大正時代から昭和初期にかけて活躍した落語家の初代(本当は二代目)・桂春団治(皮田藤吉/岩井藤吉)の立志伝です。
桂春団治(本名は皮田藤吉)は明治11年(1878年)8月4日に、大阪府大阪市南区高津町2番丁259番地で、皮田友七の3男として生まれた。
父・皮田友七は被差別身分の出で、革細工を生業としており、主に煙草入れの製造していた。
大阪では革を製造加工する職業(身分)を「皮田」と呼んでおり、明治時代になって名字をなのるようになったので、皮田家は職業を名字として「皮田」と名乗った。
母・皮田ヒサは、大阪・安藤町に住む長尾利助の娘で、女一通りの仕事ができ、父・皮田友七に嫁ぐ事が不思議に思われるほど、非常に立派な人物だったという。
さて、桂春団治(皮田藤吉)が生まれた明治11年は「五黄の寅年」で、「五黄の寅年は強い星なので、この年に生まれた者は必ず出世する」「五黄の寅年に生まれた者は気が強い」という言い伝えがあった。
このため、母・皮田ヒサは何度も「お前は五黄の寅や。後に引かん」と教えていたので、桂春団治(皮田藤吉)は「ワイ(私)は五黄の寅や」というのが口癖だった。
さて、桂春団治(皮田藤吉)は両親が40歳を過ぎた時に出来た子だったので、非常に可愛がられて育った。
しかし、明治10年に勃発した西南戦争後の不況で皮田家の家計は厳しくなっていたらしく、桂春団治(皮田藤吉)は、小学校には通わなかったので、生涯、字が読めなかった。
桂春団治(皮田藤吉)は、学校には行かず、質屋に奉公に出たり、大工の弟子になったり、家業の皮細工を手伝ったりして、大工仕事などは素人とは思えない腕前だったが、いずれも長続きはせず、18歳の時に実力だけで勝負できる落語界へと足を踏み入れることになる。
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大阪の落語会は桂派が牛耳っていたが、初代・桂文枝の死後、跡目争いに敗れた2代目・桂文都が桂派を去って「月亭文都」と名乗り、3代目・笑福亭松鶴、初代・笑福亭福松らと一緒に「三友派」を立ち上げた。
明治27年ごろ、桂春団治(皮田藤吉)の実兄・皮田元吉が、三友派の月亭文都に入門した。
桂春団治(皮田藤吉)も明治28年(1895年)に三友派の2代目・桂文我に弟子入りし、「桂我都(がとう)」という名前をもらい、落語界に足を踏み入れた。
桂春団治(皮田藤吉)が2代目・桂文我に入門したのは18歳の時で、この頃は本格落語を重んじる「桂派」が大阪演芸界の頂点に君臨しており、三友派は桂派を追い落とすために奔走している時期だった。
江戸時代の芸能人は被差別身分に置かれていたが、落語は武家に気に入られ、お座敷にも呼ばれていた関係から、被差別身分から外れたらしい。
このためか、明治時代の落語界は、格式と厳格を重んじており、些細なことにも非常に厳しかった。
あるとき、前座の桂春団治(皮田藤吉)が楽屋で狐うどんを食べていると、「真打(格上の落語家)が素うどんを食べているのに、前座が1銭5厘もする狐うどんを食べるとは末恐ろしい」と言う理由で、桂春団治(皮田藤吉)はクビを宣告される程だった。
桂春団治(皮田藤吉)は、狐うどん事件で恐ろしい思いをしたらしく、しばらくは狐うどんを食べる事が出来なかったという。
落語界は非常に厳しい業界で、些細なことでクビになっており、最終的には師匠の2代目・桂文我も手に負えなくなったようで、桂春団治(皮田藤吉)は明治35年に、2代目・桂文団治の弟子となった。
そして、桂春団治(皮田藤吉)は、2代目・桂文団治の弟子となった翌年の明治36年(1903年)に「桂春団治」を襲名した。
桂春団治(皮田藤吉)は、一般的に「初代・桂春団治」と呼ばれているが、明治36年に「桂春団治」を襲名している人が居るので、本当は「初代」ではなく「2代目・桂春団治」である。
