NHKの朝ドラ「わろてんか」に登場する川上四郎(松尾諭)の実在のモデルの紹介です。
川上四郎(松尾諭)は活動写真(無声映画)の伴奏をしていたが、活動写真がトーキ映画(有声映画)に変わったため、失業してしまう。
そこで、伊能活動写真の伊能栞(高橋一生)が、女優から漫才へと転向した秦野リリコ(広瀬アリス)の相方として、川上四郎(松尾諭)を紹介した。
しかし、川上四郎(松尾諭)は不細工だったので、秦野リリコ(広瀬アリス)が拒否。すると、川上四郎(松尾諭)も怒ってコンビを断り、2人は険悪な関係になる。
ところが、藤岡てん(葵わかな)は女性を主役とする漫才を考えており、この2人にコンビを組ませたいと思った。
すると、亀井庄助(内場勝則)が秘策があると言い、秦野リリコ(広瀬アリス)には泣き落としでコンビを承諾させ、川上四郎(松尾諭)には金を積んでコンビを承諾させた。
こうして、川上四郎(松尾諭)は秦野リリコ(広瀬アリス)とコンビを組み、「ミスリリコ・アンドシロー」を結成するのであった。
しかし、川上四郎(松尾諭)は、音楽家だったので漫才などしたことがなく、滑舌が悪い上に棒読みだったので、漫才は全く面白くない。
藤岡てん(葵わかな)は、新聞で「ミスリリコ・アンドシロ-」を酷評されたことから売り出し方に悩んでいたが、万丈目歌子(枝元萌)と万丈目吉蔵(藤井隆)の夫婦喧嘩をヒントにして「しゃべらない漫才」を思いつく。
川上四郎(松尾諭)は「しゃべらない漫才」を拒否して漫才の特訓を続けるが、川上四郎(松尾諭)の喋りが上手くなればなるほど、「ミスリリコ・アンドシロ-」の漫才は受けなくなっていくのであった。
そこで、秦野リリコ(広瀬アリス)が藤岡てん(葵わかな)の意図を知り、川上四郎(松尾諭)を説得して「しゃべらない漫才」を開始すと、「ミスリリコ・アンドシロ-」の漫才は受けるようになっていくのであった。
そして、こうした紆余曲折の中で、川上四郎(松尾諭)と秦野リリコ(広瀬アリス)はお互いに惹かれ合い、交際に発展するのであった。
そのようななか、「ミスリリコ・アンドシロ-」は新世紀芸能から引き抜きを受けるが、断った。
ところが、川上四郎(松尾諭)は、伴奏時代の仲間から、上海で設立する楽団に誘われると、激しく心を揺らすのであった。
川上四郎(松尾諭)は、漫才の好きな秦野リリコ(広瀬アリス)のために、楽団の誘いは断り、音楽家への未練を断ち切るために楽譜を燃やす。
しかし、秦野リリコ(広瀬アリス)は川上四郎(松尾諭)の本心を知って、漫才の夢よりも女のしわ早生を選ぶと言い、漫才を辞めて上海へついて行くことを決めた。
こうして、川上四郎(松尾諭)は秦野リリコ(広瀬アリス)を連れて上海へ渡り、楽団に加わったのだが、その後、時節の影響で楽団が解散してしまい、上海のバーでピアノを弾き、秦野リリコ(広瀬アリス)も食堂で働いて生計を立てた。
そのようななか、武井風太(濱田岳)が演芸慰問団「わろてんか隊」を率いて上海に来ており、秦野リリコ(広瀬アリス)は偶然にも武井風太(濱田岳)と再会する。
そこで、秦野リリコ(広瀬アリス)は漫才コンビ「ミスリリコ・アンドシロ-」を再結成し、武井風太(濱田岳)の「わろてんか隊」に加わり、漫才に復帰するのであった。
スポンサードリンク
川上四郎(松尾諭)の実在のモデルは、ミスワカナの相方・玉松一郎です。
玉松一郎は、大阪府大阪市淡路町の出身で、大阪貿易語学院を卒業して、音楽家を目指して楽天地で無声映画の伴奏をしていたとき、ミスワカナと出会い、大恋愛に落ちる。
しかし、当時の漫才師は乞食当然の扱いを受けていたので、玉松一郎は両親に交際を許されず、無声映画の伴奏の仕事も辞めさせられてしまった。
