浪花千栄子の立志伝-東亜キネマの香住千栄子

NHKの朝ドラ「おちょやん」のモデルおなった浪花千栄子の生涯を描く立志伝の第10話「東亜キネマの香住千栄子が誕生」です。

浪花千栄子の立志伝の目次は「おちょやん-浪花千栄子の立志伝の目次」をご覧ください。

東亜キネマ時代

浪花千栄子は、三友劇場を根城にする「村田栄子一座」で看板女優にまで出世した。

しかし、師匠・村田栄子のヒステリーによって生傷が絶えない生活を送っており、三友劇場の主人が見るに見かねて、映画の「東亜キネマ」を紹介してくれた。

こうして、浪花千栄子は「村田栄子一座」を辞め、東亜キネマの等持院撮影所へ入り、映画女優となった。19歳のことである。

このとき、三友劇場の主人が「村田栄子を千も超えるように」という願いを込めて、浪花千栄子に「香住千栄子(かすみ・ちえこ)」という芸名を付けたようだ。

給料は35円だったので、浪花千栄子は家賃6円の部屋(6畳1間)を借りて、生まれて初めて独立した。始めて着物を買ったのも、映画女優になってからで、思わす涙がこぼれたという。

間もなく、浪花千栄子は、身のこなしの軽さから「鳥人」と呼ばれた髙木新平の主演映画「帰ってきた英雄」の準主役に抜擢された。

髙木新平の相手役は生野初子で、浪花千栄子は長崎で髙木新平の帰りを待つ女性の役だった。

撮影所には20人ほどの女優が居たのだが、浪花千栄子は際だって口数が少なく、暗い感じのする女優で、大役が回ってきても、全然、嬉しそうな顔は、しなかったという。

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舞台挨拶事件

浪花千栄子は、仕事は順調で、名前の前に「新スター」という冠が付くようになり、正月や盆に映画スターがスクリーンの前に並んで舞台挨拶をする行事にも抜擢された。

挨拶の行事は訪問着を着なければならないのだが、訪問着を買うには100円は必要になる。

浪花千栄子にとって100円といえば、聞いただけで卒倒するような大金である。たった1日のために、100円もする訪問着が買えるはずがない。

困った浪花千栄子が撮影所の衣装屋に相談すると、衣装屋が20円で新品の貸衣装を用意してくれることになった。

こうして、浪花千栄子は借り対象で舞台挨拶に出たが、舞台挨拶のギャラは15円なので、5円の赤字である。仕事をして5円の損が出ると言うことに納得できない。

そこで、浪花千栄子は衣装代を負けて欲しいと懇願するが、衣装屋から「あんさんもスターやおへんかいな。20円の上に2、3円もご祝儀を付けて、おっちゃん、おおきに、ぐらいのことは、言わはるもんどっせ」と言われてしまう。

そこで、東亜キネマの俳優課へ交渉に行くが、「50円や100円を使ってもご挨拶のメンバーに加えてくれと言う人も居るんですよ。衣装を借りるのは君の自由で、謝礼とは何の関係もありません。スターともなれば、訪問着の4枚や5枚、常に支度しておいて、ご祝儀の2円や3円をいつでもばらまく心構えがないと駄目ですよ」と言われてしまった。

ぶつけようのない怒りを覚えた浪花千栄子は、以降、東亜キネマに在籍中は頑として舞台挨拶には出なかった。

東亜キネマを辞める

やがて、東亜キネマは経営上の行き詰まりから、撮影所を合併して人員整理を行った。当然、女優にもリストラの波が押し寄せた。

浪花千栄子は、正義感が強かったので、真面目な中堅女優がリストラされ、素行の悪い大物女優が残っていたことが納得できず、会社に文句を言ったが、所長の小笹正人は取り合ってくれなかった。

すると、浪花千栄子は納得が出来ず、辞表を書いて提出。所長・小笹正人の留意を振り切って東亜キネマを退社して、市川右太衛門のプロダクションの立ち上げに参加した。20歳のことである。

ただ、浪花千栄子は、マキノプロダクションから独立した市川右太衛門のプロダクションに誘われていたので、東亜キネマを辞めたとも証言している。

浪花千栄子の立志伝-市川百々之助との金銭トラブル」へ続く。

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