本当の「初代・桂春団治」は、大阪の寄席「圭春亭」の主席が名乗っていた芸名で、本当の「初代・桂春団治」は2~3度、寄席に上がっただけの、ほとんど素人の無名の落語家だった。
つまり、桂春団治(皮田藤吉)は、素人に毛が生えた程度の名前しか襲名できなかったのである。
落語は実力の世界だったが、名前の格はいくら努力しても帰ることが出来ない。
桂春団治(皮田藤吉)は、被差別身分の出身ということについては気にしていなかったが、名前の格については異常なまでにこだわった。
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落語家は自分の看板を大事にするので、「看板の位置」や「字の大きさ」で対立が起きていた。
特に桂春団治(皮田藤吉)は看板の位置に執拗なまでのこだわりを持ち、名前の格が上という理由だけで、新参者の落語家が、自分の看板よりも上に看板が出る事に激怒し、それが我慢ならず、色々と事件を起こした。
さて、桂春団治(皮田藤吉)の後輩に2代目・桂小団治という落語家が居た。
2代目・桂小団治は賑江亭の席亭・藤原重輔の支援を得て上町の師匠(2代目・桂文団治)の直弟子になり、金をばらまいて人気を取り、「2代目・桂小団治」という名取りを襲名した。
そして、2代目・桂小団治は後から入ったのにスルスルと出世し、桂春団治(皮田藤吉)よりも上に看板があがるようになった。
このため、桂春団治(皮田藤吉)は、後輩の2代目・桂小団治の看板が、自分の看板よりも上がっている事に腹を立て、2代目・桂小団治の看板を墨で塗りつぶした。
さらに、桂春団治(皮田藤吉)は、俥(人力車)に乗っている2代目・小団治を襲撃し、2代目・小団治を俥から引きずり下ろしてボコボコにするという事件を起こした。
ところが、俥(人力車)に乗っていたのは2代目・小団治ではなく、師昇格の2代目・桂文之輔(粉団治など諸説あり)だった。
この一件で桂春団治(皮田藤吉)は大阪に居られなくなり、京都へと逃げ、しばらくは京都に潜伏していたが、大阪へ戻れなくなって困っていたころに、師匠の2代目・桂文団治から「許すから帰ってこい」という使いが来たので、大阪へと戻ることが出来た。
桂春団治(皮田藤吉)は大阪に住んでいたが、京都新京極の寄席「笑福亭」に出演しており、明治40年(1907年)ごろに京都の東松トミと知り合い、直ぐに肉体関係に発展した。
この東松トミが明治41年(1908年)に京都から尋ねてきて、桂春団治(皮田藤吉)の元に身を寄せた。
桂春団治(皮田藤吉)は「子供が出来たら大阪に来い」と言っていたので、通説では「東松トミは妊娠したため、大阪へ来た」という事になっているが、長男の誕生日から逆算すると、このとき、東松トミは妊娠していない。
さて、このとき、桂春団治(皮田藤吉)は、姉・アイの嫁ぎ先・間垣善吉の家の2階で、「お浜」という女と暮らしていた。
そこで、桂春団治(皮田藤吉)は、京都から押しかけてきた東松トミに、「お浜」のことを「姉」だと紹介し、奇妙な3人暮らしを開始した。
東松トミは純情だったので、「お浜」のこと「姉」だと信じていたのだが、東松トミが「お浜」の事を疑問に思うようなった矢先、「お浜」は他に男を作って出て行った。
これを機に、桂春団治(皮田藤吉)は東松トミを連れて長屋へと移り、2人で新婚生活を始めた。
そして、東松トミが明治44年(1911年)1月18日に長男・皮田春男を出産したため、同年2月17日に婚姻届けを提出して正式に結婚した。
桂春団治(皮田藤吉)は字が書けないため、兄・桂玉団治(皮田元吉)が代わりに役所に届けたという。
しかし、兄嫁「さき」(兄・皮田元吉の妻)が子供を連れて来たとき、兄嫁「さき」の子供が百日咳に感染していたので、長男・皮田春男は百日咳を移され、明治44年(1911年)6月に生後5ヶ月で死去していまう。