一方、ミスワカナも、両親が決めた許嫁が居たので、鳥取に居る許嫁の元へ強制送還させられ、許嫁と結婚して長女・三崎希於子を儲けた。
しかし、芸界を諦められないミスワカナは、3年後に故郷を逃げ出して再び大阪へと舞い戻ると、玉松一郎も再び無声映画の伴奏をしており、2人は運命の再会を果たす。
2人の恋の炎はメラメラと燃え上がり、その日のうちに、駆け落ち同然で汽車に飛び乗り、広島へ向かい、汽車の中で漫才コンビ「ミスワカナ・玉松一郎」を結成した。
そして、広島で、ミスワカナが漫才を主導し、玉松一郎がセロを弾いて受け答えするだけの、漫才を始めたが、当時は受けず、玉松一郎は曲芸などのアルバイトもしていた。
その後、ミスワカナと玉松一郎は西へ西へと流れていき、中国の青島に行き着いたが、玉松一郎は肝臓の病気にかかり、働けなくなってしまったため、ミスワカナが怪しげな店でダンサーとして働いて生計を立ていた。
玉松一郎はそれに絶えきれなくなって、自殺を図るが、ミスワカナに見つかって未遂に終わる。
ミスワカナはこれを機に帰国を決め、玉松一郎と再び漫才を開始。日本で全国巡業をしていたときに、吉本興業の林正之助に招かれ、吉本興業に所属する。
当初はパッとしなかったが、ミスワカナは洋服をステージ衣装に採用し、玉松一郎もアコーディオンを使うなどして、次第に人気を上げていった。
そして、皇軍慰問隊「わらわし隊」に参加して、地方の言葉や現地の言葉を巧みに操り、戦地慰問では兵士を笑わせ、帰国後は観客の涙を誘う「泣ける漫才」をやり、吉本興業のスターへとのし上がった。
その後、松竹が演芸界に進出するため、吉本興業の芸人を引きにかかり、ミスワカナと玉松一郎は松竹の「新興キネマ演芸部」に移籍した。
松竹は吉本興業から数組のトップスターを引き抜いて演芸界に進出したが、芸人の層の厚さの方は吉本興業に敵わず、興行での勝負で吉本興業に負けて消滅してしまう。
ミスワカナは吉本興業に戻ろうとしたが、流石の林正之助は認めなかった。
その後、ミスワカナは東京からきた役者を好きになり、玉松一郎に「退いてくれ」と言い出した。
ミスワカナは言い出したら聞かないので、玉松一郎は困り果てたが、昭和19年(1944年)にミスワカナと離婚して、離婚後も漫才のコンビは継続した。
戦後も漫才を続けたが、昭和21年(1946年)10月14日に、ミスワカナが阪急西宮球場での野外演芸会の帰りに心臓発作を起こして急死した。享年36。ヒロポン中毒が原因だとも言われる。
ミスワカナの死後、玉松一郎はミヤコ蝶々とコンビを組むが、ミヤコ蝶々もヒロポン中毒でろれつが回らないため、直ぐに解散した。
その後は、ミスワカナの実の娘・三崎希於子とコンビを組んだが、これも解散し、次にミスワカナの弟子・河村節子とコンビを組んで、晩年まで漫才を続けたが、あまりパッとしなかった。
玉松一郎はミスワカナの相方という程度しか知名度がないのですが、芸能界に注射器を流行らせたという功績があります。
当時、芸能界ではカメラが流行していたが、戦争の影響でフィルムが手に入らなくなり、食料の悪化から、芸人の間でビタミン剤や栄養剤が流行していた。
そこで、玉松一郎は知り合いの医者から注射器の使い方を教わり、栄養剤を持ってきて、楽屋で注射器を使って栄養剤を打つようになった。
これが切っ掛けで、芸能界で注射器が流行した。ミスワカナにヒロポンを勧めたのも、玉松一郎だったという話も残っている。
なお、「わろてんか」の実話は「わろてんか-実在のモデル」をご覧ください。
スポンサードリンク
Copyright(C)2010年9月 All Rights Reserved.