って松竹系の劇場の前で万歳を三唱してまわり、争議団本部の立花屋旅館で解散した。
一方、東京では、争議団の影で左翼が暗躍していたことから、争議団の水の江瀧子ら46人が検挙されるという自体に発展したため、松竹側が改善要求の一部を受け入れる形で、ストライキを解決した。
この桃色争議は、東西ともに改善要望が受け入れられたので、紛争団側の勝利に終わる。
松竹はストライキの処分として、東京松竹楽劇部を解散し、松竹本社直属の「松竹少女歌劇団」を発足するとともに、「松竹少女歌劇学校」を設立した。
また、松竹はストライキの処分として、東京の責任者だった水の江瀧子を解雇して、会社側についていた津阪織江を売り出そうとしたが、ファンが水の江瀧子を支持したため、断念して水の江瀧子を復帰させた。
大阪で争議団委員長を務めた飛島明子は、ストライキの責任者として処分され、解雇されたが、争議団が教師として迎え入れる事を要求していたので、飛島明子は解雇後、振り付け担当の教師として松竹楽劇部に復帰した。
大阪の松竹楽劇部は、昭和8年に起きた「桃色争議」の結果、飛島明子など大勢のトップスターを失ってしまい、昭和8年の「秋のおどり・女鳴神」は不振に終わる。
しかし、スターが抜けたということは残留組には出世のチャンスであり、残留組の笠置シヅ子は「秋のおどり・女鳴神」での好演が評価され、トップスター10選に選ばれた。
昭和9年、松竹は不振に陥った松竹楽劇部を立て直すため、松竹楽劇部から「大阪松竹少女歌劇団(OSSK)」へと改称し、拠点を大阪劇場へと移した。
大阪松竹少女歌劇団の第1回公演は、柏晴江が主演する「カイエ・ダムール」で、コロムビアと提携して主題歌2曲をレコードとして発売した。
笠置シヅ子は、レコードのA面に主題歌「恋のステップ」を吹き込んで、この歌をヒットさせる。
この主題歌「恋のステップ」を作曲したのが服部ヘンリー(服部良一)で、後に笠置シヅ子は後に服部良一とのコンビで「スイングの女王」「ブギの女王」として活躍することになるが、この時点は面識がないうようだ。
昭和10年(1935年)12月、澄宮崇仁親王が「三笠宮家」を創設したことから、笠置シヅ子は松竹からの命令で、「三笠静子」から「笠置シズ子」へと改名する。
松竹は昭和3年(1928年)に東京の浅草松竹座で「東京松竹楽劇部」に旗揚げして東京進出を果たし、「東京松竹楽劇部」は昭和7年に起きた「桃色争議」の処理で「松竹少女歌劇団」と改組した。
一方、阪急グループの小林一三は、東京で「株式会社東京宝塚劇場(東宝)」を設立し、昭和9年に東京宝塚劇場を建設して、宝塚少女歌劇を東京へと進出させた。
さらに、東宝が東京・有楽町の日本劇場を取得すると、東宝の秦豊吉は、映画のアトラクションとして、昭和11年に日本劇場で「日劇ダンシングチーム(NDT)」を発足した。
松竹は、東宝の「日劇ダンシングチーム」に対抗するため、昭和13年に東京の帝国劇場で、「松竹楽劇団(SGD)」を旗揚げした。
松竹楽劇団は名前から「少女」を排除したことからも分かるとおり、男性を含む男女混合レビュー団で、メンバーは東京松竹楽劇部と大阪松竹少女歌劇団からスターが集められた。
笠置シヅ子は、前年の東京公演が認められたようで、東京の松竹楽劇団からスカウトされ、松竹楽劇団の旗揚げに参加する。
このころ、笠置シヅ子は唯一の兄弟だった弟・亀井八郎が兵隊に取られ、弟から家族の面倒をみるように頼まれており、笠置シヅ子が亀井家の家計を支えなければならなかったので、金銭的な問題から東京の松竹楽劇団への移籍を承諾したのだった。
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昭和13年(1938年)、東京の松竹楽劇団(SGD)に移籍した笠置シヅ子は、副指揮者として松竹楽劇団に招かれた作曲家の服部良一と出会う。
服部良一は、前年の昭和12年に淡谷のり子の「別れのブルース」で大ヒットを飛ばし、新進気鋭の作曲家として注目を集めていた。
服部良一は「服部ヘンリー」というペンネームを使用しており、笠置シヅ子は大阪松竹少女歌劇団(OSSK)時代に服部ヘンリーが作曲を手がけた「恋のステップ」でレコードを出しているのだが、2人の間に面識は無かったようだ。
服部良一は、松竹楽劇団で笠置シヅ子と出会った時の事を次のように書き残している。
『ごった返すけい古場の片すみで、音楽の打ち合わせのために引き合わされたのが彼女との最初の出会いだった。どんなプリマドンナかと期待していたら、薬びんをぶら下げ、トラホームのように目をショボショボさせた女性で、これがスターとは思えない。「よろしゅう頼んまっせ」とあいさつされたが、どこか裏町の子守女かとみまがうようだった』