桂春団治(皮田藤吉)は私生活の破天荒な芸人として有名だが、そうした一方で弟子や女中には優しく、母親想いだった。
しかし、母・皮田ヒサは大正元年(1912年)9月に死去してしまう。
その翌年、妻・東松トミが大正2年(1913年)1月18日に長女・皮田ふみ子を出産した。1月18日は、2年前に死んだ長男・皮田春男の誕生日だった。
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桂春団治(皮田藤吉)は自分の貧乏話しを、おもしろおかしく語ったり、川に飛び込んで話題を作ったりして、「八方破れの春団治」「すかたん」として人気になっていった。
桂春団治(皮田藤吉)は給料は増えていったが、家に入れるお金は車代の半分にしかならなかったので、妻・東松トミは寄席「紅梅亭」で働くお茶子の着物や帯を仕立て直す仕事を引き受けて生活費を稼いだ。
桂春団治(皮田藤吉)は自分の貧乏話しおもしろおかしく語り、「八方破れの春団治」として人気になって行ったが、落語家は厳格と格式を重んじていたので、桂春団治(皮田藤吉)を浮浪者扱いして、嫌う落語家も多かった。
しかし、桂春団治(皮田藤吉)は、三友派の指導者的存在だった、寄席「紅梅邸」の女席主・原田ムメに気に入られて順調に出世していき、大正3年(1914年)に「真打」に昇進した。
落語家の階級は「前座」「2つ目」「真打」の3階級しなかなく、「真打」が最高階級なので、どんな名人でも、階級は同列である。
なお、桂春団治(皮田藤吉)は、破天荒な私生活で話題を作って人気を得ていたが、真打までは古典落語を忠実に守っており、「落語を崩壊させた」と言われる独特の個性を発揮するのは真打に昇進してからでのことである。
桂春団治(皮田藤吉)が「真打」に昇進した大正3年(1914年)に、寄席「紅梅邸」の女席主・原田ムメが死去し、指導者的な存在を失った三友派は衰退していくが、桂春団治(皮田藤吉)はスキャンダルを起こして人気を集めるという手法で、人気落語家へと上り詰めていくことになる。
桂春団治(皮田藤吉)は、真打に昇進した大正3年(1914年)に、ひいきにしていた芸者置屋「京屋」の芸子・相香を連れ、四国の徳島県へ駆け落した。
さいわい、駆け落ち先は直ぐに分かったので、芸者置屋「京屋」の主人は、桂春団治(皮田藤吉)の妻・東松トミに2人を連れ戻すように頼んだ。
妻・東松トミは小さい長女・皮田ふみ子を背負って徳島県へと渡ると、確かに桂春団治(皮田藤吉)は芸子・相香と夫婦気取りで生活していたのだが、家主によると、2人は今朝、家を出たっきり、帰ってこないのだという。
部屋に桂春団治(皮田藤吉)らの荷物が残っていなかったので、妻・東松トミは諦めて大阪の自宅に帰ると、桂春団治(皮田藤吉)が帰宅していた。
妻・東松トミが背負っていた長女・皮田ふみ子を下ろすと、桂春団治(皮田藤吉)は長女・皮田ふみ子を抱いて、「かんにんしてや。もうどこにも行かへんから」と謝ったのであった。
後に、桂春団治(皮田藤吉)は内弟子の2代目・桂小春団治に「芸人は法律に触れることでなかったら、名前を売るために何でもせなアカン。駆け落ちの2回や3回やるくらいやなかったらアカンのや」と語っている。
こうした破天荒なエピソードの数々が、歌謡曲「浪花恋しぐれ」の「芸のためなら女房も泣かす。それがどうした文句があるか」という歌詞のモデルになっている。
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大正3年(1914年)12月3日、大阪府大阪市中央区道修町にある薬問屋「岩井松商店」の主人・岩井松之助が死去し、その妻「岩井志う(いわい・じゅう)」が未亡人となった。
それは、桂春団治(皮田藤吉)が37歳、未亡人「岩井志う」が46歳のことである。
薬問屋「岩井松商店」は繁盛していたので、相当な金を持っており、主人・岩井松之助の死後、親族が口を出して岩井家はゴタゴタしたらしい。
このため、岩井家に出入りしていた髪結いの女性が、未亡人「岩井志う」の事を心配し、桂春団治(皮田藤吉)の落語を観れば気分転換になるだろうと考え、未亡人「岩井志う」を寄席に連れて行った。
それは親切心だけでは無く、髪結いの女性は、芸人と出来ていたので、未亡人「岩井志う」のお供で寄席に通えるようになれば良いという算段も働いていた。
さて、桂春団治(皮田藤吉)の落語は早口で擬音を多用した漫才のような落語で、余りの面白さに気に入った「岩井志う」は、お忍びで寄席に通うようになり、桂春団治(皮田藤吉)を贔屓にするようになった。
ところで、桂春団治(皮田藤吉)は人気の落語家だったが、遊ぶ方が派手で、寄席に上がる衣装にまでお金がまわらなかったため、衣装について苦情が来ており、衣装が大きな問題となっていた。
そこで、桂春団治(皮田藤吉)は正月の衣装を作るため、未亡人「岩井志う」に借金を申し込むと、未亡人「岩井志う」は快く、頼んだ額の30倍ものお金を融通してくれた。
翌日、家に呉服屋が来たので、桂春団治(皮田藤吉)が衣装を3着注文したのだが、呉服屋は料金は必要ないと言った。なんと、未亡人「岩井志う」が先に料金を払っていたのである。
桂春団治(皮田藤吉)からしてみれば、年は9歳も上だが、大家の「ごりょんさん」で、大金を貢いでくれるし、かなりの美人である。
桂春団治(皮田藤吉)は、こんな支援者を他の芸人に取られてはいけないと思い、妻・東松トミに相談すると、妻・東松トミも同意した。
桂春団治(皮田藤吉)は、読み書きは出来なかったが、女性には自信があったため、始めは金づるをつなぎ止めておく程度の気持ちで、早々と未亡人「岩井志う」と良い仲になった。
ところが、桂春団治(皮田藤吉)は、女好きだったので、ミイラ取りがミイラとなってしまい、妻子を捨てて未亡人「岩井志う」に走ったのである。
未亡人「岩井志う」は、桂春団治(皮田藤吉)を相当、愛していたらしい。
ある雪の日の夜、紅梅亭から帰ってきた桂春団治(皮田藤吉)が長女・皮田ふみ子を抱いて自宅で寝ていると、戸をドンドンと叩く音がした。
妻・東松トミが戸を開けると、未亡人「岩井志う」が立っており、大きな声で「お師匠はん(桂春団治)、あんた、どこの家で寝てはりますの?」と怒った。
それを聞いた妻・東松トミは、「お志うさん、あんた、何という事を言わはります。春団治が自分の家で子供と寝てるのに、どこで寝てるとは、何です。お父さんは、なるほど芸人ですから、金で買えるでしょうが、親子の情は金では買えまへん」と怒り返した。
これ以降、46歳の未亡人「岩井志う」は正妻の座を狙い、25歳の妻・東松トミに嫌がらせを本格化させ、修羅場を展開していくのであった。
やがて、未亡人「岩井志う」と桂春団治(皮田藤吉)の関係が、岩井家の親族の間で問題となり、親族は岩井家の名誉を守るため、未亡人「岩井志う」を岩井家から追い出すことにした。
しかし、未亡人「岩井志う」は除籍を拒否した。
未亡人「岩井志う」は旧姓「藤本」であり、「岩井」は夫の姓だったが、未亡人「岩井志う」は「岩井」という姓に拘って除籍を拒否したのである。
これは、「皮田」という姓は大阪の被差別身分を表す名前だったので、未亡人「岩井志う」は「岩井」の方が格上だと考え、桂春団治(皮田藤吉)と結婚して、桂春団治(皮田藤吉)に「岩井」という格上の姓をプレゼントするためだったという。
兎にも角にも、未亡人「岩井志う」が除籍を拒否したため、岩井家の除籍騒動は民事裁判に発展した。
しかし、判決は未亡人「岩井志う」の勝訴となり、親族は未亡人「岩井志う」の除籍に失敗してしまった。
ところで、未亡人「岩井志う」は、薬問屋「岩井松商店」の金を湯水の如く、桂春団治(皮田藤吉)につぎ込んでいた。