しかし、服部良一は笠置シヅ子のステージを見て一目でファンになり、自身のジャズの持論を実践するためのテストケースとして、笠置シヅ子に地声で歌うように命じた。
しかし、服部良一は作曲家だったので、歌の指導まではせず、笠置シヅ子は何度も喉を痛めて病院に通いながら独学で努力を続けた。
そして、笠置シヅ子はレコード会社「コロムビア」の専属歌手となり、服部良一が作曲した「ラッパと娘」「センチメンタルダイナ」「ホットチャイナ」などをヒットさせて、「スイングの女王」として活躍していく。
その一方で、服部良一は淡谷のり子にも曲を書いており、淡谷のり子は「ブルースの女王」として活躍するのだった。
当時は映画会社が役者を丸抱えしており、役者は所属する映画会社以外の映画には出演できなかった。
そのようななか、昭和12年(1937年)に松竹の林長二郎(長谷川一夫)が東宝に引き抜かれた事を切っ掛けに、映画界で引き抜き合戦が起きた。引き抜き合戦は激化し、映画界にとどまらず、芸能界全体に及んでいった。
このようななか、笠置シヅ子は昭和14年(1939年)に、松竹楽劇団から東宝へ移籍していた益田貞信から東宝への移籍を誘われた。
笠置シヅ子は養母・亀井ウメの治療費が必要だったので、金銭的な事情から東宝への移籍を承諾したが、松竹に移籍を察知され、団長・大谷博の別荘に23日間も監禁されるという事態に発展する。
服部良一が移籍騒動を解決するために奔走するが、この移籍騒動は決着が付かないまま、笠置シヅ子は松竹楽劇団に残った。養母・亀井ウメは、この年の9月に死去した。
戦前は東海林太郎のように直立不動で歌う歌手が一般的だったが、笠置シヅ子は踊りながら歌っていたので、昭和15年(1940年)に警察から「敵性歌手」として目を付けられ、付けまつげを禁じられたり、直立不動で歌うことを命じられたりしていた。
さらに、戦争の影響でジャズへの風当たりが強くなり、笠置シヅ子が「手も足も出まへん」と言う厳しいの時代へと突入していくのだった。
ジャスを歌いにくくなった笠置シヅ子は、松竹楽劇団を辞めて独立して、「笠置シヅ子とその楽団」を発足する。まもなく、娯楽性の強かった松竹楽劇団も時勢を判断して解散した。
そして、日本は昭和16年12月8日に真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争へと突入するのだった。
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さて、ジャズはアメリカの音楽なので戦時中は敵性音楽として演奏する事も聞くことも禁止されていたが、抜け道はあった。
ジャズは禁止されていたが、取り締まる方は音楽の専門知識が無いので、ジャズを演奏していても、ジャズではないと言われれば、取り締まりようがないのだ。
しかも、音楽は演奏が終わると証拠が残らないので、海軍配下の音楽隊が上官の前で平然とジャズを演奏していたという話も残っている。
また、同盟国ドイツのクラシックや親日国アルゼンチンのタンゴなどは、敵性音楽にはあたらないので、クラシックやタンゴを隠れ蓑にして、ジャズの演奏を続ける人は多かった。
とりわけ判断が困難なのは、クラシックをジャズ化した音楽で、ジャズ化はしていてもクラシックなので、取締が出来ないグレーゾーンとなっていた。
「笠置シヅ子とその楽団」も、このような抜け道を使ってジャズを演奏していたようで、「笠置シヅ子とその楽団」は、昭和18年3月、ジャズを排除して健全な軽音楽を普及させる事を目的に、日比谷公会堂で開催された「軽音楽新作発表会」に出場して、ジャズ化した「未完成後奏曲」などを演奏している。
しかし、こうした抜け道に対して、当局は昭和19年6月、敵性音楽のジャズやハワイアンが演奏できないように、ウクレレやトランペットなどの楽器の使用を禁止した。
こうして、ジャズやハワイアンが演奏できなくなると、軽音楽界ではタンゴの淡谷のり子やラテン音楽の櫻井潔などが人気を博することになる。
さて、笠置シヅ子はジャズが歌えなくなり、戦時中に服部良一が手がけた「アイレ可愛や」や軍歌も歌うっていたようだが、空襲警報が鳴ると、仕事が全てキャンセルになるので、楽団員13人を抱えて苦しい生活を送っていたようだ。
そして、最後はマネージャーが勝手に「笠置シヅ子とその楽団」を興行主に売却したので、笠置シヅ子は楽団の解散を余儀なくされた。
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