そこで、親族は大正6年(1917年)3月、これ以上、薬問屋「岩井松商店」の金には手を付けらぬよう、未亡人「岩井志う」に大金を与えて分家させ、岩井家から未亡人「岩井志う」を追い出したのである。
未亡人「岩井志う」が受け取った大金の額には、6万円・7万円・35万円など諸説あって正確な金額は分からないが、一番少ない6万円でも、現在の価値で4000万円ほどになるらしい。
こうして、「岩井」姓と大金を手に入れた未亡人「岩井志う」は、岩井家を出て、下町寺に家を借りて移り住み、桂春団治(皮田藤吉)と結婚する準備を整えた。
しかし、桂春団治(皮田藤吉)には東松トミという妻が居るため、未亡人「岩井志う」は桂春団治(皮田藤吉)と結婚する事が出来ない。
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未亡人「岩井志う」は、お金持ちだったので、その金を目当てに、相当な数の芸人が桂春団治(皮田藤吉)に弟子入りしており、弟子も未亡人「岩井志う」に味方して、妻・東松トミに「春団治の出世のために身をひくべき」と離縁を迫った。
さらに、未亡人「岩井志う」は、寄席の席主にもお金を融通していたので、寄席で働くお茶子の着物をしてていた妻・東松トミは仕事まで失ってしまう。
妻・東松トミは、数々の嫌がらせを受けたうえ、弟子と姦通しているなどと誹謗中傷されても、桂春団治(皮田藤吉)は長女・皮田ふみ子の所に戻ってくるだろうと思い、何とか耐えていた。
しかし、桂春団治(皮田藤吉)を憎んでいる連中が、これをチャンスとみて、桂春団治(皮田藤吉)の人間性を誹謗中傷し始めたので、妻・東松トミは桂春団治(皮田藤吉)の名誉を守るために離婚を決意したのであった。
こうして、桂春団治(皮田藤吉)は、大正6年(1917年)6月14日に妻・東松トミと長女・皮田ふみ子を捨てて離婚し、翌日の同年6月15日に未亡人「岩井志う」と結婚して、岩井姓へと代わり、岩井家の戸主となった。
被差別身分出身の桂春団治(皮田藤吉)が良家の後家さんと「岩井」という姓を手に入れたので、新聞や週刊誌が一連の事件を「落語家が道修町の後家さん(未亡人)を射止めた」と大きく報じた。
民衆はこれに大喜びし、桂春団治(皮田藤吉)を見るために寄席に詰めかけたので、桂春団治(皮田藤吉)の人気はよりいっそう高まり、「後家殺し」の異名で、三友派の人気落語家へと駆け上がったのであった。
(注釈:「後家殺し」は浄瑠璃や義太夫に使用する褒め言葉、かけ声で、落語にも「後家殺し」という話しがある。)
一方、妻・東松トミは離婚するときに手切れ金として300円を受け取っていたので、マスコミから「夫を金で売った」と批判された。
桂春団治(皮田藤吉)は、未亡人「岩井志う」と再婚すると、弟子たちに未亡人「岩井志う」を「ごりょんさん」と呼ばせた。
また、桂春団治(皮田藤吉)は弟子と同じ食事をしていたが、酒好きの未亡人「岩井志う」には徳利2本を付けた。
酒が買えないときは、自分の徳利の中身をサイダーにして、未亡人「岩井志う」の晩酌に付き合った。
こうしたエピソードを見ると、桂春団治(皮田藤吉)も未亡人「岩井志う」を愛していたようである。
離婚後、前妻・東松トミは、桂春団治(皮田藤吉)が長女・皮田ふみ子に会いたがるだろうと思い、大阪に残って悉皆屋(しっかいや/着物屋を染める仲介業)を始めていた。
しかし、桂春団治(皮田藤吉)は道端で妻・東松トミを見かけると、一目散で自宅へと逃げ帰る有様だったので、妻・東松トミは呆れて、長女・皮田ふみ子を連れて京都へと帰った。
その後、前妻・東松トミは、京都の新京極の周辺を支配していたヤクザ「丸音組」の親分・永田音末の妾となって子供を産み、親分・永田音末と結婚したのであった。
「落語家・桂春団治(皮田藤吉)の立志伝の後半」へ続く。
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